第2話 宵闇の灯火

 重たい鉄扉がこじ開けられた。

 その刹那、私は揺らぐ炎に一瞬映し出されたなにかの姿を見た。

 揺らぐ黒炎のような左腕。鋼か鉄か、黒光りする糸を何十も手繰ったような、歪曲した片角。甲冑を思わせる、昆虫のように節のある下肢。その顔にふたつ光るのは、静かに燻る炎の赤。その姿はまさに、異形と呼ぶにふさわしい。

 その姿を確認した途端、どうやらここは円形状の部屋であるようだ。散らばった砂礫や金属片を見るに、さっきの轟音は壁が崩れた音なのだろう。辺りには銀の皿と、原形をとどめていないなにかが散乱していた。

 司祭服の一人が、演技がかった悲しげな顔でこちらを見つめた。


「あぁ、エル様よ……世界をお救いになる救世主が、どうしてこのような所業を……?」


 彼が戯言を言っている間にも、鎧をまとった兵士はこちらにじりじりと詰め寄ってくる。どうやら、追い詰められてしまったようだ。

 私はそばに転がっている瓦礫の欠片を手で弄び、奴らを見た。


「恐らくだが……彼の神と同じく、もうとっくに狂ってしまっているのかもしれない……そう、途方もないほどの怒りと復讐に囚われているのだ……」


 始まりの神が死に、世界が混沌に満ちたとき、四柱の神はその中に四大を見出した。その後、それぞれの四大を探究した四柱の神は、世界の均衡を保つために、神殿に祀られた。いや、幽閉されたのだ。力に酔い、狂い果て、暴挙の限りを尽くしたために。それが四大の精神毒性作用によるものであるとも知らず、奴らは神を殺したのだ。そうして私は、新たに世界の均衡を保つための人柱となった。


「あぁ、復讐とは……なにも生まない、空虚なものだということを理解されぬか……」


 頭を抱えた司祭服。くだらぬおしゃべりの合間にも、兵士は武器と盾を構えてやってきていた。完全に囲まれてしまっている。私は膝をついて投降を示す。

 ――投降などと言うのも、少し冗談が過ぎたかもしれない。

 私は瓦礫片で手の甲を刺し貫いた。灼熱のような痛みが広がっていき、私はその手を振り払った。辺りに血と四大の、濃厚で甘美な匂いが立ちこめる。はたと奴らが顔を上げた頃には、勝敗は決まっているに等しかった。

 とっくに、四大は満ちすぎていたのだ。

 私は最期を告げるにふさわしい笑みを奴らに浮かべ、手を前にかざした。


 ――Dera blord.Ser,ce grube as Elvia.Ser'e fall fabet ce grube.Thine we sere rack,ferilz,loodiez,chat tyutind floom facthin,few tec di Gvars.――


「理解なら、とうにしている」


 歌い上げるは復讐物語。その序曲だ。

 吐き捨てた呪いは、この地を煉獄へと変貌させた。地面から揺らめき、立ち上る蒼い炎は、一瞬にしてこの部屋を覆いつくす。私の血を起点に燃え盛る蒼の火蛇は、奴らの体に襲い掛かると同時に消えた。その炎は対象が死ぬまで燃え続けるのだ。奴らは今、一瞬、コンマの間さえなく、灰と消えたのだ。


「確かに、復讐はなにも生まないだろう」


 火蛇は血から生み出され、蒼炎の海に逃げ惑う奴らを残らず絡めとり、灰へと帰す。阿鼻叫喚、地獄を歩きながら、私はその甘美なる音楽に目を細めた。


「――だが、私の気が満ちれば、それでよいのだ」


 私の体に流れる神の血は地面に弾け、濃密な香りを伴って四大へと変わる。四大に神詞cleyを乗せることで、それは物質として表面上に現れる。神のみに赦されたその業を、人は奇蹟と呼んだ。

 しかし、私の身に流れる血は、業は、呪いに等しい。

 愚者を嗤いながら、私は足元に転がった首輪を手に取った。触れただけで、そこから生気が奪われていくような感覚。完全に擦り切れ、掠れ、読めないが、何らかの文字が刻まれていたような、こじゃれた首輪である。私から力を奪い、ここに閉じ込められざるを得なくなった元凶だ。忌まわしい。私は舌を打ち、首輪を放り投げる。いつか炎に溶け、焼き払われるだろう。ここに転がり、駆けまわり、叫び悶える死体と共に。


