第三章 新しい世界
第15話
ティアリンク・ポーケントッター六歳は、その日、人生最大の
彼女が、このポートホープという古く大きな石造りの港町に来てから一月半ほどが経った、爽やかな五月の風が吹く、ある初夏の日のことである。
「きゃははは!」
ティアリンクは、とある商店の前の通り――石畳の大通り――を全力で駈け、少し走るとピタッと急停止し、その場でクルリと方向転換をすると、また、
「きゃははは!」
と、店の前まで全力で駆け戻ってき、そして再び、
「きゃははは!」
と全力で駈けていった。
ティアリンク――ティアは、先程からそんな動作を繰り返している。
驚きが衝撃となってティアの心を躍動させ、身体を突き動かさずにはいられないのだ。
「具合はどう~?」
店の前には、彼女が長逗留している宿屋の若女将であり、友人でもあるメロディ・スプリングウィンド16歳が立っていて、優しい表情でティアを見守っている。
「最高~!」
「そんなに慌てて走ると転ぶわよ」
競争でもするように大通りを行きつ戻りつするティアに、メロディが笑顔で注意を促す。
「この靴なら転んだりしないわ!」
ティアが驚きと喜びに満ちた声で答えた。
そう、この日ティアはメロディに連れられて、数日前に注文した彼女の新しい『靴』を受け取るために、メロディの顔馴染みの靴屋を訪れていたのだ。
メロディは予てより、ティアが傷んだ木靴を履いていることを気にしていた。
その木靴は以前ティアが生活していた修道院で与えられた物だったが、古く傷んでいる上に木靴は固く、靴下を5枚も10枚も厚く重ねて履かなくては痛くて歩けたものではない。
それに成長途上の子供の足には、すぐに小さくなってしまう。
メロディは、柔らかく足に痛みの伴わない革製の靴を、彼女の年下の友人にプレゼントしたいとずっと思っていた。
通常の宿屋の仕事に加えて、ティアの父親であるポーケントッターが破壊した宿の修繕の打ち合わせや、先日の『はぐれアーマー』騒ぎで延び延びになっていたが、つい三日前にようやく暇を見つけて、ティアと共に靴屋を訪れ、彼女の新しい靴を注文したのだ。
ティアの足のサイズに合わせて作られた、鹿革製のオーダーメイドの品である。
ティアは早速自分のためだけにあつらえられた、新しい靴を履いてみた。
履く前に、何枚も重ねていた靴下を1枚だけ残してあとは全て脱いだ。
衝撃だった。
木靴のあの固められたような窮屈さがない。
靴下を1枚しか履いてないのに、歩いても、走っても、止まっても、痛みがない。
これなら何十リーグだって歩けそうだ――とティアは思った。
「ありがとう、メロディ! ティア、こんな素敵なプレゼントをもらったの初めて!」
ティアがメロディの前でキキッ!と急停止して、満面の笑顔で彼女を見上げた。
「お~、お~、それはよかった、よかった」
熟練した技を持つ靴職人は、期待通りの仕事をしてくれたようである。
「それじゃ、どうもありがとうございました」
メロディは、自分も幼いときから世話になっている靴屋に礼を言った。隣でティアも、「ありがとうございました。大切に履きます」と、丁寧に謝辞を述べる。
老いた無口な靴職人が、白い眉と白い髭の奥で小さく頷いた。
「さあ、それじゃ次のお店よ」
「うん!」
メロディとティアは手をつなぐと、靴屋を後にして、『白鯨通り』を町の中心に向かって歩いて行った。
そして次にメロディとティアが入った店は、帽子屋だった。
そこで二人はよく似たデザインの大小の麦わら帽子を買った。
これから季節は夏に向かって暑くなってくる。強い日射しを遮る帽子は必需品だ。
婦人用なので色鮮やかなリボンがまかれており、なかなかにオシャレだ。
帽子屋を出たとき、二人の頭には麦藁で編まれた真新しい帽子が乗っていた。
町行く人々が、お揃いの麦わら帽を被って手をつないで歩くメロディとティアを見て振り返った。二人とも明るいブロンドの持ち主なので、一見すると姉妹のように見える。
「さて、これからどうしようか?」
歩きながら、メロディがティアに訊ねた。
「お芝居でも観る?」
宿の仕事は女給頭のサンディスに任せて出て来たので、今日はメロディにとっても休日なのだ。
「ううん、ティア今日はもっと歩きたいの!」
ティアは元気に頭を振った。
「この靴、とっても履き心地がいいわ! ティア、靴がこんなに履き心地のいいものだったなんて、今まで知らなかった!」
せっかくこんな良い靴を買ってもらったのに、歩かないでジッとしてるなんて勿体ないわ! ――とティアは笑顔でメロディに言った。
