酷い芝居

青蒔

第1話

「ま、いっか」

 そういって先輩は大きさの揃わない石がごろごろと転がる砂利道へ踏み出した。国道を右に逸れて坂を下った先にある川沿いの小道だ。川の上流へと向かって、軽い足取りで跳ねるように進む先輩に、僕は追いかける以外の選択をできなかった。

「先輩。ローファーでそんなところ歩いて、また足くじきますよ」

「大丈夫、大丈夫。これっくらいどうってことないさ」

「時間は。今日塾じゃありませんでしたか」

「今日は中学生の夏期講習の説明会で行けないんだ。いいじゃないか。細かいことなんて気にしなくたって」

「先輩はもっと気にした方がいいと思います」

「そういう君はもっとルーズに過ごしたらどうだい?」

 先輩はゆるくウェーブのかかった茶髪を肩の上で揺らしながら、どんどん先へ行ってしまう。沈みかけた太陽は先輩の後ろ姿にオレンジのフィルターをかける。その姿がとても遠くに見えて、僕は思わず足を止めてしまう。

 遠くに聞こえる車の走る音。冷たくなってきた風が川の向こうの梢の葉を揺らす音。川のせせらぎ。姿の見えない鳥や虫の鳴き声。その全てが先輩を覆い隠して、僕を先輩から引き離そうとしているように思えて──「どうしたんだ。具合でも悪いのか?」

 はっと顔を上げると、すぐ目の前で先輩がこちらを覗き込んでいた。黒のセーラーのスカーフが川からの風に揺れている。先輩は左手で髪を耳にかけて抑えていた。

 夕陽は先輩の首筋を照らす。

 そこには一直線に切り傷の痕が残っている。

 先輩が僕を庇ったときにつけられた傷だ。あの事件からもう三年も経っている。僕は先輩に消えない傷をつけさせてしまった。あの時の首に滲んでいた血の赤は、僕らが全身に浴びている夕陽のそれだった。夏用の半袖から覗く白い華奢な腕が染まるのが、酷く頼りなく思えて。

「なあ、大丈夫なのか?」

「えっ、あ、すみません。ぼうっとしていて」

 はい、と僕が答えると先輩は元から心配なんてしていなかったような口調で「ま、いっか」とだけ言ってまた僕に背を向けて歩き出す。

「あの、そういえばどこに向かってるんですか。もう日も暮れますよ」

「着けばわかる。それに日が暮れないと意味がないんだ」

「なんですかそれ。足下の見えない川辺なんて先輩転ぶに決まってるじゃないですか」

「まさか。私がそんなヘマしたことあったか? 君の心配には及ばないよ」

「ありますよ、数え切れないほど。林の中走り回って木の根っこに足引っ掛けて転んだり、公園の木に登って降りられなくなったり。あ、あと何故か先生にはバレないだろとか言って中学校の校舎の裏手にヘクソカズラ植えたじゃないですか。あれ、先輩が卒業した次の年に花は咲くし、匂いもすごいし話題になったんですよ」

「へえ、それでどうなった?」

 先輩は眉を上げて愉快そうに尋ねる。先輩はいつのまにかこちらを向いて後ろ向きに歩いていた。

「先生方が原因を探ったり、抜いたりしましたけど、結局毎年咲くようになったみたいですよ。元々人の寄り付くような場所でもなかったですし、まあ告白スポットがひとつ減ったって感じですかね」

「ヘクソカズラに、私さまさまじゃないか」

 くつくつと静かに笑った声が水の流れる音に紛れていく。

 そうやってとりとめのない会話をしながら歩いて、国道を走る車の音が耳を澄ませてようやく聞こえるくらいになった頃。

 先輩が唐突に足を止めた。

 そうして川のすぐそばの、大きな岩のちょうど平らになっている面に腰掛けると、黒いローファーと紺のソックスを脱ぎ出した。東の空に懸かる月に柔らかく照らされ、黒いセーラーワンピースと陶器のような白い肌のコントラストが僕の目に鮮烈に映った。