さようならfonechen


 邪魔立てするものはもういない。奇声が耳につく牢獄から出ようと、鉄扉に向かって歩き出した時だった。


「――流石は、神殺しの英雄サンだ。やることがずいぶん派手なこって」


 予想だにしなかった声に、私は思わず驚愕した。振り返る、その顔を残念だったな、とあざ笑うかのように、異形の顔が歪む。


「まぁ、四大を糧としてさらに輝きを増す……そんな俺には、無意味だがな」


 すべてを焼き尽くす蒼炎。術者以外の生命に反応し、灰と帰すまで体を貪り続ける火蛇。そのひとつが勢いよくエインに向かった。しかし、火蛇はエインの体を焼き尽くすことはなかった。……その左腕の黒炎に、吸い込まれて消えてしまった。

 生きているようになまめかしく脈動する、エインの左腕。生き生きと油を受けたように燃え盛り、大気をゆらゆらと揺れ動かしている。

 四大を吸収して自らの力へと変える。四大をもとに構成された呪いも同じだ。私のこの呪いも、彼の前では無力だというのか。

 ……私には、彼を殺せないのか。

 私は視線を逸らし、扉の先へと目を戻した。


「それはよかった。これで気兼ねなく呪いを吐くことができる」

「あぁ、俺のことは構わんで大丈夫さ」


 これで、私はエインを殺せないことが分かった。それだけでも十分な成果だ。私は常に、彼を見張っていればよいのだから。

 舌を打ち、悲鳴を背景に牢を脱する。その先には、螺旋状に階段が上へと続いていた。今のところ、人が駆け下りてくる様子はない。私は蝋燭の頼りない光に導かれながら階段を駆け上がる。迫力ある呪いの調べは、だんだんと大きくなってくる。

 その先に広がる光景に、私は顔を顰めた。

 細く束ねたような大理石の柱。尖塔アーチで結ばれた天井。階段を上った先、牢のちょうど真上は、サンクチュアリーのような場所だった。と言っても祭壇のようなものはない。四方を取り囲む装飾柱と、ここを中心に放射状に置かれた椅子から、そう推測しただけだ。


「なんなんだ、これは……」


 一帯の長椅子には、無数の人間がいた。老若男女、果てまで続く長椅子を覆いつくし、このサンクチュアリーに祈りを歌っている。ある者は苦しげに、ある者は無表情に、ある者は涙を流しながら。共通するのは、私を見て逃げ出すものはひとりもいないということだ。

 その中で、最前席で一人、立っている者がいた。しゃがれた声で祈りを歌う老婆だ。老婆は私に気づいたか、祈りを止めてこちらを見つめた。そして、ひどく顔を歪ませる。


「あぁ、おいたわしや……たとえ世界があなた様を憎むというのなら、私はあなたに祈りを捧げましょう……」


 そう言って、老婆はまた手を合わせ、祈りの歌を歌い始めた。

 その調べは、ひどく私の胸をついた。

 だから私は、老婆の首を掴んだ。手を流れる血は四大を生み出す。


 ―― Ce floomer as grube.――


「祈りなど、誰が求めたのだ」


 呪いを吐き捨てると、手のひらに熱が宿り始めた。川と骨ばかりの乾いた首は、私でもほんの少し力を強めただけで根元から折れてしまいそうだった。老婆はその目を飛び出しそうなほど見開き、こちらを見ている。ただ、その震えた手と口だけは、祈りの聖歌を止めなかった。

 その調べが、私には呪詛のように聞こえたのだ。


 ――Valituly cf Gvars.――


「もし貴様が私を憐れんでいるというのなら、なぜ私を売った……神なぞの犠牲に!」


 誰も、私の味方などいない。皆が私を売ったのだ。聖人君主も、無垢な子供も、偽善者ぶったこの老婆でさえも。神の支配から逃れ、人間の時代を築きたいと思ったばかりに。それによって招かれた世界の崩壊を、その罪を、すべて私に押し付けて!

