心の欠片 4

 蝕まれ、ボロボロの床に横になって、体が縮かんでいるあたしは、何度目かも分からない呟きをこぼした。

 今さら、こんな安っぽい謝りを、茉緒は受け止めるはずがない。

 あたしは彼女に目を向ける勇気すらない。お詫びのキーホルダーさえ、花玲に託した。

 どうして、こんなことになったでしょう……

「うぅ……」

 腕のあざが鮮明に出来ていて、足も捻挫したかも。頬に残っているヒリヒリした痛みにあたしは悶えた。

 きっと、これはあたしへの罰だ。

「……!」

 ドンと、ぶつかる音がして、あたしは驚きで震えた。続いてキーキーと、上手く締まらずに、半開きの状態で揺れるさび付いたドアの音。

 早かったね、お父さん……

「おい、奈名、ただいま!」

「……」

 声が伝わる前に、強烈な酒臭さが鼻に襲い掛かって、お父さんが帰ったと知らせた。

 冷蔵庫のビールを全て飲み干したお父さんは、酒を買うために近くのコンビニに行っていた。そこであたしは少し息をつく時間を得た。それもさっきまでだ。

 でも、もうどうでもいいの。

 きっと、これはあたしが受けるべき罰だ。

 最初は、お父さんは「君のせいじゃない」、「一緒に向き合おう」とか言っていた。

 でもすぐに、お父さんは変わった。

 あたしたちは引っ越しをしてから、お父さんは仕事に夢中になって、帰りが遅くなった、休日もよく残業して、時々も会社で夜を過ごすようになった。

 まるで……あたしに会いたくないみたい。

 そして、酔っぱらって帰ったあの日に、あたしはお父さんの気持ちを知った。

 お酒ばかりを吞んでいたお父さんを見たくなかったから、あたしは「こんなお父さんを見たら、お母さんは悲しむよ」と言った。

 お父さんは「和奈を殺した人殺しが説教してんじゃねえ」と答えた。

 罵りや怒鳴りと共に、何回も何回も、拳と足が中学一年生のあたしに降りかかった。

 そうか、お父さんはそう思っているのか。

 痛かった、怖かった。それでも、あたしは抵抗も反論もしなかった。

 お父さんが言っていたのは、事実だから。

 だから、あたしには抵抗する資格がない。

「なんかおつまみ持って来い」

「……」

「持って来いって言ってんだ!聞こえねえのか⁉あぁ⁉」

「ひゃっ……!」

 返事を待たずに、お父さんは家にある唯一のテーブルであるこたつを叩いて、大きい音を出した。

 何回を経験しても、心臓が握りしめられたように、怖くて怖くて仕方ない。

 いつもは穏やかなお父さんなのに、酒を飲むと、押し込まれた気持ちが解放されたように、全ての怒りをあたしに振るう。 

 そして起きたら、酔った時の出来事を全部忘れて、またあの優しいお父さんに戻る。

 ずるいよ。

 でも、ああ、そうなんだ。

 茉緒もきっと、ずっとそう思っているでしょう。

 友達を名乗って、自分のそばにいる人が、ある日突然別人みたいに変わって、自分にひどいことをいっぱいしてくる。

 あの日、あたしはいつも通り茉緒と一緒に帰ろうと思った。

 あの時のあたしには、茉緒が唯一の拠り所だった。

 一人もいない家で罪悪感に押しつぶされるか、それとも、あの酒臭いまみれの空間に戻って、暴力の降臨を待つか。

 あの時のあたしにとって、茉緒と一緒にいる時間が唯一のオアシスだ。

 そんなはずだった。

 でもあの日、あたしが気づいた時、茉緒の姿はすでになかった。

 あたしに一言も言わずに帰ることは、今までなかった。だからあたしは探した、探し回った。校舎の東側の2階に位置する美術教室に、あたしは茉緒を見つけた。

 怖がる顔をして、知らない女子二人に、体も私物も、黒板拭きクリーナーに積もる粉をぶっかけられた茉緒。

 いじめ、とうい単語が浮かんで、あたしは直ちに状況を理解した。

 怒りが湧き上がって、あたしは美術教室に踏み込んだ。

 だけど、踏み込んだ瞬間、いえ、もしかしたら、その光景を目にした時、あたしは気づいた。

 心の一角で喜びを訴えていること。

 あたしと同じく傷ついた茉緒を見て、あたしは楽になった。

 ダメだと、誰よりも分かっている。

 茉緒は何度も何度も、あたしの心を救った。

 彼女が傍にいてくれたおかげで、あたしは今までやってこれた。

 決して、彼女を裏切っちゃダメだ。

 だけど、自分に言い訳をすればするほど、心の奥にある高揚感が膨らんでいく。

 間違いだと、自分が一番知っている。

 きっと、最初から、あたしはこんな最低な人間だった。

 だから、自分でも嫌悪を感じるほど、教室に踏み込んだあたしは、笑っていた。

「その遊び、あたしも混ぜてもらっていい?」

 この言葉を口にした時、茉緒の顔に映るのは絶望だった。そして、取り繕わない方向へ、嚙み合わない歯車が回り始めた。

 あたしは、あいつらを止めなかった。止めなかったどころか、あたしはあいつらの仲に入って、共犯者、いいえ、主犯になった。

 最低な方法で、あたしは一大事な茉緒を裏切った。

 情けないのは、こんなあたしなのに、まだ図々しく茉緒の傍にいたかったこと。

