8 彼女の決意

 コンビニ前の上り坂を越えたら、左側に狭い道が繋ぐ。この道の行き止まりに、奈名が住んでいるアパートがあるはずだ。残りの距離を確認して、俺は全力で駆けつける。

「クソ……」

 ドメスティックバイオレンス、通称DV。それが長期にアルコールを飲用している名月が、奈名にかけた枷。そして約半年前から、名月から暴力を受けた奈名は、翌日に、理夏と世音と一緒に茉緒をいじめるようになった。

 今日のキーホルダーみたいな小さいプレゼントは、茉緒を傷つけたたびのお詫びだ。

「……」

 気づいてあげたかった。バイトの時、奈名は中年男性が苦手な理由。

 縷紅草に戻っても、その瞳に潜む悲しみが消えていない理由。

 こないだずっとぼーっとしていた理由。

 名月がビールが入るビニール袋を持って現れた時から、奈名は少し元気なさそうになった理由。

 道の果てには、広くも狭くもない空き地。空き地の上に、三階建てのアパートが建てられていた。

 花玲から聞いてはいたが、正直、思ったよりもひどかった。

 さび付いた古いドア、コンクリートの外壁のペインティングが剥げかけて、汚れで元の色が分からなくなっていた。

 空き地の環境も良くない。整理されていない雑草の上に、タバコの吸い殻と空き缶が散らかっていて、時にガラスの破片も見える。

 どう考えても、女子高生にはあまりにも相応しくない環境だ。

 とりあえず、奈名と話して、今の状況を——

 「ドン」と、人の注意を惹きつける音が立って、その音の方向へ見ると、鉄のドアが反動で揺れながら騒音を立ている。

 何かを叩くような声と伴い、半開きのドアの隙から怒鳴り声が漏れる。

「聞こえねえのか⁉あぁ⁉」

 最近聞いたことがある、やや枯れた声。

 嫌な予感が湧き上がる。その声、もしかして……

 一階の一室から三十代に見える男性が出て来た。工事現場のユニフォームを着て、今から仕事へ向かうだろうか。男は騒音を聞いて、源である三階を一瞥する。

「また始まったか……」

 そして何でもないように、ユニフォームを整えて、アパートを後にしようとする。

「あの!」

「ん?」

「あれはどういうことですか?」

「あ?おう、いつものことだ。気にすんな」

「いつもって……」

「あのお嬢ちゃんも可哀想だな、あんなおやっさんがいて」

 その他人事のような口ぶりに、俺の中にイライラが募る。

「助けないのですか?」

「は?んな暇ねえよ、仕事に遅刻したらどうすんだ?」

「そんなことより——!」

 ついカッとなった俺だったが、冷たい目と合った瞬間に思わず口をつぐんだ。

「人ん家のことを構う余裕のあるやつは、こんなとこに住まねえよ」

 その言葉だけ置いて、男はアパートを去った。

「……」

 だから、強くなりたいよな。

 もしかして、不良少女の格好をしているのも、この誰も呼べない、助けも来ない環境から、自分を守る手段なのかもしれない。

 それでも、奈名は守れなかった。自分自身も、大事な友達も。

 あまりにも悲しいこの連鎖を、繰り返させるわけにはいかない。

 今度こそきっと、何かを変えることができるはずだ。

 4年前のあの日から、俺の気持ちはずっと変わらなかった。

 彼女の力になりたい。

 彼女の助けになりたい。

 彼女を……助けたい。

「おい!まだ拳を食らいてえのか⁉」

 再び怒鳴り声が鳴り響き、俺は足に力を入れて、上の階段へ走り出す。



「うおおおおおおおおおおお‼」

「お前は……うぅ!」

 重々しいドアを押し開けて、俺は奈名に拳を振るおうとする名月を思いっきりぶつけた。

