9 彼女の本音と彼女の本音
「本当に……ごめんなさい」
静寂に囲まれた空間に、僅かな震えが交わる声はやけに冴えている。
家庭のひびを縫い上げた奈名は、二人の葛藤が絡まる美術教室に、茉緒を呼び出した。
自分のしたことを、茉緒に謝るために。
奈名が自分で茉緒と話すと言ったが、やはり気になって、俺はこっそりついてきた。
半開きの引き戸で遮蔽してそこに隠れて、俺はその隙から中の様子を覗く。
教室にいる奈名は、今まで伝えなかった自分の過去も、家のことも、茉緒を傷つけた時の歪な心境も、何もかもを茉緒に伝えた。
茉緒は静かに聞いていた。疑問も返事も、一切のリアクションもなく、ただ感情のない顔で奈名の話が終わるまで待っていた。
「……ごめんなさい、今まで何も茉緒に教えなかった。茉緒に酷いことをたくさんして、茉緒を傷つけて、本当に……本当にごめんなさい」
「……今さらわたしに教えてどうする?」
「茉緒を……失いたくない」
「……分かった」
茉緒の口元から、雰囲気に合わない無機質な声が悠々と響く。
「奈名がそう望んでるなら、明日からわたしはいつもの茉緒に戻る」
「え?」
「今まで通り、普段は奈名の傍にいて、必要な時にストレス発散のおもちゃになる。それでいいのね?」
「そうじゃない……!」
酷薄に聞こえる言葉に、奈名は何かを反論したがっていたが、その唇から吐き出せる言い訳はなかった。
「良かったね。お父さんと仲直りが出来て、佐上くんと楽しい学園生活も続いて、縷紅草にも戻れて、クリスマスイブの演出も順調に進んで……奈名の世界に幸せが満ちる。そう望んでるでしょう?」
「違う……あたしは……」
「他に用事がないなら、先に帰るよ」
そう言って茉緒は扉の方へ踏み出そうとする。
「ま、待って、茉緒!」
引き留めるために伸ばした指先が茉緒に触れる前に、奈名は迷って動きが止まった。
その瞬間、また取られた距離を見て、今度は腹をくくったように茉緒の腕を掴んだ。
「……」
「……そんなの望んでないよ」
か弱い声で、必死に願いをねじり出す。
「茉緒が幸せにならなきゃ意味ないよ……あたし……あたしが望んでるのは、茉緒ともう一度——」
「無理に決まってるでしょ‼」
「!」
あの茉緒が放ったとは考えにくく、教室で響き渡る大声。手が振り離された奈名は驚愕の面をした。俺もビックリして頭が引き戸にぶつかって、はっきりした音が鳴った。
「誰⁉」 しまった……
俺は息を殺してどうにかごまかそうとしたが、無感情な口調に戻った茉緒は淡々と口を開く。
「そこにいるよね?佐上くん」
「え……」
「……!」
その確信のある言い方を聞いて、俺は驚きながらも悪足搔きを諦めて、扉引き戸を開けて美術教室に入る。
「成良!どうしてここに?」
「悪い、やっぱ気になって……」
「茉緒と二人で話すって言ったでしょ?」
「いや、心配だから、その……すまん」
「……」
それ以上俺を責めることはなく、奈名は不安な顔色で茉緒を意識している。
茉緒の反応と俺の出現で、奈名はどうしたらいいのか分からないように迷っている。
「本当に奈名を大事にしてるね……佐上くんは」
本気で嬉しそうに、茉緒は優しい微笑みが浮かび上がる。
だが、それ笑みと同じぐらい、彼女の目はとても悲しい。
「やっぱり、佐上くんがいれば、奈名の世界にはわたしが要らないよね」
「要らないわけないでしょ!」
激烈な否定が口から走った。だが、自分の情緒に気付いて、奈名はすぐに声を弱めた。
「代わり何ていない、茉緒は茉緒だよ……信じてもらえないかもしれない、でも、あたしは何度も何度も、茉緒の優しさに救われた。だから、茉緒が傍にいて欲しい……いや、あたしを、茉緒の隣にいさせて欲しい」
「だったら……」
きっと、それが奈名の偽りのない本音だろう。
だけど、茉緒に届くには、その言葉はあまりにも皮肉だ。
「だったら、最初から教えてよ‼」
教室を貫いた怒鳴りが空気を再び凍らせた。
俺の出現で遮られた憤怒が、今は保留なくなく奈名に襲い掛かる。
