第3話 1

    


 おばあさんは忙しい人だった。お茶のお稽古、短歌の教室と出かけることが多かった。


 その日まで、私は二階に上がってみようとは思わなかった。私の好奇心よりも、おばあさんとうまくここで暮らしていく方が、私には大切なことだと思っていた。おばあさんのいやがることはしないと考えていた。


 おばあさんが出かけた後、私は茶の間にあるテレビをつけた。もちろん、はさみとティッシュをもっている。紙を切り始め、テレビの画面を紙を切る合間にチラチラと見ていた。


 テレビの中には、チラチラと線が入るモノクロの画像が映っていた。昔のフイルムなんだろう。女の人の物悲しげ歌がながれるなか、白いヘルメットをかぶった人たちがたくさん映っていた。スクラムを組んで動いている。だれかが何かを投げつけた瞬間に、路上にパッと白い炎が上がった。次の場面では、高い建物に凄い勢いで水がまかれていた。警察かと見える人たちは黒いヘルメットをかぶり盾や棍棒を持っていた。押し込まれている人たちは角材を振り回したり、石を投げたりしていた。どう見ても警察の人たちの方が統制が取れていて強そうに見えた。この人たちは何をしているんだろう?


 私の手は止まり、テレビの画面をじっと見ていた。

 その時、二階でだれかが私を呼んでいるような気がした。それは、ふしぎな感覚だった。一人で留守番をしていた私をだれかが呼んでいる。


 神経を集中させて耳をかたむけた。

 何かの気配がある。

 二階にだれかがいる。

 泥棒?

 泥棒なら私を呼んだりしない。


 おばあさんから、上がってはいけないと言われていることは心の隅にひっかかっていたが、からだがかってに動いた。いや、こんなことがおこることを、私は待っていたのかもしれない。二階に上がる理由を、私は、ずっとさがしていた。はじめて私がこの家に来た日、紙切り遊びを二階から誰かが見ていると感じた時から、二階に上がる理由を私はさがしていたんだ。


 もう、紙切り遊びはいい。ハサミを置いて、どきどきしながら階段に足をかけた。


 階段は急だった。角が丸くなり黒光りしていた。私の知らない何人もの人がこの階段を上り下りしたんだろう。私の足が階段にかかるたびに、ぎしぎしと音がした。私はなるべく音をたてないように手をつき、忍び足で階段をのぼった。


二階には廊下に沿ってセピア色に変色した襖が閉まっていた。二部屋分の襖だった。襖がコトコトと音をたててゆれている。下で聞いた音はこの音だったのか。襖の前で私は息を整えた。


 おばあさんにしかられるかもしれないということは、もう頭にはなかった。ここを開けてとだれかが私にいっている。もう、引き返せない。


 私は襖に手をかけて、ひいた。カタッと音をたてたまま、うまく襖が動いてくれない。力を入れたり抜いたりしながら動かし続けると、カタカタとひっかかりながら、少しずつ襖が開いていった。


 中をのぞく。


 だれもいない。


 そのまま、嫌がる襖をだましだまし大きく開けた。

 私は、詰めていた息を一度にはきだした。何もなかった。私を呼んだはずの人はいなかった。やはり、呼ばれたと思ったのは私の好奇心が作り出した幻だったのだろう。


 部屋の中には驚くようなものは何一つなかった。おばあさんがいったように、床が抜けるほどあれてもいなかったが、たたみは変色しからからにかわき、うっすらとほこりがつもっていた。おばあさんも、もう長い間ここには入っていないことがわかった。窓ガラスに気づかないぐらいの隙間がある。襖がコトコト音をたてたのは、そこを通る風の音だった。


 となりの部屋の襖も開ける。同じく何もない部屋だった。

 昔、下宿屋をしていたこの家。何人もの学生さんがここで勉強したんだろうなぁと思う。家族から離れて一人で。

「一人で……、一人で……」

 私は、一人という言葉をくりかえした。

 私も一人。ママやパパの顔が思いだされる。私はそれを追い出すように、頭をふった。


 ここに下宿していた人たちは寂しくはなかったのだろうか。一人は辛くなかったのだろうか。その人達は、大学生で子供の私とはちがうと分かってはいたが、どうしても、その人たちと自分をかさねて考えてしまう。


 子供と大人では違うのがあたりまえだよねと、私はもう一度頭をゆらした。

 最初の部屋に戻り、がらんとした部屋の中に足を踏み入れる。足の裏に畳の感触をたしかめながら歩いた。部屋の真ん中に座ってみる。


 部屋の中を見回す。茶色く変色した畳。当時は白かっただろうと思われる黄色くなった襖。崩れそうな壁。じっと見ていると、壁に茶色のしみがあるのに気づいた。液体をとばしたときのようにカーブを描いていた。


 立ち上がって、そのしみを手でなぞってみた。ひとつ、ふたつ、みっつ。と、急に淋しさがこみ上げてきた。背中から、淋しいようとだれかがだきついてくるようだった。


 淋しいの? 淋しいの? あなたも淋しいの? 私?

