7 そして、崩れて行く
冬の到来を予告しているように、秋の紅葉が枯れ果てた。
今日学校に着いたら、すでに校内の木々は枯れ木となった。11月の中旬になって、秋と冬の境が曖昧になっている。
気温もそれなりに下がって、ブレザージャケット一着では忍び難い寒い日だ。
そんな人の活動力を低下させる天気なのに、俺は汗ばんで息が上がっている。
何故かと言ったら……
「てめえ‼止まれええええええ‼」
「止まるわけねえだろう‼」
今俺は全力で校庭を走り回っていて、貴琉と彼の手下くんとrun for life(いのち) 逃走中をやっている最中というわけだ。逃走中のは二人しかいないけど。
「何で俺を追うんだよ⁉」
「俺様の奈名に手出した野郎は駆除してやる‼この世から……一匹残らず‼」
「俺は巨人かよ!一匹しかいねえし!」
「兄貴!最新の情報によると、あいつは休日に宮坂奈名と街中を出歩いて、さらに二人は王子と姫で互い呼び合っているとの目撃情報があったっす!」
「てめえをぶっ殺してやる‼」
「どっからのクソ情報だよ!」
この状況は実はもう一頻り持続していた。貴琉はどうやら、完全に俺のことを目の上のたん瘤として狙っているらしい。学校内で俺を見かけたら、すぐにこうして追いかけて来る。
全く、今日は奈名は教室に来ていなかったし、電話にも出なかったから、少し心配で放課後旧校舎に確認しに行ったら、貴琉たちに見かけられてこんな羽目になった。
今そういうどころじゃないのに……
「ついてねえな……」
「だな」
嘆きと共にもれた独り言が意外に返事が返って、俺は隣を走っている幼馴染を見る。
「で、何で京陽も逃げてんだ?」
「さあ、あいつが急に僕をぶっ潰すとか言い出して」
「おらっ!待て!」
京陽が言っているあいつとは、ぱさぱさしたブラウン色のハリネズミヘアをした、すごい剣幕で俺たちを……正確に言うと、京陽に向けて怒鳴っているのは手下くんのことだ。
「てめえ、俺の髪をたわしって言っただろう!ぶっ潰してやる!」
「……京陽?」
「……だって、似てるし」
こちらは自業自得のようだ。俺もさっき「たわしみたいだな」と思ったけど。
「てかさぁ、京陽……は、は……疲れねえのか……は……」
正直、走りながら喋るなんて、俺はとっくに息が追い付かなくなっている。
一方、京陽は全然平気に見える。こいつ、運動神経がこんな良かったっけ?
「酸素……酸素が……足りない…….」
「全然平気じゃねんだ。おい」
よく見ると、京陽の足取りがふらふらしていて、いつ倒れてもおかしくない状態だ。
俺もそろそろ限界が迫って来てるな……
「「待ってろ‼」」
「こうなったら……」
俺は周りをざっと見て、いつの間にか、俺たちは旧校舎からまた普段が使っている校舎の方に戻って来た。確か、前の曲がり角を右折したら、校舎に入る階段があるはずだ。
「京陽、ラストスパートだ!」
俺たちはスピードを上げて、少しだけ貴琉たちと差を付けたら、すぐに右折してダッシュで校舎に入り込む。そのまま二階まで上り、俺たちは階段に一番近い教室の廊下に止まって、教室側の壁に背中を当てて座る。
「は……は……は……」
「……ふう」
呼吸を整えながら、俺と京陽は耳を立てる。
「クソ!どこ行きやがった!」
「出てこい!」
予想通り、貴琉たちは俺と京陽の位置が特定できなくなった。
「ちっ、逃がしやがったか……」
「畜生‼」
悔しそうに叫び上げても、俺たちを見つけられない貴琉たちの声が段々と遠のいて行った。
「助かった……」
「水……水をくれ……」
「俺も喉が渇いた。えっと、ウォーターサーバーが……」
四つの出入口がある我が校の校舎で、東側に位置するこの出入口の利用者が一番少ない。ここでは、正門も裏口から入ってもそれなりに距離があって、加えてここに配置されるのは美術教室と音楽教室だけなので、今のような放課後なら、基本人がいなくて静かだ。
頭部を回して見たら、三つ目の教室の向こうに、ウォーターサーバーが設置されている。
「疲れた。成良……」
「断る」
「……」
