第5話

    


 私は、おばさんの心配がどういうことなのか考えてみた。二階には、学生運動か学園紛争か知らないけど、そんなことをしていた女の人がいた。これは、私の方がよく知っている。


 そう、確かにあのお姉さんのことだ。おばあさんは、私が二階に上がって、あのお姉さんの何かにふれることを嫌がっているんだと思う。


 何かってなんなんだろう? おばあさんが嫌がる何か。学生運動のこと? そんなわけはない。今はあのころと時代が違いすぎる。じゃ、何なんだろう? 二階に上がると感じる感覚。泣き出したくなるような感覚。もしかするとおばあさんにも、あの感覚が私と同じように感じられるのかもしれない。


 それはきっと学生運動というものとは別のもののような気がする。私は、学生運動が何かということは調べたいとは少しも思わなかった。興味がわかなかった。ただ、あのお姉さんのことが、気になってしかたがない。お姉さんと二階に充満している泣きたくなるような感覚。あの人はいったい二階で何をしたんだろう。


 いくらおばあさんが、私に二階へ行かせたくないと思っても、おばあさんは一日中私を見張っているわけにはいかなった。私は、おばあさんの目をぬすんでは二階の彼女に会いに行った。

 私は、かくしておいたノートを手に取り白紙のページをさがした。一ページずつめくる。何が書いてあるのか、もう読むこともない。お姉さんに会えればそれでいい。


 あ、次のページだ。

 白紙のページは開けない前からわかった。ゆっくりとページをめくる。何も書いていないページをじっと見ていると、やはりかすかなめまいを感じた。私は目を閉じた。

 

 次の瞬間、私は屋外にいた。暗い空には星がぽつぽつと光っている。遠くには暗い空よりももっと黒い山々が影のように見えた。ここはどこかのビルの屋上らしい。


 屋上の端の方に女の人の気配があった。夜の空をバックにからだを動かし、踊っているようにも見える。

 それがだれだか、私にはすぐにわかった。私は近づき、「こんにちは」と声をかけた。


 お姉さんがふりかえって、

「びっくりするじゃない。あ、あんた」

と、大きく目をひらいて瞬きをした。

「あんた、この前、将軍塚であった子ね。あの時、ふっと消えちゃって、どうしたのよ。ちゃんと家に帰れたの? 自分で帰れるなら、さよならぐらい言え。心配するじゃないの」

「ごめんなさい。突然帰り道を思い出したから……」

 私は、えへっと笑った。

「ま、いいか。それで今日は、何でこんなとこにいるの? それと『こんにちは』じゃないよ。『こんばんは』が正しい日本語だよ。日本語は正しく使いましょう」

「また、酔ってるの?」

「さっきね、ちょっと、バイト先のお酒をちょうだいしちゃってねぇ……、て、あんたには関係ないでしょう」

 お姉さんはちょっと私をにらみつけ、そして、フェンスにもたれて空を見上げた。

「私、酔っぱらいってきらいなんだ」

 私はいった。

「あんた、かなしそうな顔をするね」

 お姉さんは小首をかしげ、私を見ている。

「タバコもきらい」

「なんでさ」

「ママ、思い出すから」

「ママか、お母さん……。なつかしい響きだなぁ」

「お姉さんには、ママがいないの?」

 私は、そんなことはないと知っていたが、聞いてみた。

「いえ、いえ。ご健在ですよ。私の理想の女性」

「やっぱりね」

「うん? いない方が良かった?」

「うん」

 私はうなずいた。

「また正直な返事だね。私の母はね、優しくって、暖かくって、とっても私のことを愛してくれているの。頭が良くって、かわいい私が自慢なの。私がほめられると、自分がほめられたように喜ぶの。お母さんか……、いい響きだなぁ。お母さん会いたいよう。だっこされたいよう……」

 お姉さんは、自分で自分をだきしめた。


「何甘えてんのよ、大人のくせに。酔っぱらい」

「ひどいこというね」

 お姉さんは、くちびるをとがらせた。

「現実はそんな甘いもんじゃないよ。私のママはね、平気で私を捨てることができるのよ。仕事でいらいらしたら、タバコ吸って、お酒飲んで……。仕事で私がじゃまになったら、私を捨てるの」

「ちょっと、まって。へぇー、そんな女の人がいるんだ。子供命じゃない女の人がいるんだ。ちょっとあこがれるなぁ」

「冗談じゃないわよ。捨てられる身にもなってよ」

「そりゃそうだね。失礼。でもさ、あんたは捨てられたと思ってるかもしれないけど、お母さんは、そんなことこれっぽちも思ってないかもしれないじゃない?」

「よく知らないおばあさんの家へ、一人で行けっていう人だよ。それでも、私が捨てられたわけじゃないと思えというの?」

 私は一気にいった。


「ああ、この前おばあさんの所に住んでいるといったのはそういうわけね」

 お姉さんは、ふんふんと首をふった。

 私は、お姉さんをにらみつけて顔をしかめた。お姉さんはそんな私を無視して続けていった。

「でもさ、行けっていわれた所はおばあさんの家じゃない。良い方なんじゃない?」

「捨てられる場所にいい方とか悪い方とかあるわけないじゃない。捨てられる身にもなってよ。場所なんか問題じゃないでしょう。子供を捨てるってことに私は怒ってるの」

「怒ってるだけ?」

 お姉さんは、ニヤッと笑った。


 私はうっと言葉に詰まってしまって、質問に答えることができなかった。

「あんたは、まだ子供だからわからないかもしれないけど……。あんたは自分が子供だからそんなに寂しいんだと思ってるかもしれないけど……」

「私、寂しいなんていってない」

「ああ、そうだったね。でも、聞いて。あんたは、今、ママに捨てられて、ひとりぼっちで寂しいと思ってるかもしれないけどね、人間てさ、結局はひとりなんだよ。大人になってもさ、ひとりはさびしいんだよ」