「どうして何も言ってくれなかったの⁉わたしだって奈名を心配してたよ!わたしは佐上くんみたいに奈名の過去を知ったわけじゃない、花玲先輩のように奈名の家のことを知ったわけでもない。それでも、奈名と一番時間を過ごして、一番近くにいたのはわたしでしょ⁉だったらどうして何もも教えてくれなかったの⁉何で、何でわたしだけ……こんな目に会わなきゃいけないの……?」
「茉緒……」
「わたしをいじめるのが楽しい?それとも、奈名はわたしがどうされても怒らないと思ってるの?ふざけるな!昨日靴底でわたしを踏みつけた人は、今日はヘラヘラと話を掛けて来るなんて、どんな顔すればいいって言うのよ⁉」
茉緒は心の底に秘めた怒りが言葉にして奈名にぶつける。
一字一句は、奈名が彼女の心に傷を刻んだ証拠だ。
「それでもわたしは信じてた……奈名がくれた小さなプレゼントが友情の証だって信じた。わたしの存在は奈名にとって価値があると信じてた。だから、どんなに怖くても、家に帰って何回も吐いても、わたしは我慢した。どんなに辛くても、笑顔を作って、奈名の傍にいた。でも、でも……」
歯を強く噛み締めて、茉緒は一瞬だけ、俺を睨んだ。
「『何もかも解決してくれた王子様が現れたから、もう大丈夫だよ。今までごめんね〜』何なのよ!こんなの一体何なのよ⁉わたしの苦しみは、一体何の意味があるの?ねえ……」
「……!」
消え入りそうな声と伴って、茉緒の頬に涙が滑り落ちる。
開いている窓から寒い風が吹き込んで、綺麗な黒髪をなびかせる。
切なそうに揺れている髪が頬に触れて、薄く濡らされた。
「奈名にとって、わたしは……何なのよ……?」
今になって分かった。
目の前にいるのは、癒し系のクラスメイトでもなく、学園の天使なんてでもない。
ただただ、誰よりも深く傷付いた、一人の女の子だ。
「……」
さらけ出した茉緒の本音の前に、奈名は長く沈黙した。
末に、繊細に、だが引けない意志を示す声で、奈名は切り出す。
「茉緒は……あたしの親友だ」
「噓つき!」
「……確かに、成良がいたから、今のあたしはこうして自分の過ちに向き合える」
目に怒りが残っている茉緒。何故か、その怒りの幾分は俺に向けている気がする。
「けど、もし茉緒がいなかったら、きっとあたしは、成良に出会う前にもう耐えられたくなってたと思う」
「……」
「何かあっても、あたしに笑顔を見せる茉緒がいたから、あのクリスマスイブから、あたしはここまでやって来れた」
茉緒の瞳を注視して、奈名は一息を吸う。
「茉緒を深く傷付けたあたしは、何をしても償いになれないと分かってる。それでも、許されなくていいなんて……言いたくない。だって、今の茉緒がどう思っても、あたしは……茉緒が大好きだよ!」
「……!」
「今まで、あたしは助けられてばかり、茉緒の優しさに頼って、利用した。でも、あたしは茉緒に何もしてあげられなかった。同じ一番近くにいた人なのに、あたしは一度も茉緒の力になれなかった。だから、終わらせちゃいけない……何度謝っても、どれだけ時間をかけてもいい、あたしの、わがままで虫が良いお願いを聞いて欲しい」
奈名は茉緒の前に、深く頭を下げた。
「茉緒、今まで、本当にごめんなさい、許してください。それと、もう一度……あたしの親友になってください」
永遠だと思わせるほど、長い静かさが俺たちを囲み込む。
最終は、無音に床に溶け込んだ涙の雫が奈名の頭を上がらせた。
「どうして……この期に及んで、わたしにそんなこと言ってくれたの?」
「……!」
「もし……こんなことになる前に、奈名がそう言ってくれれば、わたしは……まだ笑って奈名を許せたかもよ……」
涙に濡らされて頬に貼り付いた髪の毛が、また涙に流されて離れた。
ただ、たとえ涙が流れ尽いたとしても、その悲しさは流されない。
「ねえ、奈名……わたしは……どうすればいいの……?」
返答を待たずに、茉緒はおぼつかない足取りを踏んで、美術教室を後にした。
何も出来ない俺と、悔いた顔でスカートの裾を掴む奈名が残された。
「……」
その質問に答えられるのは、きっと奈名でも俺でもなく、他の誰でもない。
決められるのは、茉緒自身しかいない。
人を許すには、どれだけの時間が必要だろう?