 老婆は最期に小さくふるふると首を振った。もう呪いは、ほとんど完成していた。老婆の行動が示したことが真実であれど、今更のことだ。

 私は、最後の呪いを口にした。


 ――Gvars,kips teliefe.――


「……私のためだというのなら、せめて、潔く灰に帰るがよい」


 燻りを宿す腕。そこから燃え盛った蒼炎は、老婆を一瞬で灰へと帰した。断末魔の悲鳴を上げることすら叶わない。残った灰は風に撒かれ、跡形もなく消えてしまった。

 パイプオルガンの旋律は、荘厳なる聖歌の調べは、今も聖堂を揺るがすほどに鳴り響いていた。


「……貴様らもだ」


 私は血を振りまき、呪いを紡ぎだす。聖歌はだんだんと大きくなっていく。


 ――E acarta floomer ime,e fog hi zine.Tite duid.Vendya ce zine.Tec di Gvars.――


「皆、等しく灰に帰るがよい!」


 私を取り巻くような灼熱の炎弧は、波のように人々を呑み込んでいった。波におぼれてなお、人々は祈りを止めない。全て灰と帰す、その時まで、オルガンの音は消えなかった。

 全てを燃やし尽くし、行き場のなくなった炎は、石造りの壁を焦がして失せた。

 灰だけが、人々の代わりに席についている。


「民のために犠牲となり、そして新たな神となった王子殿……その嘆きが、苦しみがいつか終わることを願い、今は祈り続けましょう……。

 よかったなぁ、信者は敬虔で」


 声に見上げると、サンクチュアリーの天蓋の上の講壇にエインは立っていた。エインは手に持っている小さな本をパラパラ捲ってみせると、私に投げた。それは聖典のようだ。


「罪滅ぼしの祈り、クレオール教だとよ」


 それは、おぞましいほどに美化された、主神エルの物語だった。主神エルは古き神を討ち、その力をもって人の時代を築いたという。神の死によってもたらされた暗黒を引き受ける人柱となってまで、人の時代を求めたのだ。暗黒の苦しみがいつか終わることを願って、主神エルの気を慰めるために、使徒たちは祈りを捧げ続けましょう――。


「見惚れるほど改竄された物語だ。それもまた、事実を史実から葬り去るには、よい手段かもしれぬがな」


 本当に、吐き気がするほど愚かしい所業だ。


 ―― Di Gvar.――


 私は本を放り投げる。僅かに血に濡れた本は宙を舞い、蒼の蝶となって灰に帰した。

 トレサリーの精緻で華やかな彫刻に刻まれたステンドグラスから零れる朝日。照らし出される椅子に座る何人もの愚者たちが、このサンクチュアリーの地下に拘束された私に祈りを捧げていると思うと、そのなんと滑稽なことか。皆が、この罪を隠蔽して塗り替えようとしているのだ。そのような所業、決して赦してはならない。

 そして、また、罪を地下奥底に封印しようとやってきた者たちの息吹が、扉の向こうから聞こえてくる。


「貴公、なかなか腕が立つように見受けられるが、その見立てに間違いはないか?」


 問うと、エインははんと笑った。


「まぁ、今はそう思ってくれて構わないぜ。主神エル様のおかげで、この場所は四大に満ち溢れているしな」


 煽りにも似た言い方に舌を打つ。だが、ここに並々ならぬ四大が満ちているのは、確かに私の体に流れる神の血のおかげだ。牢での話をまとめるに、彼の力は四大の量に依存するのだろう。ならば。

 私は卓上に置かれた燭台の針で、その左腕を切り開いた。眩むほどの激痛に、舌を噛んで耐える。

 掻っ捌いた腕から流れる、神の鮮血。厳粛なる神殿に血だまりが浮かぶ。


「……私は、後方支援に移る。四大なら、いつでも生み出してやろう」


 濃密な血は空気に溶け、四大となって霧散する。取り込まれ続けた四大が、私の体から解放される時なのだ。

 その代わり、と私は彼に頼む。


「父の居場所を、聞き出してほしい」


 すると、彼は露骨に嫌そうな顔をした。


「そういうのは、お前がやればいいんじゃないのか? お前だったら一掃できるだろ」


 もっともだが、それができるのであれば、私がこの男に貸しを作るような真似をするはずがない。私は血潮に染まった手を見つめた。


「……私には、貴公のような力はない。生かすか、殺すか。一掃することができるが、できるだけなのだ。奴らから訊きだすことができるのは、生かすも殺すもいたぶるも自由な、貴公だけなのだ」