「いつまでそんなところに突っ立ってるんだ。君も脱いだらいい」

 先輩が座っている岩の隣に同じような形の岩がある。それを何度か叩いて僕に示す。

「一体何をしようと」

「いいからいいから」

「はあ」

 いろいろ神経質そうなことを言っても、やはり僕は先輩には負けてしまうらしい。大人しく隣の岩に行って先輩に倣う。

「ほら、ここ。川底が他より深くなってて流れが穏やかなんだ。今の季節、涼むにはぴったりだろ?」

 先輩は素足をふくらはぎの真ん中くらいまで、真っ黒に見える川に浸けた。両脚を交互に振ってぴちゃぴちゃと水を跳ねさせている。

 先輩の言うように、川の流れる音はさっきまでより静かに感じた。僕もローファーを脱ぎ、ソックスをその中に軽く丸めて突っ込むと、スラックスを膝くらいまで捲り上げて、おそるおそる正体の見えない流水に指先を触れさせた。

「つめた!」

「一度入れてしまえば慣れるさ」

 先輩は僕の反応をおかしそうに笑った。それに呼応するように、一際大きな風が吹いて、木々がざわめく。それでようやく、周囲の緑の密度が高くなっていたことに驚く。

 なんとなく、このときは自分もこの自然の一部になれたような気がした。僕は抵抗なく、川に足を浸す。

「わあ、本当ですね。冷たくて、気持ちいい」

 先輩は悪戯っぽく口角を上げた。

「だろ? でも本命は上」

「上?」

 僕は先輩が上を向くのに合わせて首を後ろに倒して空を見上げる。

 そこに広がっていたのは、

「すごい。綺麗ですね」

『そうだろう』とも『ああ』とも言わず、先輩は夜空を見つめている。

 そこにあったのは際限のない広漠とした星空。普段、部活帰りに見るのとはわけがちがう。ひとつひとつの星が『ここにいるんだ』と主張しているようなきらめき。彼らが生きていると実感してしまうほどに、彼らの抱える莫大なエネルギーに圧倒された。

 この凄まじさを綺麗と言う言葉で表現してしまったのを後悔した。そして、そうとしか表現できない自分がひどく疎ましい。

 先輩は何を思ってこんなところまで来たのか。何を思って僕をこんなところまで連れてきたのか。

 ちらりと、先輩の横顔を盗み見るつもりで視線を左へ動かす。

 先輩はその大きな瞳いっぱいに、星空を映していた。暗い色の瞳に白い光の粒が散りばめられているさまに先輩の瞳が熱を持ったように感じさせられた。

 その表情はこれまで一度も見たことがないほど、儚く、頼りなく見えて。

 この先の先輩の台詞を聞きたくない。そう思ってしまった。

「なあ、もし私たちが死んで、あんな星々に仲間入りするとしたら君はどの星になりたい?」

「え? どうしたんですか、急に」

 先輩の口から出た言葉が本当に思いもよらなかったから、純粋に困惑を洩らしてしまう。

 先輩は『死んだら生き物は星になる』とかそういうのを信じるたちだったか。

「なんでもいいじゃないか。ほら、どうなんだ?」

 今まで考えたこともなかったことだから、ぴんとこないのもあって考え込んでしまう。

「先輩はあるんですか、なりたい星」

「私は……特に思い当たらないな。どこでもいい。強いて言うなら近所の星が知り合いじゃないといい」

「なんですか、それ。どうして知り合いじゃだめなんですか?」

「だって星になったら決まった星としか会えないだろう? それなのに生前からの知り合いばかりと会うなんてつまらないじゃないか」

 先輩は……本当は僕なんかと一緒にいたくないんじゃないだろうか。先輩に消えない傷を負わせた僕と。

『人体の急所の首を切られてこの程度で済んだんだ。大概のことじゃ人は死なないみたいだ』

 あの事件から先輩にはそんな考えが透けて見える気がした。その様子がとても危うく思えた。でも僕が先輩を見守らなきゃいけないなんて、思い上がりに過ぎなかったのだろうか。

 胸の奥のどこか、ちりちりと擦りむいたばかりの傷が空気に触れたような痛みがある。

 先輩は僕の内心をわかっているのかもしれない。僕がいつも先輩のそばにいる理由をわかっていて放って置いたのかもしれない。それは同情? 哀れみ? わからない。けれど、先輩に『君はいらない』。そう言われても、反論はできないだろう。

 ああ、僕はどうすればいい?

 隣の先輩が暗がりに紛れていく気がする。先輩の口の動きが嫌にはっきり見える。

 ──私たち、もう一緒にいなくてもいいんじゃない?

