ある少年の飛び降り自殺

 死にたくなった。

 どうしてそう思ったんだろう。目が覚めた時にどうしようもなく憂鬱な気持ちだったからかもしれない。朝食のコーヒーで舌をやけどしたからかもしれない。授業がものすごくつまらなかったからかもしれない。あるいは、とても晴れているからかもしれなかった。

 結局のところ、決定的な理由はない。ただ、「生きたい」と「死にたい」を天秤にかけたら、「死にたい」の方が重くなっただけ。


 そんなものだから、四限目が始まる前に教室を抜け出した。授業前だというのに廊下は騒がしい。話し声だけではない。生徒達はたいてい群れており、それはお手洗いだとかですらも例外ではなく、そうやってコミュニティを形成していることが当然とする、その様子が騒がしい。そうして、その騒がしさがひどく不快にさせる。うるさいなぁ。騒々しさを掻き分けながら歩く。

 「死にたい」がまた重くなった。


 全く何も考えないままに、屋上に繋がる階段に着いた。一段一段と上りながら気づいた。どうやって死のう。本当に考えもなしに来てしまった。屋上は閉鎖されているのに。いっそ、階段から転げ落ちたら死ねないかな。でも、打ちどころが良かったら死ねない。うっかり生きてしまうのは嫌だ。せっかく死のうとしているのだから、スパッと死にたい。

 そんなことを考えていたら、扉の前まで上りきっていた。あーあ、屋上に出られたら飛び降りられるのに。運良く開いていないかな。ドアノブに手をかけて捻ると、抵抗をあまり感じずにガチャリと聞こえた。あれ、いけるかも。押してみれば、ドアは軋みながら開いた。


 涼しい風が春の匂いと共に通り過ぎて行く。屋上はフェンスに取り囲まれており、昔使われていたのだろう錆びついたベンチだけが置いてあった。

 どうして開放されているんだろう。年度が変わって開放されるようになったのだろうか。だとすれば話ぐらいありそうなものだけど、そもそも僕が話を聞かないんだった。まぁ、これも神様の思し召しというやつか。

 神様は僕に「死ね」と仰られている。


 錆びついたフェンスに手をかけ、よじ登る。軋んだ嫌な音がする。悲鳴だ。風雨にさらされ、錆つき風化し、それでいて終わることができない。その悲嘆がこの音なんだ。僕と同じだ。でも、僕は今日終わる。

 屋上の縁へ降りる。フェンスのなくなった景色はとても綺麗だ。どこまでも澄んだ空と校庭を囲む桜の色合いが鮮やかで晴れ晴れとする。

 建ち並ぶ家々や道行く人々を見下ろす。散歩する老人、井戸端会議をしている主婦達、自転車をのんびり漕ぐ警察官、日向ぼっこをする猫など、何の変哲も無い町並み。僕が死ぬことなんて気にも留めずに、町は通常運行で廻っている。それはそうだ。僕一人なんていようがいまいが関係ない。


平凡な人生だった。

 運動、勉強、芸術、エトセトラ、エトセトラ……様々な物事において、僕の凡庸な才能は遺憾なく発揮されていた。優秀でもなく劣等でもなく、恐ろしいまでに平々凡々、街中百人のステータスの平均値で作られている、万年エキストラのごくごく普通の人間が僕だ。

 優れた誰かがいるから長所なんて一つもない。僕より目立つ誰かがいるから称賛なんて一度もされない。僕の代わりは誰でもできるから存在意義はまるでない。そんなものだから、なぜ僕が生きているのか、どこに僕の居場所があるのか、わからなくなった。

 そうだ。だから、僕は死にたいんだ。「死にたい」が重くなったのではない。「生きたい」が軽くなっただけだ。とにかくこの世が生き苦しいから、生きる気力がなくなって、そうして死にたくなるんだ。


 僕は今、生と死の境界線に立っている。後、一歩踏み出せば、僕は地面に落ちていき肉塊となる。狭山透という人間から、ただの肉塊に。

 心臓の鼓動が早くなる。これは恐怖ではない。興奮している。僕は自分の人生が幕を閉じることに、それを自分の意志で行うことに、興奮している。

 でも、これではいけない。これでは逝けない。

 落ち着いた気持ちで死にたい。

 目を瞑って深呼吸する。

 澄んだ空に覆われていて、優しい日が差していて、穏やかな風が吹いていて、生徒や先生の声が遠くから聞こえる。ああ、自分は一人なんだってはっきり分かって、すごいスーッとした気持ちがする。無気力と言おうか、やるせなせと言おうか、がらんどうな虚しさが去来して、胸を締め付ける。そうしてそれが、どこか心地良さを感じさせる。

 ゆっくりと目を開いた。心臓はゆっくりと脈を打っている。

 今なら死ねる。

 足を浮かせた。

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