彼と彼女 3

「寒い……」

 灰色に古ぼけたコンクリートの外壁に背中を寄せて、薄い夏服は寒冷を防げず、京陽はガタガタと体を震わせる。

 12月中旬にこんな格好じゃあ、さすがに賢明な選択ではないと京陽は思う。

 身を縮めて出来るだけ温度を保ちながら、諦めの思いが京陽の頭に掠れる。

 もう帰ろうか……

「え……?」

 学校を後にしようと思った直前に、困惑の混じる声と共に、待ちに待った人物はようやく京陽の前に現れた。

 長袖のワイシャツにブレザージャケットという模範な本校学生の服装の上に、私服の厚いコートを羽織っていて、白い指だけが袖口から突き出した。チェック柄の灰色マフラーが黒い髪と共に首を囲んで、マフラーしまい髪となっている。防寒力が低そうなスカートの下にデニール数の高いタイツが着用されて、少女を寒さから守っている。

 とても可愛らしい女子高生コディネートだが、京陽は白皙な首を見られないことに少し残念と思った。

 そこがチャームポイントなのに……

 そんな京陽の男心を気付く気配もなく、少女は目に疑問を宿らせる。

「どうして……豊原くんが」

「小野里……遅い」

 かけるべき言葉を探していたが、京陽はまずこんな天気の中で三十分も待ったことに文句を言った。

「……もしかして、わたしを待ってたの?」

「うん」

「……どうして」

「こうして待ち伏せしないと、小野里と話が出来ないだろう」

 実際、この一ヶ月の間に、メッセージも電話も、直接、話をかけることも、京陽はそれなり頑張っていたつもりだったが、結果的には、どれもちゃんとした返事を貰えなかった。

 そして京陽は今この旧校舎の近くにある古い校門で茉緒に会えるのは、花玲先輩が調べた情報を教えてくれたからだ。

 花玲先輩により、茉緒はいつも校舎のどこかに身を隠して、大部分の生徒が下校するまで待っていた。それも恐らく、下校中で京陽たちとうっかり会わないための対処法だ。

 現にも、久しぶりに目が合っている京陽に良い顔色を見せてくれない。

「……どうせ、奈名と仲直りしてって説得しに来てるでしょ」

「そうしてくれれば話が簡単になるからありがたいけど」

「……!」

「演劇もそろそろ練習に戻らないとやばいだろうし」

 別に、京陽は二人が仲直りすべきなんて思っていない。茉緒がはっきり許さないと言い出したら、とやかく言うつもりもない。ただ、今のままじゃ何も進まないと思っているだけだ。

 でも、その京陽の答えは、どうやら茉緒の逆鱗に触れたらしい。

「もうほっといて」

「……」

「わたしのことを気にしないで、豊原くんは奈名たちと仲良く学園生活を送ればいいじゃない」

 その言葉に反して、茉緒の瞳が何を拒んでいるように苦しんでいる。

「とりあえず、場所を……」

「演劇だって、わたしはずっと欠席だったから、きっと代役の人がいるでしょう?今さらのこのこと戻っても迷惑をかけるだけじゃない」

「いや、だから……」

「だったら、わたしのことをほっといてよ!どうせ、豊原くんも奈名の味方——きゃっ⁉冷たっ!」

 どうしても話を聞き入れてもらえそうにないから、京陽はいっそ悴んだ両手で茉緒の顔を挟んだ。

「落ち着いてくれ」

「い、いきなり何を⁉」

 可愛い驚き声を出して、茉緒は後ろに引いた。

 自分の手が冷たいからだろうか、茉緒の顔が赤くなった気がする。

「とりあえず、場所を変えよう。寒いし」

「寒い……って、どうしてそんな格好してるの⁉」

 一秒前にまだ茉緒の身に纏っていた怒りが、半袖の京陽に気付いた瞬間、すっかり心配に変わった。そのあまりのギャップに、京陽も驚いて瞬きをした。

「豊原くん、上着は?」

「……」

 茉緒の質問に、京陽はただそのまま見返した。

「……?」

「……」

「……あ!」

 ワンターンの沈黙を経って、茉緒はようやく思い出したように声を上げた。

「ご、ごめんなさい!」

 あの日、京陽と成良がその記憶から消したいいじめの現場を目撃した日で、教室に乗り込んだ京陽は顔料に汚された茉緒に自分のブレザージャケットを着させた。そのまま教室を逃げ出した茉緒は未だにブレザージャケットを京陽に返していない。