 結果的には、一時的に名月を撃退することができた。しかし、その反動で衝撃が全身に伝わって、先手を取ったのはこっちなのに、俺は疼痛と眩暈でよろめいた。

 足を踏ん張って、俺はすぐに奈名の方に振り向く。

「大丈夫か、奈名?」

「成良……!」

 驚きまる見えの奈名の顔に、少しだけ、喜びの感情も見えた。一瞬ほっとしたが、奈名のその「大丈夫」とかけ離れている状況を見て、俺は再度と拳を握った。

 奈名に一体何があったのか、彼女の状態を見れば容易に想像できた。不自然なが遍く延びる制服はぶかぶかになった。左腕にある暗紫色のあざと、頬に残る赤いビンタの痕跡、きっと他のとこも、見えるも見えない傷をたくさんつけられただろう。あのおっさん……

「お前!何しに来た?」

 訳も分からない状態から回復したようで、名月は不満そうに問いて来た。

何しに……?

「こっちが聞きてえよ……」

 心の何かが熱く沸いている。どうしようもなく憤っている。

 何も知らなかった自分自身に、そして……

 目の前の、大間違いを犯している名月に。

「奈名に何をしてるんだよ!おっさん!」

「あぁ⁉人ん家のことに口を出すんじゃねえ!」

 立ち上がった名月が俺に近づき、酒臭さが鼻腔を刺激する。

「出ていけ!」

「うぷっ⁉」

 気づいたら、すでに強力なパンチが腹部に深く突き込んでいた。

 腹が激痛に襲われ、一瞬でも気が緩んだらすぐに吐き出しそうだ。

「成良! ……お父さん、もうやめてよ!」

 ギリギリ意識を保っているのは、倒れる前に、奈名が俺の体を支えてくれたからだ。

 クソ、ガリガリなもやしおっさんのくせに、力があり過ぎるだろう。

 だが、こんなもん……

 目線で「平気だ」と伝えながら、俺は奈名の手を払いのけて、つま先で床を強く蹴って名月に襲いかかる。

「奈名の一撃に比べて、こんなパンチ全然軽いんだよ!」

「え?ちょっ、成良⁉」

「うぐっ……」

 俺の反撃で、名月は重心を失って、隣のこたつにつまずき、俺に押し倒された体勢になった。

 瓶ビールの空瓶と雑物が散らかる床で、俺たちはそのまま取っ組み合い始めた。

 と言っても、実は俺が一方的に打ち身とかすり傷が出来っているだけだ。

 こういう時は、せめて何回かケンカをした経験があったらいいけどな……

「酔っぱらって奈名に暴力を振るうことは、あんたが言ってる『人ん家のこと』か⁉」

「うるせい‼何も知らない小僧が余計な口を出すんじゃねえ!」

「知るか!おっさん、目を開けろ!あんたの拳が向けてるのは、あんたの娘だろう⁉」

「だったら何だ!和奈を殺したやつに、少し罰を与えただけだ!」

「……!」

「人殺しのくせに、最近は幸せな顔ばっかりしやがって……見るだけで腹立つんだよ!」

「お父さん……」

 その言葉を聞いて、奈名の顔に悲しみが滲みる。

 そうか……そうなんだ……

 だから奈名はずっとそんなに苦しそうに見えたのか。

 どれだけ時間が過ぎても、誰かの助けをもらっても、いつになっても奈名は本当に自分を許すことが出来ない。

 目の前にいる、この「父親」という呪いのせいだ。

「……ふざけんじゃねえ」

 激昂な情緒でアドレナリンが分泌しただろうか、俺は名月の襟を捉えて、動きを抑える。

「ふざけんじゃねえよ‼おっさん‼この世に一番それを言っちゃいけねえのがあんただろう⁉奈名の後悔、奈名の自責、あんたは全部見えていねえのか⁉こんな長い間に、奈名はどれほどの苦しみを背負って、どれだけのものを犠牲にした?あんたは何も知らなかったのか⁉誰よりも彼女の近くにいて、誰よりも彼女の手を取るべきなのは、父親のあんただろう‼」