「それじゃ、今日はこのままお散歩しましょう。あなたがこの町で、まだ行ったことのないところに連れてってあげる」
「素敵!」
それから二人は、ポートホープの町を色々と見て歩いた。
メロディにしてみればすでに見知った町だが、ティアにとっては『春の微風亭』がある一画を除けば、まだまだ未知の土地である。
二人はいつもとは違う別の市場に行き、露店を冷やかして回り、世界各地から集められた珍しい品々に目を輝かせた。疲れればカフェで一休みし、楽しいお喋りに花を咲かせた。
その後またしばらく町を歩き、色々な景色を眺めた。
埠頭に近づいた頃には小腹が空いていたので、昼食代わりに屋台で白身魚とポテトを油で揚げた物を買った。
「はい、メロディ、あ~ん」
「ん、あ~ん!」
「美味しい?」
「はふはふ! ――うん、美味しい!」
「それじゃ、ティア、あ~ん」
「あ~ん! ――はふはふ!」
ハンカチーフを尻の下に敷くと、二人は仲良く埠頭の端に腰掛けて、買ったばかりのフィッシュ&チップスを食べた。目の前には大小の船が出入りする港の景色が広がっている。
「美味しいね!」
「うん、美味しいね!」
メロディとティアは舌鼓を打ちながら、熱々の揚げ物をあっという間に平らげた。
メロディはもう一枚のハンカチーフを取り出すと、油のついた自分とティアの口を綺麗に拭った。ティアは埠頭に座ったまま足をパタパタさせて、機嫌の良さを示した。
二人は腹ごなしも兼ねて、そのまましばらく海からの心地良い風に洗われていた。
「良い気持ち。パパも来ればよかったのに」
「そうね。でもポーケントッターさんは、自警団のお仕事があるし」
ティアの父親であるナカト・ポーケントッターは、『はぐれアーマー』から見事に町を救った活躍を認められて、今ではポートホープの名誉市民に任じられている。
また自警団の相談にあずかる名誉顧問として、今日もその寄り合いに出席していた。
一躍この町の名士として認知されたポーケントッターであったが、市長にしてもその他の住人にしても、その本音は、ソウルアーマーであるポーケントッターの圧倒的な力を目の当たりにして、彼を野放しにしておくことに恐怖を覚えたのだろう。
ポーケントッターは首輪を付けられたのだ。
ポーケントッターは、本体と偵察用の『
普通の人間とは、ぷかぷかふわふわと宙に浮かぶ『巨大な目玉』の方が、まだ行動を共にしやすい。
以上の理由から、ポーケントッターは泣く泣く娘たちとの買い物を諦め、自警団の詰まらない寄り合いを『巨大な目玉』で偵察していた。
「メロディ、あの丘の上にある建物はなあに?」
ティアが、ふと視界の左端に映る建物に目を止めた。
「ああ、あれは学校よ」
「学校?」
「町の子供たちが通うね」
「メロディも通ったの?」
「通ったわよ。六つの時からね」
「……六つ」
ティアが隣に座るメロディの顔を見上げた。それは今のティアと同じ歳だ。
「お友達は出来た?」
「沢山ね」
「……」
ティアが再び、丘の上の学校を見つめた。
メロディはそんなティアの横顔に、憧れと寂しさを見て取った。
商業都市であるポートホープでも、学校に行けるのは裕福な商家の子弟だけだ。
メロディも『春の微風亭』の娘として生まれなかったら、通えなかったかもしれない。
そして、今のティアの境遇では……。
「これから行ってみましょうか」
ティアの心中を察して、メロディは言った。
「え?」
「学校を見学によ」
「う、うん……」
ティアは口ごもった。
「でも、今日はもう疲れたからいいわ」
「……そう」
この時代……いやいつの時代でも、子供には自分の力では叶えられない願いがある。
育った環境によっては、望んでも叶えられない願いがある。
そんな時、駄々を捏ねられる子供はまだ幸せだ。
多くの子供は、目の前のティアのように望みから目を逸らし、胸の奥にしまい込み、自分には手に入らない物だと諦め、忘れたふりをする。
だからこそメロディは、あれこれとティアの世話を焼いているのだ。
少しでも、この幼い少女のささやかな願いが叶うように。
少しでも、この幼い友人が笑顔を浮かべていられるように。
「大丈夫よ、メロディ」
「え?」
「ティアのお友達は、メロディ一人で充分だわ。メロディがいれば、ティア、学校に行けなくても全然平気よ」
ティアはそう言うと、メロディに向かってニッと笑ってみせた。
「こいつめ、泣かせること言いやがって!」
「きゃははは!」
ギュッ!とメロディに抱きしめられたティアの笑い声が、石造りの埠頭に響いた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます