第3話 2

次の日、おばあさんがお稽古に出かけた後、私はまた二階のあの部屋に行った。

 階段を上がり、襖を開く。

 不思議にきのう感じた淋しさは、今日はもうなかった。きのうは始めてこの使われていない部屋に入ったから、気持ちが高ぶっていたのかもしれない。

 部屋に入り、再び部屋を見わたした。いくら見ても、昨日の不思議な感覚がどこからくるのかわからなかった。

 私は、押入の襖を開けた。ぷん、と湿気のにおいがした。頭を押入の中に入れてみる。ガランとした空間だけだった。何もはいっていない。背伸びをして天袋の襖も開けた。天袋は高すぎて中を確認できない。

 私は、おばあさんが使っている踏み台を下の部屋から持って上がってきた。踏み台に乗って、背伸びをして天袋をのぞいてみる。でも、何もみつけることができなかった。

 あたりまえだと私は思う。何もあるはずがない。私は、何をさがしているのだろう。バカなことをしているようにも思うが、でも、やめられない。そうかきっと、何もないことを確かめたいだけなんだ。

 隣の部屋にも入る。押入を開ける。予想通り何もない。天袋は……。

 押入れの前に踏み台を置き、天袋をのぞく。

 え?  

 胸がドキドキしだした。

 何か見える。

 何かが奥の方にある。天袋の板に張り付いている。見つけないでというように隅の方で息をひそめて、それはそこにあった。さっと見ただけでは、きっと見落としてしまっただろう。

 私は、深呼吸をして気持ちを落ち着かせ、おもいっきり手を伸ばした。手の先がとどきそうでとどかない。もう少しなのに……。何か棒のような長い物はないかしら? 私はもう一度急いで下の部屋におり、棒の代わりになるものがないかさがした。そうだ、ほうきだ。ほうきがある。おばあさんは、今でもそうじには電気掃除機を使わず、はたきとほうきを使っていた。いそいで柱にぶら下げてあるほうきを取り、二階に駆け上がった。ほうきの柄でかき出すようにその何かを手前に寄せた。

 手を入れて触れた指先には、枯れ葉の感触が残った。壊れないようにそっと取り出してみる。かさかさに乾いたそれは、黄ばんだ古い大学ノートだった。

 どうしてこんなところにノートがあるんだろう。私が、探していたものはこれなのかしら……。私は、探していた……?

 ノートの表紙には『助けて 助けて 助けて』というなぐり書きがあった。それも、何十も何百も重ね書きがしてある。字が重なって真っ黒になっているところもあった。隅のすみまで「助けて」という文字で埋め尽くされている。

 私はびっくりして、ノート裏返した。裏表紙にも『助けて』という文字がびっしりとかかれていた。

 手が小刻みにふるえている。開けてノートを読もうかどうしようかとまよっていると、昨日感じた寂しさがまた私を襲ってきた。

 このノートを書いた人はだれだろう。ノートの表紙や裏表紙には、名前やそれを連想させるようなものは書かれていなかった。ここに下宿していた人のノートなんだろうか。もしその人の物なら、その人も、ひとりぼっちが淋しくて、耐えられなかったのかもしれない。「助けて」なんて、なんだか怖い。事件? それとも……。

 私はそんな気持ちをおしこめて、ノートを開いてみた。

 始めのページを開く。

『闘争を始めて行動に移したのは、いつだっただろう。あれは、何気なく行った大学でそのまま座り込み、離れることができず、一晩中すごした。セクトの問題ではない。大学の崩壊に対し、私も何か行動に移さなければという思いからだった』 

 これは、何なんだろう。誰かが書いた日記のような物かもしれない。

 私は、続きを読んだ。

『一週間後、機動隊が導入された。大学は権力とは無縁な場であるべきじゃないのか。

 今でもわからない。頭の中がパンクしそう。

 敵は巨大。市民の治安をいかにも維持するかのように巧妙に装って、機能的に組織的に弾圧してくる。私たちの武器は真理であり道理である。なのにそれを完全に無視し、圧殺され退けられた悔しさ、みじめさ。我々を取り巻く常識や政府の欺瞞性になぜすべての人は気がつかないのだろうか。なぜ、怒りを覚えないのだろうか。

 私にとって闘争とは何であるか。

 この行動は正しいのか。正しければ、すべての人が共感してくれるはずではないのか。一つにまとまらない闘争。学生自治会内部で、セクト間の主導権争いをして、巨大な悪と戦えるとでも思っているのか。

 暴力反対!

 そうさ、私は、未熟さ。なんとでも言ってくれ!


 大学に入って、6冊目のノート、運動のあり方? 違うなぁ。さて、私はこのノートに何を書き込んでいくことになるんだろう。


 この前、家に帰ったとき、母が成人式に着る着物だと言って私に晴れ着を見せた。そんなもの着れるかと、叫びたかったのに、また、私はいい子を演じていた。いつまで演じていれば気が済むのか。未熟の上にバカを進呈しよう。

 あなたはいい子ねとささやく母の声が聞こえる。今のこんな私を見て、母は許してくれるだろうか? 許すなんていう問題ではないだろうなぁ。学生運動にだけは手を出すなと言った母。あなたの人生の問題なのよ、って言ったっけ。そう、私の人生の問題なんだから、自由にさせてくれ。いっとくけど、これは、学生運動じゃありません。学園紛争なんだなぁ』


 闘争?

 機動隊?

 セクト?

 よく分からない言葉がならんでいる。でも、誰かの六冊目の日記だということはわかった。最後のお母さんについて書いてあることもなんとなくわかる。この人は、お母さんにいい子だといってもらいたいんだ。でも、いってもらえないことをしている。だから、お母さんに助けてといってるんだろうか? 

「ただいま」

 おばあさんの声。

 私は、ノートを天袋にもう一度かくし、踏み台とほうきを持って素早く階段を下りた。私がおりるのと、おばあさんが暖簾をくぐって入って来たのが同時だった。

「ああ、美弥ちゃん、そこにいたん。いや、ほうき持って、掃除してくれてんの? おおきに。もう、ええさかい、ほうきおいて。冷たいすいか買うてきたし、食べよか」

 私は、おばあさんに気づかれないように踏み台をしたに下ろした。

「はい、手を洗ってきます」

「手ぇ洗う前に、そこの新聞なおしといて」

「……」

 私は、新聞のどこをどう直せばいいのかわからなかった。

「なにしてんのん、じっと突っ立って……。そこの押入の下の段になおしてくれたらええのに。いつも私がなおしてるのん見てるやろ」

 おばあさんは、不思議そうに私の顔を見ている。まるで、この子は私のいってることが聞こえているんだろうか、といぶかっているようだった。

「あ、わかりました。新聞を片付けるんですね」

 わたしは、ようやく、なおすがかたづけることだと理解した。

「どうしたんえ、考え事か? しっかりしよし」

 おばあさんはやっと安心したかのように、流しにまな板を出し、すいかを切りにかかった。

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