 みんなが笑っていたクリスマスイブに、後悔のあまり、お母さんの墓の前で泣いた。

 自責で、頑張ってバイトした給料のほとんどを、縷紅草のポストに入れた。

 苦しみを背負って、縷紅草(家族)から離れた。

 色んなものを犠牲にして、他人との付き合いを拒絶した。

 ずっと、奈名はそうやって生きてきた。なのに……

「それでも、奈名は変わりたいって思った!変わろうとしたんだ!なのにあんたは一体何をして来たんだ!おっさん!こんなとこで酒を飲んで酔っぱらって、全ての責任を奈名に押し付けて、あんたのそのよどんだ目が、一体何を見ていたんだ⁉」

「黙れ‼」

 俺はそう長く優勢を保ってなかった。一時的なパワーが切れて、俺は名月のキックに蹴り飛ばされ、リビングに繋がるドアにぶつかった。

「成良!」

 元々ちゃんと閉めていなかったか、それとも木製のドアが古いからか、ドアが俺に突き開けられて、俺は中の部屋に倒れ込んだ。

 気のせいだろうか、なんか淡い香りが漂っている。少なくとも、リビングみたいな酒臭さはない。

 灯りが付いてない室内だが、窓から夕陽が入っているおかげで、シングルベッドの両側に、ドレッサーとデスクが見える。

 ここは……奈名の部屋?

