第二章 帰郷
第9話
昼なお昏い、深い森の中である。
そのはらわたの匂いを、小さな振動が震わせた。
森のさらに懐深くから響いてきた大地の震え。
振動は徐々に、一定のペースで近づいてきた。
遠かった振動はやがて、近く、重く、大きくなった。
生木の裂ける音がし、倒れる樹木の悲鳴が聞こえ、枝々に巣を作っていた野鳥がけたたましく飛び立った。
振動の主は、巨大な陰だった。
陰は深閑とした森を破壊しながら、真っ直ぐに移動していた。
このまま進めば、やがて森は終わり、谷に出、河に出、野に出るだろう。
そして、その先には……。
◆◇◆
メロディ・スプリングウィンドは、その朝も普段どおり四時半に目を覚ました。
パッと目を覚ますと、今日こそは――という思いでベッドから跳び起き、ダダダッと窓に駆け寄ってカーテンを開け、窓を引き上げ、トドメ最後に両開きの鎧戸を外に向かって開け放った。
そして、水平線から昇る今まさに生まれたばかりの陽の光を全身に浴び――。
「ドーモ、メロディサン、グッドモーニング」
ナカト・ポーケントッターの巨大な鋼鉄の顔が、今日も朝日の代わりにメロディの部屋を覗き込んでいた。
これで七日連続……。
メロディは眉根を寄せて目を瞑り、右手の人差し指をコメカミに当てた。
さすがに、ちょっと青筋がピクピクしている。
「あの、ですね、ポーケントッターさん……」
「ハイ?」
「毎朝、毎朝、(窓を開けた直後に)そんなにご丁寧な挨拶をして下さらなくても、わたしとしては一向に構わないのですが……そちらとしても、色々ご面倒でしょうし」
目を覚ますとすぐに窓を開け放ち、海から昇る朝日を一身に浴びて、新鮮な潮風を胸一杯に吸って身体を覚醒させるのが、メロディの朝の儀式なのだ。
それなのにこの一週間、メロディはその儀式が出来ないでいる。
理由はもちろん、目の前の巨人のせいだ。
「面倒ナドト、トンデモナイ。朝、初メテ会ッタ人ニハ挨拶ヲスルノガ礼儀デス」
ポーケントッターはつい先日まで貴族に仕えていただけあって、礼儀作法にうるさい。
「礼儀ノ身ニツイテイナイ人間ハ、文明社会デハ未開人トミナサレマス」
「それは至極ごもっともなことだと、わたしとしても理解しているのですが……」
コメカミに当てているメロディの人差し指に、力が籠もる。
馬鹿丁寧な言葉遣いが、自分の耳にもギコチナイ。
「ですが、窓が開けられる度に人の寝室を覗き込むのは、野蛮人でない人間のすることとして、如何なものかとも思うのです」
一応は、うら若き乙女の寝室なのですから――と、メロディは言いたかったが、さすがにそれは思い止まった。
「イエ、挨拶ハ相手ノ目ヲ見ツメテ、誠意ヲ込メテシナケレバナリマセン。オ座ナリナ挨拶ハ挨拶デハアリマセン」
ポーケントッターは、そこでガシンと胸を張った。
「大恩アルメロディサンガ目ヲ覚マシタト分カッタ以上、感謝ノ気持チヲ込メテ挨拶ヲスルノハ、当然ノコトデス」
「毎朝、よくわたしが目を覚ます瞬間が分かりますね……」
自分は目を覚ました直後に、ダッシュで窓に駆け寄っているのに……とメロディは思った。
「ワタシノセンサーハ、非常ニ鋭敏デ優秀ナノデス!」
誇らしげに言う『白銀の稲妻』。英雄(?)ナカト・ポーケントッター。
ズレている……何かが、確実に、明確に、ハッキリくっきりズレている……と、『春の微風亭』の若き女将は思った。
しかし起き抜けに、そのズレをポーケントッターに説明し、認識・納得させられるだけの話術と忍耐力を、残念ながらメロディ・スプリングウィンドは持ち合わせていなかった。
