第3話 追憶A
――人と人を繋ぐものがなにか、知っているかい? リゼ。
研究所で彼はよく、私に問うた。
――知っているわ。それは、愛でしょう?
答えると、じゃあ、と彼は次の質問を投げかける。
――四大と四大を繋ぐものはなにか、知っているかい? リゼ。
初めて聞いたとき、私はよくわからなくて、困り顔をしていたのを覚えている。彼はそんな私を見つめ、嬉しそうに、そして自身ありげに胸を張り、こう言うのだ。
――それもね、また、愛なのさ。
薄灰の長い髪を指先で弄びながら、彼は灰の目を細める。
憂いを帯びた目を、常に少しの悲しみを滲ませたような目を、私は愛おしいと思っていた。その哀愁漂う瞳に、私は惹かれていたのかもしれない。その世界を嘆くような瞳を、私は救ってあげたかったのかもしれない。
今思えば、彼は知っていたのだろう。見据えていたのだろう。自らの死期というものを。あまりにも残酷すぎる、神が与えたとかいう運命を。ただ日々打ち込んでいた研究が秘匿される結末を。他愛のないことで笑いあった毎日の終幕を。
――人と人の繋がりを断つものがなにか、知っているかい? リゼ。
私が死に、新たな私を創り出しながら、彼は私に問うた。
わからないわ。そう答える口もないので、私は心の中で答えた。彼は私の答えを感じ取ったのだろう。彼はその灰の瞳を宵闇色に染め、乾き裂けた唇を開いた。
――それはね、リゼ。どうしようもないほどの、憎しみなのさ。
新たな私が生まれた日に、私はモントシュタイルの朝刊紙で彼が死んだことを知った。彼の亡骸はどこにもなかった。彼の研究の記録も、研究所そのものも、全て灰となっていた。王立研究所の奴らに燃やされたのだ。その王立研究所の奴らも、半数が行方不明となっている。
――貴方、実験は成功したのね。
私は嬉しくて笑った。いや、悲しくて泣いていたのか。そのどちらもかもしれない。
行方不明者は飲み込まれたのだろう。彼の、憎しみの塊に。憎しみは彼らをばらし、無へと帰したのだ。これは、彼の提唱していた理論を確立させた。大いなる研究結果だ。彼はその命が尽き果てる前に、己の研究資料が消されたとしても、研究結果を最期に残したのだ。
……そう、最期なのだ。
彼はもういない。死んだのだ。いや、殺されたのだ。なんの罪もない彼が、研究仲間だと信じていた者たちに、無残にも、研究記録を燃やされて。彼が殺されたのはその肉体ばかりではない。研究者としての心も、魂も、引き裂かれ燃やされたのだ。
「……赦しはしないわ」
たとえ世界を破壊しても、私はあの人を生み出してみせる。
かつて私を失った彼が、私を生み出したように。
「――エルヴァーリオ様!」
ふと現実に引き戻された。慌ただしい足音、喧騒。声に目を向けると、数人の兵士たちがロンダイト聖王国教皇、エルヴァーリオに走り寄っているところだった。
「地下には灰以外なにも残ってはおりませんでした」
「……端的に言うと?」
「……逃げられました」
兵士の報告に、エルヴァーリオは汗ばんだ顔を青ざめさせた。やつれた頬に、乾いてうねった細い銀糸の髪が張り付いている。
主神エルを奉るために設えた神殿。夕暮のぬくもりに優しく照らし出されたそこは、まるで地獄だった。
焦げた神殿一帯に降り積もった灰。刺し違えたか、仲良く息絶えた王国兵。そして聖堂の中には、まるで拷問にでもかけられたような、おぞましく歪曲した死体がひとつ、転がっていた。その血だまりに膝をつき、私は顔を顰めた。火は嫌いだ。忌まわしき記憶を思い起こさせるから。
「なんということだ……」
エルヴァーリオは呟く。
神となった人の子、エルヴィア。神の力と憎しみを宿した人の子を、野放しにしたらどうなるか。それは、火を見るより明らかだ。
黒のドレスに鮮血の赤が迸る。エルヴァーリオの声を聞き流しながら、私はその鮮やかな鮮血に目を細めた。次にやってきたのは、司祭たちらしい。
「……丁重に死体を埋葬しろ」
「イドリアはいつ頃行いましょうか」
「なるべく早くがいい。魂が逃げてしまうだろう」
エルヴァーリオの言葉に司祭は恭しく頭を下げ、神官たちを連れて外へと消えた。エルヴァーリオはその背を追い、重たい息を吐く。
イドリアとは魂結びの儀式だ。人は死を迎えると、魂となる。それは死後三日までは滞在しているが、三日を過ぎると完全消滅してしまうのだ。それまでにイドリアを行えば、その魂は新たな肉体を得ることができる。その魂の性質を受け継いだまま、だ。
だからあの人の魂は、四大の結晶石の中に封じられた。魂を野放しにし、誰かの手によって勝手にイドリアを行われては困るからだ。顔が自然と顰められる。
「エルヴァーリオ様!」
ちょうど司祭と入れ替わるように入ってきたのは二人の伝令だった。息を切らせたその様子を見るに、よほどの急用であるようだ。張り合うように、私が先にと言わんばかりの勢いで、エルヴァーリオのもとへと駆け寄る。
「どうした」
「聖山の麓の村が……ヒステリーを起こしています……っ!」
「反クレオール教の者たちが……今回の一件で蜂起しているようです……っ!」
エルヴァーリオは聞きたくないとばかりに顔を背けた。痛むであろう頭を押さえ、二人の伝令に命じる。
「……お前は民をなだめに城の司祭たちを、お前は城の兵をできる限り多く向かわせろ。なるべく早くだ、いいな?」
「分かりました」
伝令たちは飛び出していった。城に鳩でも飛ばすのだろう。民の心は、相当に荒んでいるようだ。無理もない。強大な力を持つ者が逃げだした。その事実は、身の危険を感じざるを得ない。それはクレオール教の者たちも、反クレオール教の者たちも同じだろう。
騒がしい神殿の中、私は呆然と立ち尽くすエルヴァーリオの肩に手を乗せた。
「そうお悔やみにならないで」
「黙れっ!!」
しかし、その手は乱雑に振り払われてしまう。それも無理はないだろうが。
エルヴァーリオが救おうと思い、そして救うことができなかった王子。その悔恨ごと、罪を地下に封じ込めた哀れな父。だが、殺すという選択までは選べなかった。……愛しい妻が残した、たった一人の、世継ぎとなるべくして生まれた王子であったから。
私の手を振り払い、エルヴァーリオはその手を固く握りしめた。
「あの時、気づけていたなら……っ!」
そう言って彼は目を瞑る。深い皺の刻まれた乾いた横顔は、ただ後悔と悲痛を湛えていた。彼の狂おしいまでの自責の念に、私は告げる。
「あの時のあなたは盲目でした。エル様のお体、それ以外なにも見えていなかった。ですが、それも仕方のないことです。愛は、なによりも人の目を見えなくさせる」
エルヴァーリオは答えなかった。うなだれた顔は苦しげだ。きっと、思い出しているのだろう。何度もそうだった。あの日、過ちの始まりを思い出して、彼は涙を流す。
私は彼の肩に手を置いた。
「あなたの選択は、決してよい選択とは言えなかったでしょう。結果として、数多の兵を、民を犠牲にしてしまった。ですが、あなたのエル様を想うお気持ちだけは、紛れもない真実であり、善き行いなのです」
今度は、彼は手を振り払うことはなかった。
そうして、静かに口を開く。
「……私は、どちらを取るべきなのだろう」
声に交じって、湿った息が聞こえてくる。
「家族と、この世界と」
私はなにも答えなかった。彼も、それ以上は続けなかった。