 それを意識した時、場合じゃないと分かっていても、俺はついきょろきょろと周りを見た。

 すると、女子高生にとってやや簡素に見えるドレッサーに、ラミネートされた一枚の写真が目に入った。

「これは……」

 かわいいメイド服姿の奈名が、俺の目に熱々のカレーを食べさせている写真だ。

メイド•イン•キャットでバイトしたあの日、俺は梨沙さんに同じものを渡された。

そう言えば、奈名にも渡したと言ったな。

 しかし、俺が渡された写真は、ラミネートなどの処理がされていなかった。

たぶん、梨沙さんが奈名に渡す写真だけにラミネートしたわけではない。

 つまり、奈名が自分で……

「大事に……してくれたんだ……」

 まだ、はっきりしていないことはたくさんあるが、一緒に過ごした時間が、奈名にとって取るに足らないことではないと分かって、本当に良かった。

「……おい、何ボーっとしてんだ?」

 だが、俺に喜ぶ時間を与えずに、足音が近づいて来る。

 迫った黒い影に触れられる前に、俺は急いで立ち上がって、追撃のフックパンチを避けた。

「目を覚ませ!おっさん!あんたのせいで苦しんでいる娘は、隣にいるんじゃねえか⁉」

「うるせえ‼」

「うぷっ!」

 だが、続いて来た腹パンに対応できるほど、俺の反応速度は速くはなかった。

 二発の腹パンも食らったら、俺は遂に立てずに跪いた。

 動けなくなる俺を見て、名月は床に転がった瓶ビールの空瓶を手に取る。

「知ったような口を利いてんじゃねえ……」

「……!」

 俺は驚いた。目の前にいる男が、嗚咽の声で涙ぐんでいるから。

 その歪んだ表情が、莫大な悲しみを訴えている。

「俺だって……苦しいんだよ……」

 そっか。この人も……被害者なんだ……

 一瞬脳裏をよぎったが、すぐ本能的な恐怖に占められた。

 名月が空瓶を翳して、俺の頭頂に振り下ろす。

 しまった、今の状態じゃ避けられない——

 鈍い音が頭の上で響いたが、予想の斜めの上に、痛みはなかった。

「お前……!」

「……あたしとお父さんがどんなに苦しんでいても、お母さんは帰ってこない」

 その理由は、俺たちの間に割り込んで、白皙の腕でさっきの一撃を受けた金髪の少女だ。

「奈名……!」

「いや……帰って来ても、今のあたしたちを見たら、きっと悲しむよ」

 空瓶を止めた左腕……違う、よく見ると、奈名の全身が震えている。

 きっと怖いだろう。

 それでも、奈名は退くこともなく、振り払うように空瓶を押し返した。その動きで、名月はバランスを崩した。

 奈名はそのまま一歩前に踏み出して、同時に拳を握った右手を上げて、名月を睨み付ける。

「お母さんの代わりに一発殴ってやるって、ママに言いつけられた」

 その顔が今は、怒り、悲しみ、自責、その他色々な感情も織り交ぜている。

 だが、どの感情よりも鮮明に表わされているのは、その美しい目に宿っている決意だ。

「だから……いい加減にしなさい‼このバカおやじ‼」

 強い意志に伴って、奈名は素早いストレートを放った。

 鋭い直線が描かれて、パンチは名月の顔を直撃した。その方向に沿って、名月は全身ごと吹き飛ばされて、部屋の壁にぶつかって止まった。

 お、おっさんが飛んでたああああ!!