 私はうでを抱きしめてうずくまった。


(ママに会いたいよう。パパに会いたいよう。みんなでいっしょに暮らしたいよう。一人はいやだよう)


 そう……。

 誰? 誰の声。誰がいってるの? 誰かいるの?


 私はまわりを見わたした。誰もいない。誰もいるはずがない。

 また、窓がカタカタなった。


 私は大きく息を吸った。そうだ、きっとこれは私の声なんだ。私はいつもこういうふうに叫びたかったんだ。思ったことをこんなふうに家族の前で叫んでいたら、どうなったんだろう。パパとママは別れずに、私といっしょに暮らしてくれたんだろうか?


 古いたたみの匂い、壁の匂い、この部屋の空気が私をつつんでいる。


 涙がこぼれそうになる。でも、ここで泣いちゃいけないんだと思い返して、くちびるをかんだ。一人でも大丈夫だってママにいったことが嘘になっちゃう。淋しいなんていったら、ママが困るんだ。ママが困ることは絶対しない。そんなこという私を、ママは嫌いになるに決まっている。もう二度とママと暮らせなくなるかもしれない。パパが行ってしまって、ママも行ってしまう。いやだ。それだけは、いやだ。


 私はからだをかがめて小さく小さくなった。これ以上小さくなれないぐらい小さくなって、前にゆっくり倒れ、額をたたみにおしつけた。

「ただいま」

 おばあさんの声がした。


 私はハッと顔を上げた。おばあさんが帰ってきたんだ。私は何をしてるんだろう、おばあさんが上がってはいけないという二階の部屋で。早くここから出て行かなくっちゃ。


 私はいそいで階段をおりて、ちゃぶ台の前に座った。


「あつー、着物はやっぱり暑いわ。私も夏だけは服にしようかしら」

 おばあさんが暖簾を分けて入ってきた。汗を拭きながら、ちゃぶ台の上をちらっと見た。切った紙の乗っているティッシュに気づいたようだった。私は、急いでティッシュをまるめてポケットに押し込んだ。


 きっとおばあさんは、ママから私のこの遊びを聞いていたんだ。ちゃぶ台からゆっくり私に向けられたおばあさんの目が、今までになく真剣だった。

「美弥ちゃんは、細かいことが好きなんかなぁ?」


 私は、何を聞かれているのか分からなかった。

「そこの押入開けとうみ」

 おばあさんが私にいった。

「ここ?」

 私は聞きながら、頭の中は、どういえば紙切り遊びが楽しい遊びだということが分かってもらえるのか、そのことでいっぱいだった。


「コウリが入ってるやろ」

「コウリ?」

 おばあさんが何をいってるのかわからない。

「そうや、その手前の竹で編んだ箱のことや。それ、開けてみよし」

 私はいわれるまま、コウリとよばれる箱を開けた。その中には布がいっぱいはいっていた。


「それな、私が着てた古い着物の布や。パッチワークって美弥ちゃん知ってるか?」

「うん。聞いたことがある」

「そうか、ほな、その布あげるし、何か作ってみいひんか? ほら、こんなんもできるんや」


 おばあさんは、持っていた茶巾絞りの袋を見せた。いろんな小さな布を縫い合わせてきれいな模様ができている。


「これは、私が作ったんとちがうえ。私のお友だちが作ってくはったんや。紙切っても、何にもならへんやろ。細かいことが好きやったら、きれ切ってつなぎ合わして、何か作ったらええと思うんやけど、どう思う」


 私は、やっぱりおばあさんはママから話を聞いているんだと思った。この遊びは、凄く悪いことなんだ。やめなければ、やめなければいけない。なぜかわからないけど、大人にとっては悪いことに見えるんだ。何も作り出すことがないことをするのは悪いことなんだ。そう思うと頭がいっぱいになって、すぐにはパッチワークをするとはいえなかった。


 口をもぐもぐさせてだまってしまった。

「ああ、興味がなかったらええねん。ちょっと、そんなことも考えてみたらええかなぁと思ただけや。やってみとうなったら、いつでもそれ使うたらええしな。気にせんでもええ、気にせんでもええ」

 おばあさんは顔の前で手を振り、さっと私に背を向けた。私は、紙切り遊びのことを気にしなくってもいいといってもらえたような気がして、ちょっとほっとした。


 

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