 だからこの一ヶ月、京陽はずっと上着なしの状態で学校を通っていた。

「もうきちんと洗濯してアイロンをかけたけど、すっかり忘れたの……明日必ず返すから、その、本当にごめんなさい!」

「……」

 そんなに謝られて、逆に京陽の方がどう反応したらいいかに困る。まして自分が全く手入れなんかしていなかったブレザーが丁寧にアイロンをかけてくれたと知ったらなおさらだ。

「……行こうか」

「あ、待って」

 温かい場所へ移動するように足を運ぼうとした京陽が呼び止められた。

 振り向いたら、すでに茉緒の端正な五官が自分の十数センチしかない距離まで近づいてきて、京陽の魂を一瞬だけ奪った。我に返った時、柔らかい感触が首を包んだ。

「これで少し暖かくなるはず」

「……」

 一拍子遅れて、京陽は茉緒がマフラーを自分の首に巻いてくれたと理解した。

 まだ体温が残っている厚いマフラーから、名前の知らない花のような香りが伝わってくる。恐らく、長時間茉緒の髪と接触していたから、シャンプーの香りでも付いたのだろう。

「このコートも……うぅ」

 羽織っているコートも脱ぎ掛けた茉緒だが、やや強い風に吹かれて、寒そうに呻いた。

「……これでいいんだ。着れないだろうし」

 コートとは言え、女子の中でも小柄の茉緒の服を着るには、京陽の体格では無理だと思う。

 それに、下手して茉緒が風邪をひいたら、京陽にとっても不本意だ。

「行こう」

 再び校舎の外へ歩き出す。今度は茉緒が特に何も言わずに京陽の横に歩んでくれた。

 大した会話がない道中で、京陽は意識的に視線を茉緒に移す。

 巻いてあったマフラーが今は京陽に温もりをくれているため、茉緒の白皙なうなじがはっきり見えている。

 さっきまでは少し残念と思っていた京陽は、今がちょっとラッキーな気持ちになった。

「どうしたの?」

「……何でもない」

 変な罪悪感に囚われないように、京陽は目を逸らして、目的地へ急いだ。



「ねえ、豊原くん……」

 テーブルに置かれた赤色の地獄と向かいに座っているメガネ少年の間に目線を往復させて、茉緒は遂に疑問を切り出す。

「どうしてラーメン屋なの?」

 予想外か予想内か、京陽について行って20分ほど経ったら、「二蘭ラーメン」と言って、駅前のラーメン屋に辿り着いた。午後のゆったりとした空気が漂っている店の中に、二人は二枚しかないテーブル席の一つに着席した。