 強烈な衝撃で、名月は意識を失ったようだ。

 たった一撃で、俺が悪戦苦闘した名月を、奈名は倒した。

 良かった。良かったが……

「ワンパン○ンかよ……」

 いや、ワンパンウーマン?ガール?まぁ、どうでもいいや。

 危機から逃れられた途端に、ふいに安心感と倦怠感が体に掛かる。

「成良……?え、成良⁉」

 奈名の呼びかけが確実に耳に届いたが、力を尽くした俺は目を閉じて、意識を橙色の夕陽に溶けこませる。



「……」

「成良、起きた?」

 目が覚めたら、少しホッとしたような表情を見せて、何故か顔が逆さまになっている奈名が俺を凝視している。

「ここはどこ?俺は誰?」

「ここあたしの部屋。あんたはケンカしたこともないくせに無理して傷だらけになったバカ」

「容赦ないな」

「本当にバカよ、あたしなんかのために……」

「……どう?ケンカしたことがある顔になったか?」

 前に、ケンカしたことがない顔をしていると奈名に言われたことがあるから、その仕返しだ。

「キモい顔になった」

「そりゃあ仕方ねえことだ」

 俺の視野から、逆さまになっている奈名の顔。床で仰向けているのに、後頭部は妙に涼しくて柔らかい感触を感じている。まるで、人の肌のような……

「奈名の膝枕を堪能してるから」

 それらを総合して考えれば、以上の結論に辿り着いた。

 俺に暴かれ、奈名は頬に桜色を染まらせる。

「だ、だって、成良が欲しがってたじゃない……」

「……」

「ん?何で顔隠すの?」

「……いや、何でもない」

 今のは可愛すぎたから、手で顔を覆わないと、真っ赤な顔がバレてしまう。

 確かに、お見舞いに来てもらった日に、俺は半分ふざけて奈名に膝枕をせがんだ。

 何とかドキドキしていた胸を抑えて、俺は手を下して壁の方へ見る。

「名月さん、まだ起きねえか?」

「……うん」

「もしかして、奈名の一撃で瀕死の重傷に……」

「そんなに強く殴ってないのよ!いや、かなり強く殴ったかもしれないけど……」

「名月さん、ご冥福を」

「死んでないわよ!」

 こんなやり取りも、何だか久々のような気がする。もう一度名月さんの状態を確認したら、やはりまだ壁にもたれて座っていて、起きる気配がない。

「起きたら何も覚えないってのは本当か?」

「……うん、覚えないよ、何も」

「……そっか」

 花玲の話によると、名月は酒を飲んだ翌日は、前日の夜にあったことをきれいさっぱり忘れるそうだ。何だよ、このおっさん……

「そういや、奈名、お前の腕……」

 奈名が俺を庇うために空瓶を防いだことを思い出して、俺は心配で奈名の左腕を見る。

「これ?大したことないよ。もう慣れてるし」

 ……もう慣れてる、か。だとしても、傷付く度に、痛いだろう。体も、心も。

「しっかし俺ダセえな……」

 俺のせいで奈名が傷を負った。それだけで俺は自分の情けなさを咎める。

「白馬の王子みたいにお姫様を助けようと思ったのに、逆にお姫様に助けられたんだ……」

「本当に王子様だったら、戦いには負けないのよ」

「……ごもっともです」

「でも……」

 しょんぼりとなった俺の目に、奈名は見つめて来る。柔らぐ光線に照らされているその潤んだ瞳が、とても魅力的だ。

「すごく、カッコ良かったよ、今日の成良は」

「……」

 きっと、俺の顔はさっきよりずっと熱くて赤いだろう。だが、俺は隠そうとしなかった。隠すのを忘れた。火照りが染みたその微笑みに、俺はただ見惚れていた。

「……ねえ、どうして来たの?」

 心を奪われそうになる前に、再び奈名は俺に問いかけた。

「え?花玲先輩から住所を聞いて、着いたら名月さんの声が……」

「そういう意味じゃない」

 奈名は少し瞼を伏せて、柔らかい太ももから、僅かな身震いがした。

「どうして来たの……どうして……来てくれたの?」

「……好きな子がこんな目に遭ってると知ったら、来るに決まってんだろう」

「……あたしが茉緒にあんな酷いことしたのに、あんたはまだあたしのこと好きなの?」

「さあなぁ、俺もよくわかんね」

 俺は考えた、悩んだ。奈名がしたのは、決して簡単に許されることではない。

 それでも、きっと何か理由があると、俺は信じたい。助けたい気持ちも、嘘ではない。

俺はたぶん……

「俺はたぶん、奈名を好きでいたいと思う」

「……!」

「だから、教えてほしい。一体何かあったのかと、奈名があんなことした理由も」

「……」

 自分を落ち着かせるように、奈名は一回深呼吸をした。

 緩やかに上がるまつげと共に、奈名の唇はゆっくりと開いて、彼女の心を語り始めた。

 およそ10分間の間、俺は口を挟まずに、奈名のこぼれた心の欠片を、耳で拾い上げていた。全てを、奈名は教えてくれた。

「……救いのないあたしなのに、救われる資格がないあたしなのに、最後の最後で、成良に助けに来てほしいと願った。本当に……最低だよ」

「……」

「でも、成良は来てくれた……こんな最低なあたしなのに、成良は来てくれた……本当に……嬉しかった……!」

「……そっか」

 納得できているわけではない。でも、聞けて良かった。

 奈名の心にあるもがきは、確実に伝わって来た。

「あたしは茉緒にいっぱい酷いことした。こんなあたしは、茉緒に会う資格すらないかもしれない……それでも、あたしは……茉緒に謝りたい」