 大きな水飛沫が上がった。

 ***

「ああ、君は、どうして……」

 彼女は顔を覆い、声を押し殺して涙を流す。夕風が、彼女の冷たい指先をさらに凍えさせていく。セーラーワンピースの裾がひらりと舞った。

 昨日、鮮やかに咲いていた桜は夜半の嵐に散ってしまった。国道沿いの街路樹はみずみずしい葉を風に揺らす。煮詰めすぎた鼈甲飴のようなとろけた斜陽がくっきりと影を描き出したそこは、まさに一枚の絵画のように見えた。

 ***

「沙紀先輩、先に帰るなら声かけてくださいよ」

 ぜいぜいと息を切らして追いついてきた清水晶は、ワイシャツを第二ボタンまで開けて風を送る。首筋には汗が滲んでいる。晶の目には軽い非難の色が浮かび上がっていた。

「別に一緒に帰る約束をしているわけでもないだろう」

 晶に反発するでも、詫びるでもなく、古村沙紀は泰然と答えてみせる。

「そりゃそうですけど」

 晶は納得のいかない様子で唸る。「いつも一緒じゃないですか」

「私かて来年は受験なんだ。塾にも通い始めるさ」

「理由になってませんよ、それ」

 晶は半目で沙紀に視線を送る。沙紀の涼しげなまなじりは何の返事も返さない。晶はそれを気に留めず、さも意外だと言わんばかりに続ける。

「先輩、塾に行くんですか。先輩なら塾なんていらないくらいだと思いますけど」

「そんなことはないさ」

「全国模試五十位を切ったことのない人が言っても説得力ないですって」

「君は知の追求に果てがあるとでも?」

「そう言うことでは……」

 反論をしようと開いた口を晶は閉じた。そして一つ息をつく。

「まあいいや。先輩の口を割れないのはわかってます」

 晶は天を仰ぐ。この間までの花曇りが嘘のように、淀みのない優しげな空だ。軽風に街路樹がさざめく。ふわりと沙紀の髪が靡いた。刹那、その向こうに隠された表情は晶にはうかがい知れない。

「あ、そうだ!」

 陽気な声が静寂を破る。

「今度、僕に勉強を教えてくれませんか。沙紀先輩とは長い付き合いですけど、そういうこと一度もなかったでしょ? 数学とか、先輩得意ですよね」

 沙紀はぴくりと眉をひそめた。陽光を艶やかに反射する黒檀の髪を左手で梳く。

「……人に教えるのは、得意ではないんだ」

 すまない。

 沙紀はぽつりと呟き、手を髪から下ろす。

「いえ、気にしないでください。無理を言ったのはわかってます」

 よっと。晶が勢いをつけてリュックサックを背負い直す。

「あー、重いなあ」

 猫のように背中を丸めて嘆く。

「撫で肩の君に背嚢はいのうは辛いんじゃないか?」

「でも、斜めがけの鞄でこの重さはもっとしんどいんですよ」

 白い歯を見せてからかう沙紀に晶は至極真面目に答える。

「そもそもなんで沙紀先輩はそんな小さいスクールバックで間に合うんですか?」

 高校に入ってからの永遠の謎だったんですけど。

 晶は戯けて見せるが、半ば本気で不思議に思っているようだった。

「まさか家で勉強してないなんて言いませんよね、先輩」

 おずおずと念を押す後輩の疑心暗鬼な姿がよほど面白かったようで、沙紀はからからと大笑する。

「まさか。私はそんな出来のいい頭脳を持ち合わせてはいないさ」

 震えていた肩が止まる頃には、二手に分かれるT字路が目の前にあった。距離は百メートルと離れていないが、沙紀は右に、晶は左に各々の家がある。

「残念ながら時間切れだな」

「えっ! 教えてくれないんですか」

 沙紀は両腕を広げてニヤリと笑った。傾き始めた太陽を背負う沙紀の顔は影に覆われている。

「若人よ、想像力を働かせたまえ。可能性は煩悩の数より遥かに多いぞ」

「そんなあ」

 晶は肩を落とす。もとより撫で肩な肩がさらに傾斜を大きくする。そのままリュックサックを落としてしまいそうなほどだ。

「そう落ち込むな。今度のテスト前にでも、私の部屋で一緒に勉強しようか」

「え、いいんですか!」

 ぱっと顔を綻ばせて晶が俯いていた頭を上げる。

「ああ、そのときに答え合わせをしよう。何かしらの答えは出しておいてくれよ」

「はい!」

 晶が背を向けて歩き出す。その背中はしゃんと伸びていた。

 沙紀は唇を噛んで、その背中を見送る。そして元来た道へ、踵を返した。

 ***

 ぱしゃ、ぱしゃ。

 水面に飛沫を上げて、脚をばたつかせる。脚が凍りつきそうなほど冷たい水がとぐろを巻いている。月明かりはない。ざわざわと草木の擦れる音と、しゃらしゃらと川の蠢く音が静寂を構成していた。生物の気配はしない。

