第6話 基本は算術

「こんなにも解らないことばかりなんて」

 試験終了後。泰久はううっと涙を流していた。

 零点取るとは言われていたが、まさかそんなことはないだろうと思っていた。

 しかし、最初の試験は間違いなく零点。お情けで途中から差し替えられた問題だって、半分しか解けていない。

「酷すぎる」

 一方、丸付けをした晴明もぐったりだった。

 正直、入ってきたばかりの陰陽生おんみょうしょうよりも出来ていない。そう言いたくなる。しかし、自分の力のなさに打ちひしがれている泰久にそれを言うほど鬼ではなかった。

「ううん。教える以前に疲れちゃっているね」

 そこに、一通りの仕事を終えた保憲が顔を出した。試験監督と丸付けを頼んでいたが、それが予想以上に時間を食っているようなので、心配になってしまったのだ。

「予想外です」

 ううっと嘆く泰久と

「駄目でした」

 師を相手には容赦なく現実を言う晴明。そんな二人に保憲はくくっと笑うしかない。

「仕方ないなあ。ほら、父上が家にあった基本的な本を持ってきてくれたよ」

 保憲は疲れている泰久の前に、くたくたになった本を置いた。それに晴明が反応する。

「これって」

「晴明も使っていたよね。まあ、入門編としてはこれが一番だろう」

「はあ」

 明らかに陰陽寮に入る以前の問題だけどと、晴明は溜め息を吐く。一方、入門書と聞いて泰久はその本をすぐに開く。

 だが、書かれていた内容に溜め息が漏れた。

「さ、算術の教科書だ」

「当たり前だろう。何をするにも計算が出来なきゃ話しにならない」

 ずーんと沈んでいる泰久に、何を言っているんだと晴明は舌打ちだ。徐々に面倒になっているのが解る。

「まあまあ。ほら、これからやろう。晴明も手伝う」

「はい」

「ううっ」

 保憲が率先して問題を選び、晴明は渋々、泰久は泣きながらも問題を見た。が、泰久はこれってどうやって解くのと固まってしまう。

「三角形の斜辺を出す問題だ。基本だろう」

 晴明はまさか見たことがないのかと驚く。

「いや、ははっ」

 見たことはある。

 泰久の生きる江戸時代では、算額という神社に数学の問題を書いて奉納するのが流行っていた。そしてそれを解くのも流行っていた。しかし、そんな算術流行は江戸のもので、泰久のいる京では下火だった。

 というわけで、見かけたことはあっても、解き方を知らなかった。

「重症だな。それじゃあ、星の位置を知ることも出来ない」

 晴明はどうしますと保憲を見る。その保憲も、手強いなあと苦笑していた。

「教えてあげるしかないでしょ。ここまで来た根性はあるんだし」

「根性と問題が解けることは違いますけどね」

「まあまあ。ほら、教える」

 保憲は晴明に筆を渡し、再びどこかに行ってしまう。しかし、別に逃げたわけではなく仕事だ。廊下に待ち人がいる。

「暦博士様、こちらなんですが」

「ああ、解っている」

 という感じで、保憲はそのまま奥へと引っ込んで行った。

「忙しいんですね」

「そうだな」

「晴明様は」

「セイメイと呼ぶな」

「す、すみません」

 だって、泰久は生まれてこの方ずっとセイメイと呼んでいるのだ。ちらっと晴明の顔を見ると、不機嫌そのものだった。

 あんなにも憧れていた祖先、安倍晴明が目の前にいるのに、こんな顔しか見てないなあ。

 泰久は益材に似ているという情けない顔になってしまう。するとますます晴明の顔が不機嫌になった。

「俺はまだ下積み中だ。忙しいが雑用が多いから、時間はある」

 しかし、教える時間はあると溜め息交じりに言ってくれて、泰久は少しほっとする。

「お、お願いします」

 泰久はそう言って問題を見たが、やっぱり解ける気がしないのだった。



「ううっ、算術をこんなにやったのは初めてだ」

 そしてそこから数刻後。泰久はようやく三角形の斜辺の求め方を覚えたのだが、それだけで一杯一杯になっていた。

 まさか陰陽道を習いに来て算術を習うとは。そんなことを何度も思ってしまう。

 しかし、陰陽寮を一日見ている限り、計算をするのが仕事であるのは間違いないというのは理解した。そして誰も呪術的なことはやっていないようだった。

「どうして呪術が主になったんだろう」

 ふと疑問になってそう呟くと

「面倒だからだろう」

 と晴明が元も子もないことを言ってくれる。

「そうなんでしょうけど」

 泰久が不満そうに口をとがらすと、晴明はやれやれという顔だ。

「いいか。お前が三角形の斜辺を求めるのに苦労したように、陰陽道や天文道というのは一般には解り難いものなんだよ。そこで説明の省略として呪術というのが出てくるんだ」

 だが、すぐにそう説明してくれた。泰久はどういうことでしょうとさらに説明を求める。

「不思議だと思う気持ちを利用しているってことさ。不思議は不思議な呪術によってしか理解出来ないとしてしまえば、説明しなくてもいいってことだ。雲上人の方々にすれば、詳しいことなんて知る必要はないし、結果さえ解れば問題ないしな。それと同時に、必要な知識は理解出来る者にだけ伝えることが出来る」

 晴明はそれが儀礼化をもたらした原因だろうが、学ぶ気のないものにこの内容は理解出来ないだろうと、机に置かれている問題集を指で叩く。

「確かに、これを理解しなければ星の動きは解りませんって言われると・・・・・・途端にそれって必要? みたいな感じになりますね」

 泰久はこれだけの計算をした結果が星の動きですと説明されても、何も理解出来ないよなと頷く。

「そういうことだ。本来、星の動きは気候を読み解くために必要なものだ。それと暦を作るためだな。この日の星の動きが人の動きに影響するというものですらなかった。すでにこの点は忘れられ、仏教の宿曜道すくようどうの流入なんかもあって、占い的な要素を帯びているけどな」

 晴明はこれでも呪術的な影響はあるし、それを求められることもあると言う。

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