だからこの一週間、毎朝同じことを繰り返している。
目の前の鉄巨人に何か気の利いた皮肉の一つも言ってやりたいが、その言葉が出てこない。
メロディが「う~っ」と唸ったその時、プシュッ――と空気の抜ける音がして、ポーケントッターの腹が開いた。
「ふぁぁぁ……どうしたの?」
中から、毛布に包まれたティアが顔を出して、寝惚け眼を擦りながらメロディに訊ねた。
昨夜は父親と寝る日だったのだ。
「なんでもないわ。おはよう、ティア」
ティアの顔を見ると、メロディの機嫌は途端によくなる。
「おはよ~」
ティアがうにうにと目を擦りながら挨拶する。まだ眠いようだ。
「まだ寝ててもいいのよ」
さすがにこの時間では、まだ子供には早い。
「ううん、起きる~」
ティアはそう言うと、ふぁぁぁ――と大きな欠伸をした。
修道院で暮らしてきたティアは、早起きには慣れている。
眠くなったら、あとで昼寝をさせればいいのだ。
「そう、それじゃ着替えに来なさい。顔を洗って、仕事を始めるわよ」
「うん」
ティアが頷く。
現在、ポーケントッター親子は持ち合わせが少ない。極貧状態といっても過言ではない。
メロディの顔見知りの大工が見積もった、ポーケントッターが破壊した『春の微風亭』の修繕費は、当初想定していたよりも額がかさんだ。
そのため、新大陸へ渡るための船賃と、クロスフォード侯爵夫人から手渡された餞別の大半が消えてしまった。
もちろん、娘のティアも同様である。
(ポーケントッターは、ティアを預けたシドナの修道院に、娘宛に彼が稼いだ給金のほぼ全てを仕送っていたが、強欲な修道院長はそれらを全て修道院への寄付として懐に入れてしまい、ティアには僅かな路銀を渡しただけで送り出してしまった)
メロディとしては親しくなった父娘から金を出させるのは忍びなかったが、さりとて宿は直さなければならず、仕方なく修理費用を受け取る代わりに、二人の宿代を丁重に辞退した。
しかし、只より高い物はない。
今度は、礼儀正しき紳士(?)であるところのポーケントッターが納得しない。
宿を破壊してその営業を妨害した上、さらには宿泊費まで只にしてもらうなど、彼の清廉な倫理感が許さなかった。
そこで彼と娘は、宿代を免除してもらう代わりに、『春の微風亭』の仕事を手伝うことを申し出た(働かざる者食うべからず。居候は肩身が狭い)。
メロディは、その申し出を受け入れた。
元より二人をこき使ってやろうなどとは考えていない。
それでポーケントッターとティアの気が済むなら構わなかった。
何よりティアと一緒に掃除をしたり、繕い物をしたり、買い物に出たりするのは、メロディにとっても大きな楽しみだった。
「パパ、降ろして」
ポーケントッターが巨大な掌にティアを載せて、宿の三階の高さから地面に降ろした。
最初その光景を見たときメロディはハラハラしたが、ポーケントッターもティアも慣れたものだった。
ティアはこの後、四階のメロディの部屋まで駆け上がって、着替えと洗顔をするのだ。
(ティアは今、メロディと同じ部屋で寝起きしていた。そして夜が訪れる度にメロディの部屋と父親の腹の中で寝る場所を変えていた。ティアはメロディとも父親とも一緒に寝たがった)
――さあ、それじゃわたしも着替えなきゃ。
今日も忙しい一日が始まる。
メロディはふんふん、ふふん! と手早く日課の体操を済ませると、寝間着を脱ぎ掛け――。
「いつまで見てるんですか?」
と、窓の外のソウルアーマーを睨んだ。
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