「普通、マッ○かス○バじゃないの?」

 少なくとも、高校生は話し合いのためにラーメン屋には行かないと菜緒は思う。

「寒いし、小野里も熱いものが良いだろう」

「本当は?」

「……ラーメン食べたい」

「はあ……」

「ここうまいぞ」

「そういう問題じゃないの……」

 こういう人だと分かっているつもりでも、茉緒は呆れてため息をした。

 注文通り出してもらったラーメンに注意を戻して、思わずぞっとした。

 直視が出来ない。それは怖い血色に注がれたラーメン鉢のせいだけではなく、物理的に、辛いのが苦手な茉緒の目が刺激に耐えられないから見るに忍べないのだ。

「無理しなきゃ良かったのに……」

「?」

 まだ食べてもいないのに、茉緒は既に一番辛い十の辛さ頼んだ京陽を見て妙にむきになったことを後悔した。

 さすがに同じものを頼む勇気が茉緒にはなかったから、半分の五の辛さにした。それでも担当の店員さんが心配そうな顔で再確認していた理由は、今になって分かった。

 ちなみに、入ってからすぐに目的を忘れて大食いイベントをチャレンジしようとした京陽は、茉緒の全力阻止でようやく諦めた。

 そうさせたら、きっと茉緒はラーメンに夢中になる京陽にほったらかされる。そしたら茉緒が京陽についてきた意味がなくなる。

 不満を感じる茉緒の気持ちに気付く様子もなく、京陽は箸で麵を挟み上げて食べ始める。

「……」

 仕方なく、茉緒も腹をくくって麵を啜る。見た目の割に、なかなか美味しかった。普段はあまりラーメンを食べない茉緒にとって咎め立てが出来ない味だった。ただ……ただ……

「辛い……うぅ……」

 涙が出そうな刺激で、茉緒はグラスのお冷を飲み干したが、それでも舌先に残っているヒリヒリした痛みが緩まない。

 最初の一口でこんな有様では、食べ終わるまでには道が長いでしょう。

「大丈夫か?」

「……平気」

 少しへそを曲げている茉緒は不愛想な口調で言って、俯いて勝ち目のない挑戦を挑み続ける。

「……何怒ってるんだ?」

 なんとか半分まで食べた茉緒は、もう何杯目も分からないお冷をピッチャーからグラスに注いている時に、京陽がそう問いかけた。

「別に怒ってない」

「どう見ても怒ってるだろう」

「……怒ってもいいでしょう?」

 否定しようとしても簡単に京陽に見破られて、茉緒はより不貞腐れになってそっぽを向いた。

「豊原くんだけが……わたしの味方だと思ったのに」

「は?」

 素っ頓狂な声を出した京陽は、合点がつくまでには時間がかかるように返事が遅れた。

「味方なんかの問題じゃないだろう」

「でも、豊原くんはわたしが奈名と仲直りするために来てるでしょ?」

「だからそうしてくれればありがたいって」

「……!」

 誰の味方になるなんて、そういう問題じゃないぐらい、茉緒は誰よりも分かっている。

 だけど、茉緒にとって、事情を知った上で、茉緒の支えになれる人は、京陽しかいない。だからこそ、この奈名と茉緒の仲を取り持つみたいな挙動に、茉緒はどうしても不愉快を感じる。

「ほら!やっぱり奈名の味方じゃない!」

「違うって」

「むぅ……違わないじゃん!」

 埒が明かない会話に、茉緒はむすっと頬を膨らませた。

 京陽はこういうことに味方や立場を立つ人間じゃないことも、茉緒は知っている。

 それでも拗ねているのは、拗ねるというのはこういう情緒だから。

「……誰の味方になるつもりはない。むしろ、仲直りが出来る方が不思議だと僕は思ってる」

「だったら……!」

「ただ……あいつは『奈名は本当に変わったと信じてる』と言った。君たちが仲直りして欲しいって、あいつは心底から願ってると思う」

「……」

「だから、信じてもいいかなって、僕は思った」

「何よそれ……」

 結局、成良の味方なんだ。本当に……仲がいいね、あの二人。

「それに……」

 何故か茉緒を直視してくれずに、京陽は手で後ろ頭を掻く。

「僕も少し……二人だけの昼飯がつまらないと思ってる」

「……!」

 何よ……何よ……

「ずるいよ……」

 こんな時だけの優しさ。いつもこうして、凹んでいる茉緒の前に現れ、自分の心を動かせる。

 こんな京陽が……

「……大嫌い」

「え?」

「だから、豊原くんが大嫌いだよ!」

 違う。そうじゃない。これは本音のはずがない。

「自分勝手だし、人の話も聞かないし、いつも何に対しても無関心なのに、ラーメンのことに関したらすごく強引になる!それなのに、人が凹んでる時だけ優しくしてくれる……こんな豊原くんが大嫌いだよ!」

 本当は、茉緒に会うためにそんな風邪を引きそうな格好で待ってくれて、嬉しかった。

「佐上くんも!弁当も過去のことも、わたしの役割を何も知らずに奪い取って、そのまま奈名の王子様になったなんて……そんな佐上くんが大嫌いだよ!」

 ただの八つ当たりだ。誰かに言われなくても、茉緒は一番よく分かっている。

 だけど、抑えて抑えた果てにはみ出した気持ちが、一度蓋を開けたら、簡単には閉められないものだ。

「花玲先輩だって!何もかも知ってたのに、何もしなかった、何もしてくれなかった。奈名のために、全部見て見ぬふりをした。そんな花玲先輩が大嫌いだよ!」

 ここで全てを吐き出さないと、自分は前に進めない気がする。

 だから、茉緒は止まらない。

「それと奈名!成恵おばさん、越良おじさん、縷紅草の院長さん……心配してくれてた人がいっぱいいるじゃない?そんなに愛されてるのに、何悲劇のヒロインを気取ってるの?そんな奈名が大嫌いだよ!」

