少なくともおれらには見えなかった

 サーフィンをしたあとの冷えたビールはひどくうまかった。柑橘系の酸味が目立つフルーティーな味わいは疲労を吹き飛ばしてくれるようだった。

 向かいの彼は甘味の強い黒ビールを飲んでいた。金麦クリアラベルのようなベリーショートと黒髪ストレートのようなクラフトビールはシュルレアリスムを感じさせた。

 「どうしてまた、急に戻ってきたの」と彼が尋ねた。

 「別れたんだ」

 え、という声にならない音を漏らし、彼はジョッキを持つ手を空中に静止させたまま、目を見開いていた。

 「まあそんな顔するなよ」と僕は冷静に言った。

 「ああ、ごめん、びっくりしてつい……」

 彼は驚きつつ、何かを考えあぐねているように眉を寄せていた。そして思い出したようにまた尋ねた。

 「相手から?」

 「そう」

 「いつ?」

 「火曜」

 「今週の?」

 「うん」

 「理由は?」

 「なんか、将来……みたいな」

 そしてまた黙ってしまった。中学生の恋バナみたいな矢面に立つのに耐えられなくなって、僕は彼に話を振った。 

 「君はどうなんだ」

 僕が彼女と交際を始めるより前に、彼はすでに結婚していた。相手は僕も知っている、中学の一年下の後輩だった。そして女の子を授かり、もう二歳を過ぎているはずだった。

 「相変わらずだよ。安定っちゃ安定だし、倦怠期っちゃ倦怠期だけど、結婚なんてこんなもんじゃないかなあ。ま、こんな島じゃ、変なこともできないしな」

 彼は軽くフンと笑って続けた。

 「あとは、さくらがこの頃イヤイヤ期でね、食べるのも着るのも遊ぶのも、何もかも嫌がる。この前なんて、真夏日なのにどうしても半袖のワンピースが嫌らしくて、ダウンを着て出かけたし。困ったもんよ、ほんと」

 バレンタインに女子からチョコレートをもらうときのような、まったく困ってなさそうな表情だった。

 「大変そうだな」

 「まあでも家庭を持つってのはそういうことじゃん」

 言い終わるや否や、何かに気づいたように彼は目を伏せた。なんだか気まずくなって、僕も彼もお互いのことをそれ以上尋ねることはしなかった。代わりに焼き鳥をビールで流し込んだ。


 「仕事は? どうしてるの」今度は彼が話を切り出した。

 「それが、まだ博士課程で、学生だ」

 「それって、何をしてるの」

 「数学基礎論」

 彼が顔をしかめるのは予想通りだったので、すかさず付け加える。

 「つまり、役に立たないことだ」

 「すごいな」彼は本当に感心しているかのように言った。

 「すごいか?」

 「すごいさ。だってさ、役に立たないことをするってのは、最高の贅沢じゃん」

 「古代ギリシャのアゴラってことか」

 「それはよくわからないけど、たぶんそういうこと」

 なんだかおかしくなって僕は笑ってしまった。つられて彼も笑顔になった。十五年前に戻ったような気分だった。未成年飲酒しているみたいで変な後ろめたさがあった。

 「数学が好きなんだろ」

 「そうだ」

 「おれにはまったく理解できないわ。覚えてるか? おれの中三の期末試験の点数」

 「2点」

 即答できた。伝説の点数だった。

 「よく覚えてるな」彼は苦笑いしていた。

 その2点が、証明問題で最初に書く定型文を暗記していたためにもらえたことも含めて、忘れるはずがなかった。

 「でも、おまえが好きって言うならならいいんだろうな、きっと。おれには数学がわからないけど波はわかる。おまえは波がわからないけど数学はわかる。いい話じゃん。おれに理解できてなくても、だれにも理解できなくても、それはおまえだけのものだ。将来なんてくそくらえだ」

 そう言って彼はこちらを向いてウインクをした。僕は心の中を見透かされたような気がして嬉しくなった。ウインクは不得意なので代わりに小さくうなずいてみせた。

 そして二人は打ち合わせたように残りのビールを一気に飲み干した。


 それから僕たちはくだらない話ばかりした。そもそもくだらなくない話など存在しないようにも思えた。お酒が進むにつれ、話題はゆるやかに時を遡っていった。

 あの頃はよかった。

 僕と彼の満場一致だった。そういう大人には絶対になりたくなかったはずなのに。

 「楽しかったよな」彼は顔も耳も赤らめていた。

 「思い出は美化される」

 「そうだなあ、でもそれでよかったわ。しんどいことがそのまま記憶に溜まっていったら今ごろ人間やめてる。人間なんてやめて、セックスでもドラッグでもやりまくってる」

 それには賛同しかねたので僕は黙っていた。彼はそれを察したのか大きなため息をついて、独り言のようにつぶやいた。

 「おれらはもう大人になったんだ」

 「ああ、大人になった」

 口が自然と彼の言葉を繰り返していた。しかし大人とは何かはよくわからなかった。

 「大人もくそくらえだ」そう吐き捨てて彼はジョッキを乱暴に叩きつけた。

 「ちょっと飲みすぎじゃないか」

 彼は僕よりもお酒に弱かったはずなのに、二杯も多く空けていた。僕の声が届いているのかまったく自信が持てなかった。

 「いいか? お酒をもってしか人生を語れないやつはごみだ」と彼は突然真剣な表情になって言った。

 耳の痛い話だったが、実にその通りだった。

 「でもな、お酒でしか見えないものっていうのも、たしかにあるんだ」

 彼が何を言おうとしているのかがよくわからなかった。

 「なあ、おまえ、あいつのことを覚えているか? 一回だけ三人でサーフィンしに行ったやつ。あの日本チャンピオン」

 「ああ、もちろん」

 サーフィンの高校生選手権で日本一を獲ったかつてのクラスメイトだった。当時の新聞にもテレビにも出ていた。島出身で彼の名を知らない者はいないと言ってもよかった。光栄なことに、何年も前に一度だけ一緒にサーフィンしに行く機会があった。順調にいけば大手企業と契約してプロになる、そしてポルトガルのナザレで世界記録を破る、と彼は言っていた。それ以来消息を聞いたことはない。

 「これはあいつの受け売りだ。あいつは酒を飲んでサーフィンしに行った。そして二度と戻ってこなかった」

 何杯目かのハイボールを一口で飲み干して彼は続けた。

 「波に飲まれて死んだ」

 僕は唖然として言葉が出なかった。夢を語る彼の、世界の神様にすら挑むような壮烈なライドを思い出していた。

 「あいつには何が見えたと思う?」彼の充血した眼は僕をまっすぐ捕らえていた。

 「少なくともおれらには見えなかったものだ」

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