うん、そう来ると思った。俺に断わられて、京陽は嫌々と立ち上がって、俺と一緒にウォーターサーバーへ向かう。正直、京陽の気持ちは分かる。
こんな天気で走ったら、喉が痛くなるほど渇いて、体も余熱が残って力が入らない。
ゆっくりと歩いている俺たちが、もうすぐ三つ目の教室にたどり着く前に、中からげらげらと笑い声が伝わる。ここは美術教室だから、もしかしたら芸術能力を精進したい学生が残っているかもしれない。そう思っていたが……
「やははっ!これで人体ボード完成!ウケる」
「わぁひどっ、これ簡単に洗えねわ〜」
「しゃーないっしょ?美術教室にこれしかないじゃん」
耳に入ったのは、どこか物騒に聞こえる内容だ。
「……京陽」
「ああ」
俺たちは音を立たずにしゃがんで、半開きの引き戸から中の様子を覗き込む。
「な……⁉」
「……!」
教室の光景を目にした瞬間、俺は思わず息を吞んだ。
俺だけではない。隣の京陽も稀に目をむいた。信じがたい場面だ。
四人の少女が教室にいる。少し化粧が濃い、髪が長い少女と、口を開くと、尖った八重歯が出てくる短髪の少女。見覚えのある二人だ。
良く旧校舎で姿を見かけて、奈名と繋がりがある二人。
彼女たちの前にもう一人の少女が跪いて、処刑される直前のように、両手首を後ろにブレザージャケットで縛られている。
八重歯の少女は左手にパレット、右手には顔料がついている水彩筆、一見作画中の学生に見えるが、彼女は紙も画板も使っていない。
代わりに、床に跪いている少女の白い肌と、普段、綺麗にしている制服も、今はどんよりとした顔料に塗られて、何箇所にもダーツボードのような絵が描かれた。そう、これはたちが悪いいたずらでも冗談でもない。確実ないじめだ。
それだけじゃない。問題は被害人の少女の、その身分だ。
「もういいでしょう?お願い、帰りたいよ……」
「へ……冷たいこと言うなよ。久々に学園の天使と遊んでるのに、もうちょっと楽しませてよ」
「そう、そう、今帰ると、そのカバンについてる可愛い缶バッジと一緒に旧校舎前のクソ臭い池に入っちゃうよ、それでいいの?茉緒」
いじめを受けているのは、間違いなく俺たちの友達である茉緒だ。あの学校中の皆に好かれて、いつも温かい笑顔をする茉緒が、今は理不尽な屈辱を受けている。
「そんな……」
茉緒は無力に呟いた。それを気にすることもなく、八重歯の少女は水彩筆を適当に捨てて、パレットをひっくり返して茉緒の頭の上に置いた。残りの汚くなった顔料が、茉緒の長い髪に沿ってじわじわと流れる。
「あ、落としちゃダメよ?でないと茉緒の靴をトイレに流すよ。やははっ!」
「……」
何か面白いことを話しているように、八重歯の少女が軽く残酷な言葉を吐いた。
反抗の言葉さえ言い出せることが出来ない茉緒は、ただの目尻からこぼれそうな涙を必死に堪えている。
「理夏(りか)、次何する?」
と、八重歯の少女が聞いた。
「世音(せおん)がダーツボード描いただろう?じゃダーツやろう」
と、理夏と呼ばれた少女が答えた。
「ダーツあんの?」
「あるよ、旧校舎でもやるから、いつも持ってる」
「やははっ、さすがだね!でもやり過ぎない?怪我をさせたら色々めんどくなるよ」
「ソフトダーツだから平気じゃない?でもたぶん痛えわ〜」
笑顔を交わしている二人。だが彼女たちが口にした言葉は、まさに悪魔の囁きそのものだ。
何かが沸騰しているような感覚で胸がざわめく。隣の京陽も同じ気持ちを抱えているはず。それでもまだ教室に踏み込んでいない理由は、四人目の少女だ。
ほかの三人と少し離れて、空いている机の上に座って足を組んでいる。
引き戸に背を向けているから、俺は彼女の顔が見えない。しかし、その後ろ姿も、微かに揺れている金色の髪も、俺は認めたくないほど知っている。
彼女のはずがない。俺に過去を語って、変わろうとしている彼女。強勢な外見に反して、実は優しくて臆病な彼女。
信じたくない。俺の勘違いだと思いたい。
だが、その僅かな希望も、彼女が世音に呼ばれて振り向いた瞬間に、木っ端微塵に砕けた。
「奈名もやってみない?」
「……!」
「……」
噓、だろう……これは一体……どういうこと?