「……」

「みんな、みんなが大嫌いだよ!わたしは……わたしが大嫌いだよ……!」

 溢れ出ている感情が液状となって、茉緒の目から滲み出る。

「奈名と出会わなければ良かった……そうしたら、こんな嫌な自分も……知らずに済んだのに……」

 苦しくて仕方ない、痛くて耐えられない。

 奈名も、自分の気持ちも、何一つも変えられない。

「鏡よ鏡……教えてよ……わたしは、どうしたらいいの……?」

 一体、自分は誰に答えを求めているのか?茉緒だって分からない。

 ただ、あまりにも彷徨って無力な心が、一つの答えが欲しかった。

 たとえ全てが上手く行く答えが、どこにもいないとしても。

「……少なくとも、今のままじゃダメだろう」

 ……そうね、このままではダメだよね。だけど、心に反して、茉緒の顔にあるのは自棄の笑み。

「別にダメではないじゃない?」

「……」

「いずれ奈名は諦める。その時、彼女は佐上くんたちのとこに戻って、全ては元通りになる。わたしがいないだけ……」

「それでも、ダメだろう」

「何で?」

「だって、君がこんなに悲しい顔してるんじゃないか」

「……!」

 だから、ずるいってば……堪えようとしても、涙は勝手にこぼれる。

「悲しくないわけ……ないでしょう……!」

 今の自分は、きっとひどい顔をしているでしょう。

「ずっと……ずっと一緒にいたのに、今の状況になって、悲しくないわけないでしょ!奈名が謝ってくれて、嬉しくないわけないでしょ! ……『奈名は本当に変わった』、そんなの、分からないわけないでしょ!わたしは誰よりも奈名の傍にいたのよ!」

 あの時の言葉に、あの時の目に、噓も偽りもなかった。

 年を単位で数える付き合いだから、これぐらいは茉緒にも分かる。

「でも……悔しいよ……」

 誰よりも関係が親しいからこそ、茉緒の心は、誰よりも深く傷付いた。

「頑張ったの!関係を守るために、こんな長い間、どんなに辛くても耐えた。けど、最後で奈名を変えるのはわたしじゃない、それが悔しいよ!」

 一番近くにいたのに、差し伸べた手がいつまでも奈名の心を触れなかったことが、茉緒はとても悔しい。それ以上に、茉緒はものすごく悲しい。

「わたしだってこのままじゃ嫌だよ!このまま終わりたくないよ!けど、許してもいいの?許すべきなの?怖いよ!わたしは……誰よりも奈名を信じたいよ!でも、わたしをいじめた時のその目が、どうしても頭に浮かぶのよ!どうしたらいいっていうの?」