神の血を飲めば、王子の体は治る。そう、エルヴァーリオは城下の占い師に言われたという。しかし、その神によって得た王子の力に、エルヴァーリオ含むロンダイト聖王国は野心を覚えたのだ。妻の復讐を果たすため、西の強国を征服。強大な敵となるものは、王子の力でねじ伏せた。結果、神によって保たれていた均衡が乱れ、どちらをも失うこととなってしまった。
後悔したのは、その時だと彼はいつも言っていた。欲をかいた果ての滅亡だと。
「エリーゼ……全てはそなたが見た通りでないか……っ!」
エルヴァーリオが零したその名は、愛しい者の名。星読みの予言者だという賢女だ。
死者を蘇らせる秘術は、彼に微笑んだのだろうか。微笑むわけがない。秘術は秘術であるがゆえ、誰もが使えるわけではないのだから。
サンクチュアリーを見上げる彼には、かつての威厳に満ち溢れた威風堂々たる彼の王の姿はどこにもない。
ただ子を想い悩む、一人の父親がそこにはいた。
私は、その小さな背に頭を下げた。
「きっと、見つかることでしょう」
――きっとではない。必ず、見つけ出すのだ。
そうでなくては、意味がなくなってしまう。
エルヴァーリオに神を殺させた、その意味が。
外では、兵士たちが汗をたらし、せわしなく死体を馬車へと運んでいた。不気味なほど静かだ。業務用の声しか届いてこない。それもそうだろう。かつて共に働き、酒を酌み交わしていた者たちが、あっという間に殺されてしまったのだ。暗い顔に流れる水は、果たして本当に汗なのだろうか。
「クソっ、なんでこうなっちまったんだよ」
馬車にもたれかかった赤毛の男が吐き捨てた。汗を拭った別の男は隣に並び、馬車を叩いた。
「分かりきったことじゃねぇか。あの狂人教皇のせいだろうがよ」
馬車が揺れる。馬が小さく嘶き、ぶるりと身を震わせた。男は唾を吐き捨てる。今や、それを咎める者はいない。皆、それどころではないからだ。
赤毛はせっせと働く兵を、神殿に祈る神官たちを嘲笑った。
「いいよなぁ、馬鹿どもは。のうのうとなにも考えず祈り捧げてりゃあ、幸せになれるんだからよぉ。クソが、んなのが幸せなわけあるかよ。あぁ?」
「フリューギウス一家のせいで、国が、いや、世界が終わるってな。こりゃあ傑作だ。ここまで壮大な内輪揉めがあるか? 歴史書に乗るレベルだぜ?」
「違いねぇ。まぁ、もっと傑作なのは」
二人が視線を向けたのは、神殿を仰ぐ兵士と神官だ。
「狂人教皇に同情して、狂人子息を崇拝してる奴らだよな」
彼らの愚痴には概ね同意だ。奴らは皆、口をそろえてエルヴァーリオの名を叫ぶ。異様なまでに盲目的で、狂信的。それは欲望の犠牲となり、狂気の使途と変わり果ててしまったエルヴィア王子に対する自責の念に駆られているからだろう。それだけならよいものを、そのどれもが、罪滅ぼしをしたいという至極真っ当な願いが根本にあるから頂けない。誰も疑っていないのだ。大司教の言う、「罪滅ぼしの祈り」を。
赤毛は見たくないとばかりに首を振り、視線を落とした。
「俺はこの国の未来が――いや、世界か。心配だよ」
「もう終わりに決まってんだろ? まぁ、まだ救世主がいねぇとは限らねぇけどさ」
男がウインクを私に向けた。吐き気を催すほどに気持ちが悪い。
私は彼らを無視し、馬車へと急いだ。その道中にも、愚痴や後悔の声が耳に入ってきた。大司教様なら狂ったエルヴァーリオ様を。世界は終わりだ、クソったれが。この罪をお赦しください、エル様よ。いや、でも俺は救世主を信じてるぜ、こんなクソったれた世界に革命を起こしてくれるってな。
まったく、愚かだ。私は嗤った。どちらとも変わりない。クレオール教は自己犠牲に投じる自分に酔っている愚者。反クレオール教は確実にもたらされた恩恵を忘れて吠える愚者。なにが違うというのだ。私からすれば、どちらも同じに見えてならない。