混乱して状況を把握出来ない俺を待たずに、教室中で会話が続く。
世音の提案に、奈名は不愉快そうに眉をひそめる。
「……どうして?」
「だって、言い出したのは奈名なのに、見るだけじゃつまんないでしょ」
「そうよ、奈名が茉緒と遊びたいって言ったから、私たちはカラオケの予定をキャンセルして付き合ってあげてんだよ?」
世音の挑発と理夏の相槌を聞いた奈名は、視線をダーツと茉緒の間に泳がせる。
頼むよ、断ってくれ。今でもいいから、茉緒が一番大事な親友だって言い張ってくれよ。
「……分かった」
しかし、奈名は机から降りて、ダーツを受け取った。
ダーツを握る奈名の顔には、喜びも悲しみも見えずに、ただ茉緒に向けて手を翳 す。その行動に気づいて、茉緒は頭を上げて、複雑な表情が顔に織り交ぜる。その同時に、パレットが落ちた。
「はいアウト〜靴にさよならだね」
世音の宣言に反応を示さずに、奈名は無言で茉緒を見つめる。二人の目があった瞬間、奈名の瞳に動揺が見えたが、その感情もすぐに押し殺されたように消えた。
「ごめんね、茉緒」
と、奈名が価値のない謝りをこぼして、ダーツを投げようとした直前に——
「⁉」
俺は引き戸を乱暴に引いて、木製の引き戸がコンクリートの壁にぶつかり、爆弾のような音を立てて、またその反動で半開きの状態に戻った。その間に、俺と京陽はとっくに美術教室に踏み入れた。
すべての人が音で振り向き、びっくりして肩が跳ねた奈名も手を引いてこちらを見る。
「え……?」
ダーツが床に落ちた音、今はやけに耳が痛く聞こえる。
奈名は凍り付いたように動きが止まって、唇だけ弱く震えている。
「ど、どうして、成良が……?」
「……それは、こっちのセリフだろう」
「……!」
「これは一体どういうことだよ⁉奈名‼」
「え、え……」
どう反応したらいいか分からないみたいに、奈名の震える唇から言葉にならない声が落ちて、俺から目を逸らした。
「あれあれ?どうなってんの?修羅場?ウケる!」
「あ、お前、この前奈名に告ったやつっしょ!あれはすごかったよ!」
いじめの現場が目撃されても何とも思っていないような二人は、俺たちを気にする様子もなく卑劣な話を続けた。
俺は茉緒に一瞥した。京陽は自分のブレザージャケットを脱いで茉緒に羽織らせ、水彩の汚れを隠そうとしている。
茉緒は驚愕か困惑か分からない顔で、されるがまま京陽のブレザージャケットを着た。茉緒の状態を確認して、俺は再び奈名を睨みつける。
「奈名、答えろ!一体何でこんなことをするんだ⁉」
「……」
「昨日はまだ、特別を失わないために向き合うとか言ってただろう⁉」
「……!」
「……大事な話って、これかよ」
「……ち、違う、違うの!あ、あたしは……」
奈名は激しく動揺していて、俺の問い詰めに、弁解にならない弁解をしようとしている。
だが、その弁解を待たずに、ある人は何も言わずに、俯いているまま走って教室を出た。
それが茉緒だった。
それを見て、世音と理夏はまた声を上げる。
「あぁあぁ、茉緒が行っちゃった」
「しゃーない、私たちはカラオケ行こう」
「待ってろ!」
そのまま何もなかったように行かせるわけにはいかない。
「え?なーに?」
「説教はごめんだけど」
「お前らふざけんな!」
俺の怒りを、彼女たちはただ冗談を聞いているように流した。
「クレームなら、私たちじゃなくて主犯に言ってくださいね」
そう言って世音は奈名の方へ首を捻る。
「主犯?」
「そうよ、私たちはとっくに茉緒に興味なくなったんだ。続けたいって言ったのも奈名だよ、私たちはその付き添い」
「半年も同じ人じゃさすがに飽きたからね」
主犯?続ける?半年? ……こんなことは、初めてじゃないのか?