「うん」

「茉緒は……許してくれるかな?」

「……分からん、それは小野里が決めることだ」

 こればかりは、奈名が全ての責任を背負わなければならない。

「そう……だね」

「……でも、許してもらえたらいいな」

「……うん」

 少しだけ、奈名は口元で弧を作った。やはり、俺はこの子が好きだな。

「ところで、成良」

「ん?」

「いつまであたしの太ももに寝そべるつもり?」

 奈名の問い詰めに、俺は意識的に目を逸らした。

 あえて自然そうに会話を進めたけど、俺は奈名の膝枕を現在進行形で満喫しているのだ。

「足が痺れそうだし、さっさと起きてよ」

「せっかくだから、もうちょっとだけ……」

「ちょっとだけってどれぐらい?」

「出来れば一生」

「……」

「痛たたたっ」

 頬が思いっきりつねられた。

 痛かったが、奈名の場合は、これはかなり優しい怒り方だと思う。

「うぅ……」

「「!」」

 俺たちの注意を引きつけたのは、壁の方からの唸り声。

 目が覚めた名月さんは呆然とした表情で奈名を見る。

 ……それと彼女の太ももに横になっている俺。

 一秒前にまだ駄々をこねていた俺だったが、今はもう背筋を伸ばして正座している姿勢になった。

「ち、違うんです!名月さん!今のは……」

「何慌ててんの?」

 いや、相手の親への印象は大事だよ?失礼なことでもしたら将来が厳しい……って、俺は不法侵入して名月さんと大ケンカした。超失礼なヤツじゃん。

 だが、一人でテンパった俺を気に留めることもなく、名月さんはただ手で頭を押さえている。まだお酒が完全に抜けていないだろうか。

 ……確か、全部覚えてないはずだよな。

 奈名と視線を交わして、俺たちは名月さんの前に移動する。

「自分がしたこと、覚えていますか?」

 少し驚いた顔をしたが、数秒後、名月さんの口から嘆きがもれる。

「そうか……僕はまたやったのか……」

「え?」

 思いがけない発言で、俺たちは困惑した。

 確認のために、俺はもう一度問う。

「もしかして、酔ってた時のこと覚えてるんですか?」

「……ああ、起きた時、いつも断片的に覚えてる」

「……!」

 情報と一致しない答えを聞いて、俺はつい奈名に向けたが、後者も訳が分からない顔で首を横に振った。なるほど。それはつまり……

「つまり、名月さんは自分が何をしたかを知ってるのに、知らないふりをして、何回も何回も、奈名を傷付けた。そうですよね?」

「……」

 その沈黙を黙認だと見なして、俺は強く歯を食いしばる。

「……どうして、こんなことを?」

 怒りを押さられるほど、俺は冷静を取り戻した。

 それでも、心に何かが燃えているように感じる。

「奈名は……こんなにも……!」

「成良……」

「……最初、僕は父親の務めを果たそうと試みた」

 俺と合ったその空洞の目に、微かな感情が揺れる。

 ケンカでボロボロになったスーツパンツのポケットから、名月は古い財布を取り出す。

 財布を捲り開けると、透明のカード入れに、ある女性の写真が入っている。

 その写真を見て、奈名の瞳がぱっと見張った。

「お母さん……!」

 どうやら写真の人物は、奈名のお母さんである宮坂和奈さんのようだ。

「けど、僕はそれが出来なかった。奈名は似過ぎる……和奈に」

 名月さんの言葉通り、写真に映るのは、幼さはすっかり切り取られて、いかに大人っぽい上品な笑顔だが、その五官は奈名とほぼそっくりだ。

「苦しかったんだ……娘を見る度に、妻を思い出すんだ。苦しくて、でもどうしたらいいのかも分からなくて……だから僕は逃げたんだ」

 財布を挟んでいる名月さんの指は、声と共に震えている。

「全ての時間を仕事にぶち込んで、引っ越しまでした……けど、たとえ一日中家にいても、僕はちゃんと眠れなかった」

「お父さん……」

「だから、僕は酒に頼った。少しでも和奈のことを忘れるために、いつも家で酔っ払って……そしてある日起きたら、目の前にいるのは、めちゃくちゃになったリビングと、床に倒れて僕を怖がってる奈名だった」

「……」

「記憶が段々と甦って、僕は自分がしたことを知った。僕は怖かった、こんなことをした自分が怖かったんだ。けど……けど……」

 認めたくないように項垂れて、名月さんは声を絞り出す。

「……それと同じぐらいに、心のどこかで、ストレスが発散した快感を感じた」

 隣の奈名が息をのんだと察した。似たようなセリフを、ついさっき彼女の口から聞いた。

「だから僕は何も覚えていないみたいに奈名にいつも通りの話をかけて、いつも通りに出社して、そして……また酒を飲んで泥酔した」

 不甲斐ない自分を隠したいだろうか、名月は顔を両手の掌に埋めた。

「奈名への暴力は段々習慣になって、僕はあってはいけない快楽に溺れ、何度も奈名を傷付けた。最近、君たちが仲良くしてるとこを見て、僕はさらにその幸せそうな顔を憎んで、以前よりずっと酷く暴力を振るった」

 だから、奈名の体に、翌日でも消えない傷跡が残っていた。

「和奈を失った悲しみより、僕は奈名を傷付ける罪悪感を選んだ。最悪の選択だと分かってる。父親失格だって、知ってる。僕は奈名のお父さんと名乗る資格がない。だから、君に『名前を呼んで』と頼んだ」