――だが、それでこそ操作しやすいというものだ。
かつて賢者は言った。神職者と詐欺師は表裏一体。時に詭弁は伝道になりうる、と。
それに気づけぬ愚者たちは、悔恨を胸に、赦しを得ようと意気込むのだ。感謝を忘れ、叩くのに徹するのだ。
最後に笑うのは、愚者たちでもエルヴァーリオでも、エルヴィア王子でもない。
すべてを欺いた大司教、ただ一人なのだ。
馬車と共に見えてきたのは、くせっけの茶髪、コルニだ。彼は私を見つめると、深く頭を下げて、扉を開く。
「お帰りなさいませ、リゼルダット大司教様」
畏まったコルニの言い方に、私はなんだか恥ずかしくなった。馬車に乗り込み、扉を自分で閉めながらコルニに告げる。
「そんな呼び方はやめて。大司教なんて、あのバカたちに混ざったみたいで嫌なんですもの」
自分が語るのは良いが、私を知る者に呼ばれるのは嫌だ。コルニまであちら側になってしまったようで気持ち悪い。だからやめてというと、コルニは頭を軽く下げた。
「それはすみません、リゼルダット様。馬車が揺れますので、ご注意を」
燕尾服の襟を直し、コルニは柔らかな笑みを返した。燕尾服に童顔の彼には、貴族の末っ子のようなあどけなさがある。だが、今のその笑みには、その口ぶりには、しっかりした長男のようなものがあった。義理堅く、しっかり者で、それでいて親しみやすい。私もあの人も、そんな彼が好きだった。
「えぇ、
頷きと微笑みを返すと、鞭のしなる音と馬の悲鳴が響き、馬車が揺れ動いた。窓から見える神殿の姿が遠ざかっていく。心地の良い揺れに身を任せ、私は目を閉じた。
――どうしたんだい、リゼ。
浮かび上がるのは、いつもあの人の顔だ。
灰かぶりの長髪。なまめかしい薄い唇に、細く繊細な顔。透き通るような肌に、痩せた体躯。眼鏡の奥では、いつもどこか詩人めいた、憂いを帯びた灰の瞳を優しく細めていた。そして、私を見つめていた……。
その姿は、あの王子の姿と、よく似ていた。
「大丈夫ですか?」
声に顔を上げると、コルニが御者台から茶髪の童顔を覗かせていた。コルニは私の顔を見るなり、にぃと笑った。
「きっと……生み出せます。あの人の研究が間違っていたことは、一度たりともないんですから」
「……そうね」
その笑みは、人を落ち着かせるなにかがあった。空笑いなのは間違いない。その声はどうしようもなく震えていた。そして、視線は決してこちらと合うことはなかった。彼が嘘を吐く時のクセだ。本当は彼だってわかっている。あの人を創りだせるという可能性の低さを。彼の優しさには、いつも涙が止まらなくなる。
「あの人は正しかった。いつでもよ。そう、あなたを拾ったときも……だって、今ではあなたは私の大切な恩人なんですもの」
孤児だったコルニを拾ったのは、あの人だった。その日から、コルニは私たちの唯一の召使だ。生まれて間もなく、なにもできなかった私を支えてくれたのも彼だった。私たちは彼を弟のように愛している。彼もあの人を兄のように慕っているのだろう。だから、彼亡き今も、彼の側に居続けている。
「いえ、俺にとっては、あなたたちの方が恩人ですから。大丈夫です。必ず、成功させてみせるんですよ」
そうだ、成功させてみせるのだ。必ず、貴方を狭い檻の中から解放してみせる。
あの人の魂。それを繋ぎ止める虚無。そして、魂の拠り所となる肉体。
すべてがそろえば、またあの人は私を見つめてくれるのだから。
また、私と一緒に――。
私は虚空に思いを馳せた。
「あぁ、ラフェール……」
あぁ、貴方はなぜ、殺されなければならなかったの?
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