何日?何週?何月?それとも、どれほどの時間を費やしても、一人の傷は癒えないだろう?
少なくとも、奈名と茉緒にとって、二人の関係を挽回するには、一ヶ月の時間じゃ足りないらしい。
もうすっかり冬に入った12月中旬に、室外の気温は耐えられないほど低くなった。
この一ヶ月の間に、奈名は何回も茉緒の前に立ち、自分の過ちを謝った。
だが、ずっと閉じていた茉緒の唇が、いつまでも返答をくれなかった。
二人の葛藤が解けるには、まだ道が長そうだ。でもよ……
「……京陽と二人で食うのはもう飽きた」
「ひどいな」
組み合わせた二つの机の向こう側から、京陽は抗議の目線を送って来た。
それをわざとスルーして、俺は肩を落とした。
「だって『茉緒を苦しませているのに、あたしだけが成良たちと一緒にいるわけにはいかない。だから、しばらく距離を保った方がいい』って言われたら、そうしかねえだろう……」
最近の俺と奈名の会話と言ったら、基本の挨拶以外はほとんどなかった。
なので、俺は京陽と行動しながら、二人の仲直りが出来るように祈っている。
ちなみに、お昼の時間、茉緒はクラスの中心グループにお昼を食べている。一方、奈名は旧校舎へ行って花玲と一緒にいるはずだ。
「寂しいなら、僕が食べさせてあげようか?」
「要らねえよ、気持ち悪い」
「ほら、あーん」
「やめろ!ってか勝手に俺の箸使うな」
「じゃあさ、この唐揚げをくれ」
「嫌だよ!どういう理屈?」
「ケチだな」
いや、人のメインディッシュをふてぶてしく取ろうとした方がどうかしているだろう。
俺は京陽と軽口を叩くのを諦めて話題を戻す。
「それに、演出のこともそろそろ返事しないと……」
「そうだな」
奈名と茉緒のことは、奈名の意思を尊重した上で、奈名から院長と俺の両親に自白した。
当然、皆が愕然と顔色を失った。でも、長く厳しい説教(何故か俺まで叱られた)の末に、皆は許してくれた。しかし、状況を明らかにしても、リハーサルを含めて考えれば、少なくとも茉緒に最後の二回の練習を参加させなければならない。
その締め切りは、今週末までだ。今日は水曜日なので、もうデッドラインが迫ってきている。一応万が一の代役は用意してあるが、出来れば茉緒に舞台に上がらせたいというのは、皆一致の結論だ。本当に、優しいメンバーばかりで良かった。
「仲直りが出来ればいいけどな……」
「……」
奈名は自分を変えた。長い時間を掛けても、間違いをしたとしても、今の奈名は変わった。
こんな彼女は、許しを求めている。まだ取り返しのつく機会があるもののために頑張っている。
このまま終わると、あまりにも寂しい結末だと俺は思う。
「俺は、奈名は本当に変わったと信じてる。今の奈名なら、きっと友達を傷付けたりなんかしない。だから……」
「はっくしょん‼」
「……おい、真面目な話をしてるんけど」
「だって寒いし」
「何なんだその格好?」
そう聞いたのは、こんな寒い真冬の中に、目の前の幼馴染がまだ夏の半袖制服を着ているからだ。
「お前、冬服は?」
「ワイシャツがラーメンのスープで汚れて洗濯に出した」
「ブレザーは?」
「……貸した」
「は?こんな天気に?」