 私は、生まれつき不器用だった。神の力をもってしても、それは変わらなかった。


「いたぶるも、ねぇ……」


 零したエインは、顔を寄せる。くっくっと、喉を鳴らす音。その小さな笑い声は、いつしか高笑いへと変わっていた。気味の悪い哄笑は神殿一帯に響き渡る。


「確かに、俺は四大さえありゃあ、力の高低差は自由自在。責問なんてのは、俺の得意分野だよ。……だけどよエル様、アンタの父上を見つけて、なにしようってんだ?」


 その答えは、エインと出会ったとき、すでに口にしていた。私は、このためだけにこの牢を脱したのだから。

 私は小さく鼻で笑った。


「貴公にとってはくだらんであろう、復讐のためだ」


 私のため、世界のためなどとくだらん言い訳をし、その果てに私を化け物へと変貌させた。そんな愚かな父、エルヴァーリオを討ち滅ぼす。それが私にとっての、復讐物語の幕上げとなるのだ。

 扉の向こうに潜む愚者たちは、こちらの様子をうかがっているようだ。おそらく、封呪の施されたなんらかのものが仕掛けられているのだろう。だが、それもこの異形にとっては、単なる目障りな負け犬なぞ、遅るるに足りん。


「復讐なぁ……それがなんであるかなんて、俺にとってはどうでもいいことだ。だが、その言葉とその中に燻る暗黒の炎……それには、既視感と安らぎを覚えた」


 エインはその赤い目を細めると、その昆虫のような下肢で歩み寄ってきた。かろうじて人間の姿を取り留めた右腕が、私の血にまみれた左手を取る。


「エル……お前が憎しみを焚き続けるというのなら、俺は貴公のために、その体を張ろうじゃないか」


 そして、彼は私の血を舐めた。黒炎の左腕はさらに勢いを増し、美しく蠱惑的な輝きを見せる。

 その言葉が真意であるか否かなど、私にはどうだっていい。どちらにせよ、この場所を脱するには、両者共々の協力が不可欠なのだから。

 私は、扉の先の愚者の群れに、その目を移した。


「――頼んだ」


 赤き眼と黒炎の一閃を残し、その異形は扉を蹴破った。途端、王国兵によって異形の肢体に鎖が襲う。巻き付いた鎖には、おそらく封呪が施されているのだろう。そして奴ら愚者どもは、その力を過信しすぎている。封呪の施しが、化け物であればなんであれど封じることができると思い込んでいる。だから、エインを効きもしない封呪の首輪で牢に封じ続けたのだ。


「まさに、愚かしいの一言に尽きる……」


 異形に宿った四大は、左腕の炎を激しく燃え上がらせた。その燻りは鎖を越え、兵たちの体に宿される。内から蝕まれた兵たちは、さしずめ暴れ狂う獣だ。自我すら持たず、敵味方の認識もろくにできず、目についた者を敵とみなし襲う。完全なる同士討ちが、眼前では繰り広げられていた。

 私は思う。あの腕の炎は、炎であって炎ではない。炎を模した、呪いなのだと。私とは違う、また新たな呪い。精神と肉体を蝕む、毒に似た呪いなのだ、と。

 邪魔な鎖は消えた。自由の身となった異形は、兵士の取り落とした槍を見境なく振り回し、暴れまわる。薙ぎ払われた腕から放たれる炎弧は、兵士にまとわりつくと、まるで寄生生物のようにその精神と肉体を蝕んでいった。その、人々の燃え盛っては消える生命の流動を、私は見た。

 襲い掛かる異形。ある者は共に殺し合い、ある者は逃げ惑う。果敢に応戦する者もいた。共通するのは、絶望。しかし、その絶望もまた、黒炎に飲み込まれていく。

 人間とは、かくも無力なのか。数百もの武装した兵士たちが、たかが異形一匹に無残に散っていく。それも、奴らが侮っていた異形に、だ。そこで知った絶望に飲み込まれながら、奴らは散っていくのだ。

 その姿は実に荒唐無稽で、見ていて清々しかった。

 私は前進し、神の血を、四大を振りまく。ちょうどよく、半分を落ち着かせてもよい頃合いだろう。


「貴様らも、等しく灰に帰るがよい」


 それが私の、貴様らから受けた苦しみと、痛みなのだから。

 私は、呪いを口にした。

 ――途端、視界は闇に落ちた。


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