鎧と女将
井上啓二
第一章 港の宿屋と小さなお客
第1話
ひとつ、面白い話をしよう。
ゴドワナ王国の最東端、大ラトリア海に面した土地に、
ポートホープの人口は約 10,000。
家並み、広場、大路、小路、堤防、埠頭――ほぼ全てが石造りの大きな港町だ。
海を挟んで、ゴドワナと新大陸とを結ぶ大陸間航路の旧大陸側の玄関口であり、当初は沿岸航海のいくつかある拠点の一つに過ぎなかった町の規模は、新大陸が発見された30年前から拡大の一途をたどっている。
ゴールドラッシュに湧く新大陸に渡る人間は、ここから富と成功を求めて船に乗る。
一攫千金を夢見て新天地を目指す者は跡を絶たない。
ポートホープは今や、そんな故郷をあとにした移民たちを送り出す中継点として、活況の最中にあった。
そのポートホープに、『春の微風亭』という、古くから営む小さな宿屋があった。
メロディ・スプリングウィンドは、今年16歳。
『春の微風亭』の若き女将である。
早立ちのお客もいる宿屋の朝は早い。
今日も朝の四時半ピッタリに、メロディはパチッと目を覚ました。
直後、ベッドから跳ね起きると、窓に向かってダダダッと駆け寄り、カーテンを開けて、窓を引き上げ、両開きの鎧戸を一気に開け放った。
今まさに水平線から昇らんとする朝日が、サッとメロディに突き刺さり、その長く豊かで明るい金髪を燃えるようなオレンジ色に染める。
メロディはブラウンの瞳を細めて、気持ち善さげに海からの陽光を一身に浴びた。
健康的な白い肌が朱色に照らされ、彼女の中に残っていた僅かな眠気を溶かしていく。大きく深呼吸して、埠頭に係留されている大型帆船の上を渡ってくる穏やかな潮風を、胸一杯に吸い込んだ。
視線のすぐ先でカモメが舞っていた。
メロディは、整った小作りな顔と、若さ溢れる身体を持つ少女だ。その動作は俊敏で、行動は活力に満ちている。
表情がクルクルと変わりすぎるきらいはあるが、町で10人の男と擦れ違えば、10人ともが振り返るような美少女である。
実際、彼女は女将になった今でも、『春の微風亭』の看板娘の一人だった。
「う~ん!」
朝日に向かって、思い切り伸びをする。
続いて、ふんふんふん!と、屈伸、伸客、前後屈、体側、捻転――日課の体操を始める。
良い気持ち! 今日もわたしは元気だ!
「――よし!」
体操を終えると、目は完全に覚め、やる気が全身に満ちていた。
今日も忙しい一日が始まる。
さあ、身繕いをして、仕事を始めなければ。
今日はどんなお客さんが来てくれるのかしら?
メロディは期待と興奮を胸に、洗面所に向かった。
そしてその直後、勢い余ってガツンと右足の小指をドアにぶつけてうずくまり、朝の貴重な時間を少し無駄にした。
◆◇◆
「痛つつつっっっ……」
「よぉ、おはよう」
一階に下りると、すでに住み込みの女給頭であるサンディスが掃除を始めていた。
宿屋の一階は酒場で、昨夜の喧噪のまま汚れており、今は樫の丸テーブルの上に全ての椅子が上げらている。
「? どうした?」
サンディスが、右足を引きずりながら降りてきたメロディを見て、箒を動かす手を休めて訊ねた。
サンディスは漆黒の髪と瞳、褐色の肌を持つ、情熱的な南方系の美女である。
女給などさせておくのは勿体ないと、訪れる男性客が口々に口説くのは、この宿屋のお定まりの風景だ。
ただし、その性格は男勝りでかなり勝ち気――いや苛烈で、口説いた相手がつまらない男なら、したたかな逆撃を喰らうのが常だったが。
「お、おはようございます」
バツが悪そうに挨拶するメロディ。
「いえ、ちょっと小指がドアの角っこに直撃して……」
「またかい。あんたってば、ちょっとはテンション下げなよ。こないだは体操をやり過ぎて豪快に背中を痛めてたじゃないか」
――そういういのを、
今年で24歳。
多くの旅人が行き交う港町での、10年にわたる女給生活で蓄えた博識をサンディスが披露した。
(ちなみに、蓬莱とは遙か東にある島国のことである)
「そ、その後、体操は上手くなったんですけどね……」
