象は己の死期を悟る
彼が言っていた通り、ビーチ手前の公衆トイレから少し離れたところに、サーフボードを山積みにしたトラックが停められてあった。トラックから適当なボードとリーシュコードを選んだ。
ボードの縦軸を中心に、外側から内側にかけて白色、青色、水色の三色に塗り分けられた、シューツ製のファンボードだった。紫色のリーシュとはあまり色味が合わないような気もするが、ファッションショーに出るわけでもないのでかまわないことにした。
サーフィンの経験は少なくないものの、さして上手ではなかった。もとより水泳ですら、島生まれ島育ちを考慮すると決して上手いほうではなかった。
向いていることとやりたいことは、メーカーが異なるカメラとカメラレンズのように、往々にして嚙み合わなかった。才能と興味の乖離は、神様が人間をつくるときに犯した重大なミスのひとつのように思われた。しかし僕は神様を信じていないので、何を言っても真ではあるもののまったく無意味な主張にすぎない。
それでも僕はサーフィンが楽しかったし、好きだった。趣味とはその程度のものだと思っていた。どうして人々は生業でもない遊びで必死になって上達を目指そうとするのか疑問だった。特に、上手くならないからといってやめてしまうことは本当に理解できなかった。
乾いた砂は火傷しそうに熱かったので、サンダルに入らないように慎重に歩かざるをえなかった。身長を優に超える長さのサーフボードはかなり重く、波打ち際までの数十メートルを運ぶだけで骨が折れた。それでも鼻をくすぐる潮風の匂いは僕をわくわくさせた。
海辺の眺めは実に素晴らしかった。
フェリーからの景色との決定的なちがいは、砂浜だった。ほんのりグレーがかっていて、きらきらした微粒子が混じっているような砂浜は、巨大なパウダーファンデーションに見えた。水平線に加え、波打ち際の境界線が世界を三等分していた。厳密な境界をつくる水平線に対して、押し寄せては引いてゆく波はバレリーナのような柔軟さがあった。
視界の端を覆う緑は刺身に添えられた大葉のように、海に浮かぶ緑はパスタに載せられたパセリのように、それぞれのアクセントを果たしていた。
ビーチはにぎわっているでも閑散としているわけでもなかった。水の中で鬼ごっこをする地元の中学生、父と子が浅瀬で遊ぶのを母が見守る家族連れ、パラソルの下でたそがれる恋人、犬を連れて砂辺で散歩する老婦人。どこを切り取っても印象派のモチーフにふさわしかった。
その中で目立っていたのはファストファッションに身を包んだ男女五人組の若者だった。海に入るでもなく海を見るわけでもなく、おそらく波の音さえ聞いていない。手のひらよりも大きなスマートフォンをあちらこちらに掲げて写真や動画を撮るその姿は、ガラスケースの端で騒ぎ立てる哀れなラットのように思われた。
波際から十分な距離があるところにボードとリーシュを置いて、目印代わりに木の棒を砂に突き刺し、その横にサンダルを投げ捨てると、さっさと海に入った。
雲ひとつない快晴とはいえ、水の中はさすがに冷たかった。海水は期待を裏切らないしょっぱさだった。
一度上がって軽く準備体操をして、リーシュを膝下に巻き、ボードを抱えて波に向かった。
途切れることのない波の音は、ほかの人間や人間以外のものごとの気配を遮断してくれた。以前彼に教わった教科書的なやり方を思い出しながら、僕は自分だけの世界に没頭した。
どこからともなく力こぶのように盛り上がったうねりが奥からやってくる。波に背を向け、ボードにうつ伏せになってパドリングを続ける。背後からとてつもないエネルギーでぐっと押されるのを感じる。ボードが波に乗りなめらかに滑り始めてから、ピークが近づくここぞというタイミングで、両手でボードを押しのけるようにして立ち上がる。テイクオフだ。膝は軽く曲げ、目線は真っすぐ前。ノーズは水面からわずかに出る程度。重心を左右に傾けて進路をコントロールする。余裕があれば腰をひねってターンを決める。
そして最も重要なのは、気持ちよさに全神経をあずけること。
