人間を殺したことはあるかね?

 話が衝撃的だったこともあり、お酒が回っていたこともあり、そのあとの会話はあまり覚えていない。嫁がうるさいから、という定型文のような愚痴を言い残して、彼は帰った。不服そうな言い草とは裏腹に、表情はまんざらでもなかった。

 残された僕には帰る場所がなかった。あるいは、島そのものが僕を包み込むように、帰る場所として機能していた。

 場所と人とのつながりは実に不思議なものである。人が変わり、建物が変わり、景色が変わり、システムが変わり、それでも、場所と人とのつながりは失われない。むしろ、ノスタルジーとしてつながりをより強固なものとし、時として呪縛のようにはたらくことさえある。

 僕は島のどこに惹かれているのだろうか。

 あの場所に向かう前にコンビニでジャックダニエルのウイスキーを買った。

 部活のユニフォームを着崩した男子中学生の三人組が駐車場にたむろしていた。肩を寄せ合いスマートフォンの画面を覗きながら大きな声で笑っていた。迷惑だとか不快だとかよりも、本当に楽しそうなのが羨ましかった。自分が心の底から笑ったのはいつか思い出そうとしたがうまくいかなかった。お店から出たあとも、フェードアウトしていく笑い声が背後に延々と響いていた。


 悩みごとがあるといつもひとりでここに来て、気が済むまで泣いた場所。

 人のいない砂浜は世界の果てのようだった。柔らかい砂に紛れてたくさんのごみが捨てられてあった。それらは木霊のように生きているみたいで、僕を温かく迎え入れてくれた。僕はまともな人間にはなれなかった。

 暑さは影をひそめ、皮膚の外側と内側に温度差がまるで感じられないほどの気温も、世界の果てにふさわしかった。水平線の終わりはすぐそこにあるのかもしれない。

 夏が終わるということは、秋がやってくるということであって、それはすなわち今年がもう消化試合しか残されていないということでもあった。そういう点において、夏の終わりは夕方の匂いとよく似ている。

 明日には帰らなければならないことを思い出した。あの狂気じみた、宝石でさえ灰塵と化すアネクメーネへ。東京、その響きだけで僕は吐き気がした。

 湿った流木の隣に座り、潮の匂いをつまみにしてウイスキーをストレートで飲んだ。


 上弦の月に照らされて、テトラポットに腰かける影があった。わけもなく近寄ってみた。立ち上がるときにひどいめまいと頭痛がした。お尻にこびりついた砂はざらざらしていてなかなか落ちなかった。

 背広をマントのように羽織った男は、定年退職したスーパーマンのように見えた。

 「君、ウイスキーは好きかね」と彼が尋ねた。

 「いえ、安く酔えるだけです。ファストフードみたいなものです」

 「私にも少しくれないか」

 「ええ、どうぞ」

 彼はストレートで小さく二口飲んで礼を言った。月明りに照らされたその手には深いしわが刻まれてあった。口髭は銀色に輝き、顔はよく見えなかった。

 「この世界には、つまらないものが多すぎるのだよ。そうは思わないかね」

 「はい、思います」

 「穴を掘っては埋める、その繰り返しが社会を支え誰かの役に立つなどと、みんな本気で信じている。わしに言わせてもらえば、そのようなことはばかげている」その声は歳を感じさせない強い意志が宿っていた。「バンクシーの言葉を知っているかい」

 「『この世で最も危険なのは、この世をより良くしようと思っているやつらだ』」

 「完璧だ」

 彼は僕を称えるように、もう一口ウイスキーをもらった。僕もつられて一口流し込んだ。喉の奥が痛いくらいに熱かった。

 「そして、取り返しのつかないことが多すぎる」時間を急ぐように彼は続けた。

 「死ぬまでに、君はあと何本のウイスキーを飲める。あと幾度、夏の終わりに立ち会える。あと幾らばかりの人間を愛せる」

 先ほどとは打って変わって、小さな子を諭すような声だった。答えられない質問を僕は質問で返すしかなかった。

 「不躾なことをお伺いしますが、愛とは、何だとお考えですか」

 「いい質問だ」彼はしゃがれた笑い声を漏らした。「君、人間を殺したことはあるかね?」

 「ありません」

 本当のことだった。

 「その死体を誰かと一緒に海に沈めたことはあるかね?」

 彼はもはや僕の返事を待ってはいなかった。

 「それが愛だ」

 「わかるかね」

 「わかるような気がします」

 本当に少しだけわかるような気がした。

 それから二人は黙って海を眺めた。漆黒のキャンバスに月光が乱反射していた。

 僕には何が見える?

 闇の中に自分の姿を見た。それは何か伝えようとしているようにも見えた。しかしそれが何を意味するのかまったく見当もつかなかった。それでも僕はいくらばかりか慰められる心地がした。

 いつの間にか男はいなくなり、僕は真にひとりになった。べたついた口の中をウイスキーで洗い、そのまま海を眺め続けた。

 原風景の中に僕はいた。僕以外に誰もいなかった。


 そういえば、彼女の電話番号がまだ残っていたかもしれない。

 ふとした思いつきに駆られ、スマートフォンを確認すると、案の定そこには彼女の名前と、半角スペースで仕切られた十一桁の数字があった。普段はSNSでしか連絡を取らないので、すっかり失念していた。

 迷うより前に体が勝手に動いていた。

 呼び出し音聞いていると、心臓が鷲づかみにされているように息が苦しかった。プルルルル、という無機質な音は、永遠に続くように思われた。繰り返される音がゲシュタルト崩壊してきたころに、ロボットのような女の声がスピーカーから流れた。

 「ただいま、でんわにでることができません。しばらく……」

 電話を切り、少し逡巡してから、連絡帳から電話番号を削除した。

 波の音も、月の光も、何もかもがそのままだった。十年前も、そして十年後も、変わりはしない。それはその瞬間の僕にとって神聖なる救済のように思われた。

 ウイスキーをがぶ飲みして、わけもわからず僕は泣いた。誰にも見られず、誰にも聞かれず、ただひとりで泣いた。

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原風景 白瀬天洋 @Norfolk

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