あははは……と頭の後ろを掻きながら、メロディが弁解する。
「て、手伝います!」
宿の主だった父親の急逝によって突然この『春の微風亭』の女主人になったとはいえ、メロディはまだまだ見習い女将である。覚えることは山ほどある。
「んじゃ、ここお願い」
そういって、サンディスが箒を差し出す。
「はいはい!」
「返事は一回」
「はい!」
これじゃどちらが女将だか分かりやしない。
実際、今現在中心となって宿を切り盛りしているのはサンディスで、メロディはそんな百戦錬磨の彼女の周りをウロチョロしているだけである。
それでも、物心着いたころからずっと見続けてきた宿屋の仕事である。
手伝わされた仕事も多い。勝手は分かっている。
分からないのは経営という、洗ったり、整えたり、繕ったりしない仕事だ。
酒場の掃除が終わったら、厨房にも行かなければならない。
料理人であるマートと一緒に市場に行って、仕入れの目利きも学ばなければ。
やらなければならないこと、学ばなければならないことは山ほどある。
そして、それがメロディのやる気を一層高めるのだった。
やるべきことが定まっているのは、人間にとってきっと幸せなことなのだ――とメロディは思っている。
◆◇◆
「――世話になったな。向こうでの成功を祈っていてくれ」
午前九時。
三日ほど泊まっていた宿泊客が、最後の朝食を終えて、宿を出て行く。
「ありがとうございました! 良い航海を!」
メロディはこれから富を求めて大海を渡らんとするその客を、精一杯の笑顔で送り出した。
客は振り返らずに片手だけを上げて、宿のすぐ前の埠頭へと消えていった。
海を渡った先で成功を収めたならば、あの客が再びこの宿を訪れることはないだろう。
それでもメロディは、あの客の成功を祈った。
はるか東の蓬莱では、こういう人と人との関わり合いを、一期一会というらしい。
とても素敵な言葉だと思う。
不意に酒場の中が静かになる。
今出ていった男が最後の客で、一階の酒場にはもう誰もいなかった。
客足が途切れ、また賑わい始める昼飯時までの僅かな時間。
この静かな時間が、メロディはとても好きだった。
メロディはこの時間を、一日の最初の休憩の時間と決めている。
サンディスら雇っている女給たちと紅茶を淹れて、焼き菓子を一~二枚食べる。
その時に交わす他愛のないお喋りが、その後の仕事への活力となるのだ。
「――みんな、お茶にしましょう」
メロディの言葉に、サンディスが『あいよ』と答えたときだった。
酒場の入り口のウェスタンドアが、小さく開閉した。
「いらっしゃいませ!」
反射的に入り口に向き直って、メロディが快活に挨拶する。
しかし、メロディの視線の先に客の姿はない。
「あれ?」
はてな? 風かしら?
「メロディ、下だよ、下」
「した?」
サンディスに言われて、視線を下げてみる。
そこに旅装姿のまだ幼い少女がいた。
背に(彼女にとっては)大きなルックザックを背負って、こちらを戸惑ったような、怯えたような、心細げな眼差しで見つめている。5~6歳ぐらいだろう。
「いらっしゃいませ」
メロディは気を取り直してその少女に近づき、身を屈めて笑顔でもう一度言った。
「……あ、あの……やっていますか」
幼い少女は口ごもりながら、消え入るような声でやっとそれだけ口にした。
メロディよりさらに明るい金髪も、そして白い肌も、旅塵に塗れてくすんでいる。
「ええ、もちろん」
メロディがニッコリと微笑む。
「あなたお一人?」
「……は、はい」
少女が頷く。
大きな青い瞳が、震えているように見えた。
空腹の上に、疲れているようだった。
「お泊まりですか? それともお食事?」
「……これで……パンを下さい」
少女はたどたどしい手つきで懐から革の財布を取り出すと、中から古びたクレストラント銅貨を取り出して、メロディに訊ねた。
銅貨としてはもっとも価値が低く、大したものは買えない……。
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