波に乗るのは実に気持ちのいいことだった。波を切り、風を切り、水と空気という二層の異なる流体の中を進んでいく。広大な日本海が自分ただひとりのステージのように感じられた。重装備なスキーや人工的なジェットコースターとは比べ物にならなかった。
僕にとって、サーフィンは深閑とした、極めて孤独な営みだった。いわゆるサーフロックはちっとも似合わず、むしろ、たとえばmol―74に近い空気感があった。
そこには自分と海波しか存在しない。サーフボードをインターフェースとして、僕は波と対峙する。波の中に自分の姿を見る。皮肉なことに、内省というのは決して内在的な行為ではありえない。自己の認識が常に他者の存在を要するのと同じように。そして波は、その役割にもってこいなのである。
波に乗り波に飲まれる間、僕は何事も考えずに済んだ。別れた彼女のことも、見通しのつかない将来のことも、頭をよぎることはなかった。ちょうど、人間はいつか死ぬということをみんなが忘れているのと同じことだった。
沖まで泳ぎ、波に乗り、また沖まで戻る。これを数十回ほど繰り返した。運がいいときにはターンを繰り返してロングライドができることもあった。
一番長く波に乗っていたときに、波の中に不思議な声を聞いた。三十年物のウイスキーのような、年季の入った老人の声だった。
「波の中で、君には何が見えているのかね」
声に意識が集中して、目ではほとんど何も見えていなかった。
「君には記号と意味こそが本質だと思われるかもしれん。全ての表象は記号あるいは意味でしかありえないように感じられるかもしれん。君はそれを目指している。多くの人々はそれを目指してきた。
しかしな、シンタクスとセマンティクスだけが人生ではない。いいかい、君はまだ若い。若いからまだ見えないものも、若いからこそ見えるものもある。いずれにせよ、生という営みはこの二元論を破壊するためにある。
人は出会い、別れる。その特異点で、記号論でも意味論でも捉えられないものを見出す。もちろん、一筋縄ではいかぬ。それでも皆が通る道だ。
象は己の死期を悟ると、静かに群れから外れ、姿を消してしまうのだという。自分を見つめ、自分の死に場所をを目指して孤独に旅をする。
人間はどうかね。
君はどうかね。
原風景を覚えているかね」
気がつくと不思議な声は白波にかき消されていた。波がそのエネルギーを使い果たして泡と化し、僕は推進力を失ったボードから降りた。話の内容は海の奥底に飲み込まれていくように記憶から抜け落ちてしまった。ドーパミンの効力が切れたせいか、鉛のように重い疲労にどっと襲われた。
原風景。
その単語だけがいつまでも頭の中を駆け巡っていた。
最悪だと彼は言っていたが、もっとも僕には良い波も悪い波も見分けられるほどの実力はなかった。無知のほうが幸せだという言葉は、この手のものにしては数少ない真理のひとつだと思う。
体力も尽き、満足して海から上がると、喉がからからに乾いていた。塩の味が舌の奥にじっとりとこびりついて気持ち悪かった。
すでに太陽が西に身を沈め、空は水平線から天球の子午線にかけてほんのり色づき、夕焼けの序章が始まろうとしていた。
引き潮だったことと横向きの風が吹いていたこととが相まって、僕は初めの位置からずいぶん遠くまで流されたようで、目印の木の棒を探すのに苦労した。
先ほどの若者たちがかなり近くにいた。ちらっと目を向けると、彼らはやはりスマートフォンのカメラを虚空に向け、その足元にはチューハイの缶が乱雑に捨てられてあった。僕はうんざりして立ち去った。
しかし大事なことは、悪い人間なんて初めから存在しないことだ。条件が揃ったときに限り悪い行いをする人間がいる、それだけのことだ。しかも驚くべきことに、それはほとんどすべての人間に当てはまることである。マザーテレサにもヒトラーにも、彼女にも僕にも。チェックリストの状況のちがいだけで、死刑を言い渡される人もいればノーベル平和賞を授与される人もいるというのは、実におかしなことに感じられた。
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