 何もなかったような笑顔で、お詫びすらならないストラップを茉緒にあげて、自分の罪悪感を減らそうと企んだ。

 もしかしたら、心のどこかであたしは、何があっても茉緒はそばにいてくれると信じていた。

 茉緒は本当に受け止めた。ストラップ一つで、あたしたちは元の関係に戻った。

 少しは変わったこともある。例えば、放課後、一緒に帰らなくなった。

 でも学校にいる時は、あたしたちはいつも通りに振る舞った。

 茉緒は優し過ぎる。だから、あたしは調子に乗った。

 それから、家でお父さんに傷付けられた翌日は、あたしはいじめといった形で、茉緒を同じくらい傷つける。

 取り返しのつかないことをしていると、あたしは誰よりも分かっている。

 しかし、たとえ全てを知っていた花玲が忠告しても、あたしは止めなかった。

「何だお前‼返事もできねえのか‼」

 再びテーブルを叩き、床に散らかっている缶ビールを蹴り飛ばして、お父さんが立ち上がる。

 こんな最低なあたしだから、罰を受けるのも当然だ。

 でも、「彼」があたしの前に現れた。

 旧校舎の中で、誰もが聞こえるような大声であたしに告白した。

 ケンカなんてしたこともないのに、あたしのために拳の前に立ちはだかった。

 あたしが何回断っても、一緒に演劇しようと誘ってきた。

 突然アルバイト先に現れて、恥ずかしくて、でもちょっぴり楽しい思い出をくれた。

 あたしを縷紅草まで連れて帰って、始めて、あたしは自分の過去と向き合えた。

 彼がいて、あたしは心から自分を変えようとした。

 だから、悩んだ果てに、あたしは彼に真実を伝えると決めた。

 だけど、その時、お父さんが現れた。

 ビールを買ってコンビニから出て来たお父さんを見て、あたしは真実を伝えるチャンスを失った。そして、長い夜がやって来ると分かった。

 今度こそ、間違いを繰り返すわけにはいかない。

 どれだけ苦しんでも、あたしは茉緒に手を出しちゃいけない。

 なのに、あの夜、お父さんはいつもより乱暴だった。

 始めて、長い夜は朝まで続いた。

 始めて、お父さんはあたしの体に、翌日も消えないあざを残した。

 とてもとても辛かった。だから、あたしはまた罪を犯した。

 それを、「彼」に目撃された。彼は怒った。怒って辛くて悲しい顔をした。

 また、あたしは大事な人を裏切った。

 やはり、あたしは変われない、仕方のない人間なんでしょう。

 今でも、自分の心に向けても、あたしは言い訳をしている。

 こんな最低なあたしだから、全てを失った今になった。

「おい!まだ拳を食らいてえのか⁉」

 また、長い夜が始まる……

 でも、こんなあたしでも、少しだけ悪足搔きをしたい。

「ねえ、お父さん、もう……いいでしょう?」

「あぁ?」

「もう……あたしを許してくれてもいいでしょう?もうこれ以上ママの死を、背負いたくないの……」

「ああ⁉」

「ひゃっ……」

 まるで憤怒を具現化したような怒鳴りに、あたしはまた不甲斐なく震え始めた。

「和奈を殺した人殺しが何言いやがる‼」

 ああ、やっぱり、あたしは何も変えられない。

 梨沙さん、成恵おばさん、院長……みんな、ごめんね。

 ごめんね……「あんた」に色々助けてもらったのに、あたしは変われなかった。

 ごめんね……花玲のような強い人に、あたしはなれなかった。

 ごめんね……茉緒、傷つけて、裏切って、本当に……ごめんなさい。

「少し痛め付けないと、分からねえよな‼」

 お父さんの憤怒は、垂れたビールがついている拳となって振るってくる。

 怖い。怖いよ。

 自業自得だとしても、あたしはどうしようもなく怖い。

 なのに、何でこんな時に「彼」の面影が思い浮かぶの?

 いつもカッコつけようとしているけど、ほとんど失敗する彼。

 たまにはセクハラの言葉を言い出して、少し腹立たせる彼。

 演劇をやらせて、何故かあたしと白雪姫と王子として出演する彼。

 あたしは白雪姫なんてにはなれない。どっちかというと、邪悪な王妃が似合うかも。

 心のどこかで、茉緒のその幸せそうな笑顔を嫉妬しているから。

 だから、王子様に救われる資格がない。

 あたしは、罰を受けるべきだ。

 だけど、こんなあたしだけど、拳を目の前にされると、つい祈ってしまう。

 誰かに、助けに来てほしいと。

 それは叶わない夢だとしても、かのような弱い願いが、口元からこぼれる。

「助けて、成良……」

「うおおおおおおおおおおお‼」

「お前は……うぅ!」

 顔に与えるはずの衝撃が伝わらなかった。代わりに、必死な雄叫びと、お父さんの戸惑う声が響いた。

 おどおどと目を開いたあたしは、目を丸くした。

「え……?」

 お父さんは突然の突入に倒されて、驚愕を隠せずにいる。

 でもたぶん、お父さんより、あたしは何倍も驚いている。

 同時に、内心から温かい喜びが湧いてくる。

「大丈夫か、奈名?」

 あたしの……王子様。

「成良……!」

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