「うん」
「お前のその格好で?」
「……」
「じゃあコートぐらいは持ってんだろう」
「まぁ、あるけど」
「けど?」
「……重そうだから家に置いた」
「アホだな、お前」
一体、どういう思考回路しているだろう?我が親友。
「というわけで、カロリーで体温を確保する」
「は?」
さっきまで寒冷で悴んていた京陽の右手は、俺が反応出来ぬ速さで差し伸ばし、次の瞬間、京陽の口元まで引き戻す。
その一瞬の出来事で、俺の弁当箱から消え去ったのは……
「俺の唐揚げだあああああ‼」
「京陽のやつ、用事ってなんだよ」
教科書をカバンに入れながら、俺は席から立ち上る。
未だに奪われた唐揚げに根に持って、京陽に帰り道で何かを奢って貰おうとした俺だったが、京陽はほかの用事があると言って、俺を置いて先に帰った。
まさか俺の魂胆を知って逃げたじゃないよな?
お昼でメインディッシュが食べられなかったせいで、その反動で今は妙な空腹感を覚えている。
「あー、腹減った……」
「成良、お腹すいたの?」
予想外の返事を得て、俺は隣の席にいる奈名を見る。
挨拶だけは毎日しているのに、奈名に話を掛けられたら、なんとなく懐かしく思う。
「奈名は今帰るところ?」
「うん、茉緒は……もう帰ったみたいだし」
「……そっか」
おおよそ奈名を避けているだろう。この二週間、茉緒は放課後すぐに姿が消えて、 奈名に謝りのチャンスをくれなかった。
避け続けられている奈名は、いつも寂しそうな顔をしている。今もそうだ。
「あの、そ……その……」
そんな奈名が、何故か不安そうにもじもじしている。
躊躇いの果てに、奈名は潤んだ瞳で上目遣いをする。
「……うちにご飯食べに来る?」
「……え?」
「……」
「ええええええ⁉」
「もう、いきなり叫ばないでよ」
いや、驚かない方がおかしいだろう。
「あ、心配しないで。お父さん今日仕事で帰りが遅くなるから」
「それが心配だよ!」
俺の動揺を知らずに、奈名は何ともないように付け足した。
ど、どういうこと?ずっと家に近いコンビニまでしか送らせてくれなかったのに、いきなりご飯を誘ってくるなんてなんて……
「ちょっと、顔が怖いんだけど」
「す、すまん」
「ちょうど材料あるから聞いただけよ、何考えてんの?」
「いや……」
男というのは、勝手に期待して、そして勝手に落胆する生き物である。俺は先走った男心を抑え込んで、気を取り直して会話を続ける。
「てか、仕事が遅くなるって、名月さん……」
「あ、違うの、本当に仕事があるから」
「そっか、ならいいんだ」
前は、奈名に会いたくないから仕事に浸っていたと述べたので、さすがに心配するものだ。
「大丈夫、お父さんは最近お酒を辞めるのに頑張ってる」
「良かったな」
「うん。お父さんは頑張ってる。だから、あたしも……」
自分を励ますように、奈名は胸元で手を拳にして、改めて俺に視線を投じる。
どうやら、もじもじした本当の理由は、このあとの言葉にあるらしい。
「実は、成良にお願いがあるの……」
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