「……」

「……あ」

 感情の渦に流された茉緒に、いつの間にか周囲から不満な目線が投与して来ている。

 まだ暇な時間帯とは言え、それなりにお客さんがいるし、店員さんも阻止に行くか迷っているらしい。

 傍から見れば、ちょっと外れた痴話げんかでしょうか。

 茉緒は恥ずかしくて顔を下げて、視線の先には半分ほど残りっぱなしのラーメンがある。

「……分かってる。奈名と同じ、わたしも……ちゃんと奈名と向き合わなかった」

「いや、小野里はずっと頑張ってただろう」

 京陽の言葉に嬉しく思っているけど、茉緒は緩く首を横に振る。

「わたしは何もしてなかった……奈名が怖いって思ってたから、されるがままに、反抗をしなく、理由も聞けなかった。でも、佐上くんはわたしと違う」

「……」

「奈名の怖い一面を見て、全てを知ったあとも、佐上くんは逃げずに奈名と向き合うことを選んだ。だから、佐上くんは奈名の助けになれた」

 成良は凄い。茉緒は心底からそう思っている。

 思うからこそ、こんなに心がかき乱されている。

「ちゃんと分かってる。でも……でも……!」

 分かっていても、刻まれた傷は消えない。

 だから、どんな選択を決めても、茉緒は辛くて選べない。

 増えた来客でやや騒がしくなっている店の中で、二人の周りだけは静けさに囲まれている。

 果てに、京陽は口を開く。

「……助けであるかどうか、そんなに大事なのか?」

「え?」

「僕はあまり成良に助けられた記憶はないし、逆にあいつを助けることもなかったと思う。けど、今までずっと、僕は成良のことを親友だと思ってる」

 自分のことを話すのが苦手でしょうか。京陽はぎこちなさそうに言葉を続ける。

「小野里は宮坂を助けたいから、友達になったのか?」

「……!」

 そうだ。どうして忘れたの?こんな単純なことなのに。

 怖がる自分は、逃げる言い訳が必要だから。

 傷ついた自分は、怒る理由が必要だから。

 だから茉緒が奈名を助ける人にならないといけない。

 でなければ、痛みを負う自分は、あまりにも悲惨となる。

「違うの。わたしは……わたしは奈名と友達になったのは……」

 最初は、誰とも馴れ合わない彼女が気になった。

 話してみたら、冷たいのに人を拒絶するのが苦手な彼女が面白いと思った。

 クリスマスイブの夜は、とても悲しく見える彼女を心配した。

 高校に入ったら、また同じクラスにいることが嬉しかった。

 始めていじめられた日以来は、時々違う人みたいになる彼女に怯えた。

 だけど、その全ての感情を超えて、たった一つ、大事な理由がある。

「一緒にいる時は……楽しいから……!」

 誰の助けにならなくていい、特別な名分なんても要らない。

 一緒にいる時は楽しいから、友達になった。元々は、こんな単純なことだった。

 そう思ったら、茉緒は不思議に落ち着くようになった。

「……小野里はどうしたい?」

 追って問いかけた京陽の口調は優しかった。

「宮坂に酷く傷つけられても、もう一度彼女を信じるか?それとも、何度謝っても、彼女の過ちは償えないか?」

「わたしは……」

 意地悪な聞き方だけど、これは京陽の優しさだと、茉緒は分かっている。

 ここで決断しないと、茉緒はいつまでもあの弱虫で何も出来ない茉緒のままだ。

 奈名に傷つけられた時の画面と、あの時の冷酷な目が茉緒の頭に浮かぶ。

 だけど、それと同じほど鮮明に、教室で面白い話をする時、一緒にお弁当を食べる時、演劇を練習する時の画面も、どれも暖かく茉緒の心を満たしていく。

 まだ怖いと思っている。手も震えている。

 謝るには勇気がいる。

 同様に、人を許すにも、勇気がいるのだ。

 茉緒は傷ついた。深くて重い傷だった。

 悔しい、悲しい、苦しい。でも、それでも……

 一緒にいたい気持ちは一刻も消えていない。

 すでに起きたことは変えられない。

 何度謝罪しても懺悔しても、出来た傷は消えない。

 だけど、これからは変えられる。

 今までの関係が間違ったかもしれない。なら、今度は……

「奈名と一緒に……変わりたい……!」

 成良に出会ってから変わった奈名のように、茉緒もおじけた自分を変えたい。

 親友として、もう一度隣で歩けるために。

「だってわたしは……奈名が大好きだよ!」

 抑えきれない気持ちは涙に変わって、純白の制服に透明な跡を残した。

 この一ヶ月、茉緒は何度も何度も泣いた。

 学校の美術教室で、家のベッドで、駅前のラーメン屋で、涙が出てこなくなるほど、茉緒はいっぱい泣いた。

 でも、今の涙は、暖かくて優しくて、茉緒の悲しみを溶かしてくれた。

「……」

 心をさらけ出した茉緒の前に、京陽は無言にテーブルに置かれたナフキン立てを突き出した。

「泣いてない……」

 大人しくナフキンを取って鼻をかんだけど、妙な反抗心が湧き上がって茉緒は強がった。

「泣いてるだろう。さっきからずっと」

「違うよ……ラーメンが……辛いからだよ……」

「……そうか」

 それ以上茉緒を指摘することがなく、京陽の口元から浅い笑みが浮かび上がる。

 少し悔しい気持ちがあるけど、今はそれでいいと茉緒は思った。

「泣いてないよ……でも……」

 まだ鎮めていない情緒を抑えきれなくても、茉緒は腫れた目で、今の自分が出来る一番の笑顔を咲かせる。

「ありがとう、豊原くん」

「……」

 特に返事せずに、京陽はただ目を逸らして、後ろ頭を手で軽く掻く。

 だけど、茉緒は知っている。

 いつか成良から聞いたことがある。これは京陽の照れ隠しだということ。

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