 涙にむせた声で、名月は本音を吐露する。

「不幸な事故だと分かってる。奈名を責める理由は、どこにもない。父親として、傍で支えなきゃいけない。全部、全部分かってる!でも……僕には、和奈しかいないんだ……!和奈を失って、どうしたらいいか……分からないんだよ……!」

 大事な人を傷付ける方法で、自分の苦しみを軽減する。

 似ているな……このどうしようもなく不器用な二人。

「ねえ、お父さん」

 静けさの中で響いたのは、少し不安そうな奈名の声。

「あたしは……お母さんが大好きだった。だからずっと、お母さんの死は自分の責任だと思ってた。お父さんに殴られても、あたしのせいだから仕方ないって思ってた。でも……もう……いいでしょう?」

 真っ直ぐ名月を見つめていて、今でも泣き出しそうなその瞳に、譲れない意志が宿っている。

「あとどれくらい時間を経れば、あたしたちはお母さんの死に向き合えるの?あとどれくらい時間を経れば、あたしは自分が許せるの? どれくらい時間を経れば……お父さんは昔のお父さんに戻るの?」

「……!」

「あたしはママが大好きだったよ?でも、それと同じぐらい、あたしも……優しくて、仕事の話をしてくれるパパが大好きだったよ!『僕には和奈しかいない』、お父さんにとってはそうかもしれない。でも……でも……」

 何かに塞がれるように、奈名は辛そうな表情をして、小刻みな声も弱くなっている。

 それでも、右手で制服の胸元を強く掴んで、奈名ははっきりと自分の心を伝える。

「あたしは……まだここにいるよ……?あたしは……パパの娘だよ……?」

 もしかしたら、これは事故以来、奈名が始めて「娘」として名月と話したかもしれない。

「あ……ああ……!」

 涙が名月の頬から滑り落ちる。

 彼はただとてもとても悲しそうに、何かを掴めたいように、弱々しく手を伸ばす。

「いや……!」

「!」

 だが、奈名が怯えているように体を縮んだことに、動揺のあまりに動きが凍り付いた。

 それはたぶん奈名自身すら予想しなかった、反射的な行動だろう。

 しかし、それだけで、彼女が普段からどれほどの恐怖に瀕していたのかを説明した。

「は……ははっ……ははっ……」

 虚しそうに両手を見下ろして、名月は乾いた笑い声をした。

 その笑いに反して、後悔の顔から、止まらない涙が流れ続ける。

「僕は一体……何をして来た……?どうして、今さら気付いた……?守るべき人……まだ守れる人は……傍にいるじゃないか!なのに僕は……」

「……きっと、今からでもまだ間に合う」

「……!」

 奈名が震えている。本能的に、奈名が名月を怖がっている。

 それでも、彼女は緩やかに、けど確実に、名月の手を握り返した。

「あたしも自分の弱さで、大事な友達を傷付けた。傷害と後悔を繰り返して、けど、どうしたらいいか分からなくて……」

 今でも、震えが止まる様子がない。だが、奈名は優しくて見上げる。

「でも、あたしは助けてくれる人とたくさん出会った。笑顔を向けてくれる人、心配してくれる人、それと……好きになってくれる人」

「奈名……」

「みんながいるから、あたしは本気で自分を変えようと決めた。今のように、お父さんに本心を言えた。だから……」

 決意した顔に、笑顔が浮かんだ。

 それは名月の財布にある写真と同じ、温かい笑顔だ。

「だから、一緒に変わろう、お父さん。みんなのとこに……笑って帰れるために」

「……本当に、和奈とそっくりだな、その笑顔」

 そう言った名月だが、その顔に、もう憎みも怒りもない。

 あるのは、父親らしい、慈しんでいる微笑み。

 親子の関係を修復するには、まだ長い時間が必要だろう。

 でも、今の名月と奈名なら、きっと大丈夫だ。

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