 沙紀はもう死んだ自分を想って此処に来る。

「あの子の死に場所は此処じゃないけれど」

 ──もう、彼処には行きたくないから。

「ごめんね」

 一人になると必ず思い出す。琥珀色の部屋が紅榴べにざくろのように染まった光景。

 ***

 右手に包丁を持ち、血走った目でこちらを睨め付ける鬼。

「……父さん……どうしたの?」

 震える声を絞り出す少年。

 少年に向けて右腕を振り上げる悪鬼。

 二人の間に割り込む少女。

 少女は手で鬼の刃を逸らすが、その刃は少女の首筋を裂いた。

 刃の振り下ろされた勢いのままに飛び散る鮮血が、因数分解の終わらないノートにべちゃりと落ちる。

 少女が床に倒れ落ちた衝撃で、小さなテーブルから、可愛らしいチャームのついたシャープペンシルが床に跳ねた。

 ***

 記憶はいつも此処で終わる。

 目が覚めたときには真っ白なベッドにいて、少年の父親は逮捕されていた。少年は見舞いには来なかった。

 あれから少年はおかしくなった。いや、正常な反応かもしれない。殺されかけたのだ。信頼していた、大企業に勤める父親に。少年の父親の綺麗だったはずの顔立ちは、あの悪鬼の顔の奥に隠されて、思い出すことができないでいる。

 私が中学校を卒業するまで、少年は登校しなかった。きっともう会うこともないんだと覚悟していた。

 でも、高校二年生になった翌日。入学式の日。彼は私の前に姿を現した。

「お久しぶりですね。沙紀先輩」

 私の肩より高いくらいだった彼の頭は、私の頭よりずっと高いところにあった。学ランの似合わない華奢な肩はそのままだったけれど。教師にも敬語を使わなかった彼の言葉遣いは笑いそうになった。

 再会を素直に喜び、放課後に二人で喫茶店に入った。私は甘いカフェ・オ・レを、彼は可愛らしい3Dラテアートのついたカフェラテを注文し、席につく。

「沙紀先輩、好み変わったんですか? 昔はブラックコーヒー一筋だったのに」

 彼の口から出る思い出話は全部、知らないものだった。

 私は苦いコーヒーは大の苦手だ。昔からずっと。

 変わったのは彼の方だ。彼こそ、ブラックしか飲まなかった。甘くて可愛らしいものは嫌いなはずだったのに。

「あなたは誰?」

「何を突然変なこと言ってるんですか。沙紀先輩。からかってるんですか?」

 こちらを見ているようで何も見ていない、彼の瞳に言葉が出なかった。

「なんでもない、忘れて」

 彼と言葉を交わすたび、私は私ではなくなっていった。彼の語るお話のひとつひとつに自分の形が変わっていった。

 いつのまにか、私は死んでしまった。

 可愛らしいものが好きで、流行に敏感で、数学の苦手な『古村沙紀』はもういない。その輪郭さえ思い出せない。

 でも、ただ一人、孤独になる新月の夜だけは、一番生きていた私に近くなる。そんな気がする。

 川から脚を出して、膝を抱える。冷え切った脚は本当の死体の脚のように思えた。

 そのままぼうっと川を見つめていた。ふと、視界の端に黄色の光沢が映る。視線を向けた先にあったのは可憐な花。

「騙しうち、ねえ」

 あはは。笑い声が出る。ここ最近で一番の大声は、対岸の雑木林に吸い込まれていった。

 狐の牡丹。愛らしい見た目と裏腹に触れたものを傷つける毒の花。

 彼みたいだ、と思った。

 父親譲りの綺麗な顔立ちで、みんなの人気者。会うたび、私を壊して出鱈目に組み直す。

 その毒に、毒と分かって触れる馬鹿は私なのに。

 また、彼と一緒にいたいと思ってしまったから。

 傷害事件の被害者と、加害者の息子なんて、健全な関係でいられるわけがないのに。

 冷えた血液が頭に回るのを感じた。

「もういいか」

 この自分も、もう殺してしまおう。

 自殺するのは二ヶ月後。

 種明かしをした後だ。

 『古村沙紀』は生き返らない。

 つまらない喜劇は閉幕させてしまおう。

 私の最後の台詞は……

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酷い芝居 青蒔 @akemikotaro

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