「お母さんに愛されてる人にいわれたくない」

「うん。それもそうだね。でもね、愛されてても、その愛が問題でもあるってこと、わかんないだろうなぁ……。母性愛ってすごいんだよ」

「何それ」

「母性愛の名の下に娘を食い殺すの」

「妖怪の話?」

「そう。世にも恐ろしい妖怪。ママゴン。娘がかわいくてカゴに入れて外に出さないの。そうすると、娘はどうなると思う」

「わかんない」

「足が萎えて歩けなくなる。自分では生きていけなくなるの。生きている実感がないから、どうすれば実感がわくか、自分を傷つけてみたくなる」

 お姉さんの目が遠くを見ている。私は、このままお姉さんがフェンスを越えて飛び降りてしまうんじゃないかと心配になってきた。


「あんたにはお父さんがいるんだろう?」

 お姉さんの目が私に帰ってきた。

「お姉さんにはいないの?」

「ひとりいるけど……」

「愛されていないんだ」

「そうね、愛ねぇ……」

「私のパパはね、いないの」

「いない? あ、ごめん。変なこと聞いちゃったかな」

 お姉さんは、おでこをコツコツたたいた。

「でもさ、おばあさんがいるじゃない。きっとあんたを愛しているって」

「どうして、おねえさんにそんなことわかるの?」

「だって、私はあんたがかわいいと思えるもの。ほんと、なんか私の子供時代みたい」

「それって、自分のことをかわいかったと言ってるのと同じじゃない?」

「へへへ……」

 お姉さんは照れて笑っている。

「おばあさんは私を愛してくれているよ。でも、やっぱり、ママがいい」

「お母さんにそういってみな」

「だめ、お仕事のじゃまはできないもの」

「電話すればいいじゃない」

「ママは、仕事がいそがしいの。私、わかってんだ。仕事が生き甲斐なんだ」

「さっきと、いってること違うじゃない。あんた……、ちょっと悲壮感がただよってるよ」

 ママに対する思いは、私にもわからない。好きで好きで好きなんだけど、ちょっと嫌い。


「ねえ、それより、お姉さん。ちゃんとこっち向いて」

 私は、お姉さんの顔をきちんと見てみたかった。山で会ったときは、よれよれの汚いジーンズ姿だったから、よくわからなかたけれど、今、どこかの制服らしいミニスカートと小さな白いエプロン姿のお姉さんは、かわいかった。さっき、お姉さんが私を自分に似ているといったけど、私は、どこかママにお姉さんが似ているような気がしていた。


「なんだよ、急に」

 私は、後ろに体を引いているお姉さんの顔をのぞきこんだ。

「お姉さんてほんとうはかわいいんだ」

 やっぱり、どこかママに似ている。眉をすこし細くすると、きっともっと似ている。

「やなこというね。そういういい方、だいっ嫌い。かわいいっていうのは、男にこびてることだよ。そんな小さいときから、男にこびちゃいけないよ。女だってひとりで生きて行かなきゃなんないんだから」

 お姉さんは、私を押しのけた。

「ひとりで、生きて、私のママみたいに子供を捨てるの?」

 私は聞いた。

 お姉さんは、顔を見られるのがはずかしいと思っているか、下を向いて髪をふり顔をかくした。

「ちがうってば、男に頼らないで生きることと、子供を愛して生きることは全然別の次元のことであって、歴史的に見ても男社会の中で女はいつも……」

 私は、お姉さんのよく動くくちびるをじっと見つめた。

 私のママの生き方は正しいかもしれないけど、私の寂しさはどうしたらいいのか、答えがほしかった。

「負けた」

 お姉さんが、がっくりと肩をおとした。

「もう、帰るわ。どうせ、あんたはここのホテルにでも泊まってるんだろうから、送って行くなんて今度はいわないよ。バイバイ」

 お姉さんは歩きながら後ろ手に手を振った。



 お姉さんの姿がドアにかくれると、私はおばあさんの家の部屋に帰ってきていた。


ひざの上の日記

『バイトの途中で、店にあったお酒をちょっと失敬したら、急にせつない気持ちになってしまった。自己のブルジョワ性をこわすために、生活費を親の世話にはならないといっても、こんなに疲れてしまっては闘い続けられるかどうか……。体重、ただ今三十二キロ。なんてね』


 あんなに背が高くて、三十二キロ? 私より軽いじゃない。そんなんでお酒やタバコばっかりのんでたら、死んじゃうよ。


『屋上にいって、口から出まかせにジャズってると、また出てきたんだよね。あの子が。お前は、何なんだ。お前は、私の何なんだ。聞いても、えへへと笑うだけ。私にもあんなころがあった。母の期待に応えることだけをよしとしていた。あの子も母の期待にいっしょうけんめい応えようとしているようにみえる。まるで、私の少女時代のように。


 いつの間に私は、母のこまることするようになったんだろう。学生運動だけには参加しないでと、今でも私にうったえる。それを聞くたび、私は闘争にひかれていく。ほんとうは、もう、どうでもいいと思っているのに、母の顔を思い出すたび困った顔を思い出すたび、私は、デモに参加し、座り込みを続ける。愛という名のもと子供のためという大義名分に従って子供を支配しようとした母。悪意のないのはわかっている。デモ、ワタシハ 生きづらいんだよう。生きてる実感がもてないんだよう。だから、私はあなたの嫌がることをし、生きてる実感を持ちたいだけに闘争に走る。私の闘争とは ソンナモノナノデス。ただ単に、生きてる実感がほしいために、指先をカミソリの刃で傷つけるように』


 ノートに茶色のしみが付いていた。

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