多すぎる情報に、俺の頭が回らなくなった。
「んじゃ、バイバイ」
「またね——」
俺はもう彼女たちを止めようともしなかった。
目の前にいる奈名と比べれば、あいつらは、どうでもいいのだ。
「本当に……そうなのか?奈名」
「……」
仮に、本当だとしたら……
「親友じゃねえのか⁉特別じゃねえのか⁉大事にしてるんじゃねえのか⁉だったらどうして……!」
俺は奈名を見つめる。だが、後者はただ下を向いて、肯定も否定もしなかった。
「頼むよ……答えてくれよ!一体、何でだよ……?」
時間が永遠に止まるような沈黙の果てに、奈名はようやく頭を上げた。
血色が失った顔に、半笑いが浮かぶ。
「し、仕方ないよ……」
「え……?」
「だって、そんな幸せそうな笑顔を見たら、いじめたくなるでしょ?」
俺はこの瞬間、心の中の何かが崩れた気がした。心の熱を抑えきれず、俺は奈名の襟を掴んだ。
「ふざけんな!」
「ぃゃ……!」
奈名の口から、声にならない悲鳴がもれた。
「!」
恐らく初めて、奈名が俺に怯えていた。動揺して、俺はつい手を離した。
「……」
再び注視する時、そこはすでに怯えなんてない。残ったのは、虚無だけが宿るその瞳。
「……だから、最初から言ったじゃん。あたしに、近づかないでって」
心を失ったように、奈名は硬く動いて、不穏な足取りで引き戸へ向かう。
「おい、待ってよ、奈名!」
教室を出る前に、奈名は振り返らずに、ただゆらゆらと歩いて、声帯で微弱な声を絞り上げる。
「……ごめんなさい」
本当に聞こえたかどうかですら、俺にも分からなかった。
ただ、それはどんな言葉であっても、意味がない。
「元気ない顔だな」
「……お前だけに言われたくねえよ」
俺の向こうに座って、京陽は販売部から買った好物のカツサンドを無表情で口に入れる。
あれから一週間、俺と京陽はずっと二人で昼飯を食べていた。
別に昔に戻っただけだから、俺たちも慣れている。ただ…….
「はあ……」
「……」
この重い空気だけは、どうにもならないのだ。
「成良、今日も弁当なし?」
「まぁ……」
「お前この一週間ずっとそうだろう」
「朝起きたらなんか作る気がなくてさ……」
腹が減らないわけではないが、あの日のことを思い出したら反吐が出そうになるので、俺は最近なかなかろくに昼飯が取れなかった。
げっそりするほどはないが、少し体重が落ちた気がする。
「茉緒の方はどう?」
「ご存知の通り」
俺の質問を正面から答えずに、京陽は教室の後方へ頭だけを振り向く。
クラスの中心メンバーが集まることで形成したグループの中に、茉緒の姿がいた。皆が楽しそうに話していて、茉緒も話題に合わせて笑顔を出している。特に問題なさそうに見えるが、俺か京陽と目が合ったら、すぐにそっぽを向いて俺たちを回避していた。
「……だろうな」
「そっちは?」
「ご存知の通り」
「だろうな」
このコピペのような会話で、俺たちは進展がないことを確認した。
あれから、奈名は俺たちの前から姿を消した。
学校も来ていないし、電話もSNSアプリも、一つも返事が来なかった。
一方、茉緒はちゃんと学校に来ているが、俺たちのことをできるだけ避けた。
当然、週末の演劇練習は二人共来なかった。一応ケンカしたと理由で誤魔化した。
今までの練習は非常にいい状態でこなせたので、お母さんたちも特に責めなかったが、いつまでも誤魔化すわけにはいかない。
結局、一週間を経っても、俺はまだ何もわからない。
せめてのいいことは、俺と京陽が観察していたこの一週間、世音と理夏は茉緒に近づけようとする挙動がなかった。
だが、それも彼女たちが言っていた、奈名は主犯という事実を間接的に証明したではないだろうか。
「クッソ……なんなんだよ、一体……」
「随分悩んでるな」
「京陽、お前はどう思う?」
「クソなんなんだよ一体って思う」
「……」
「分からないはいくら考えても分からないよ、本人に聞かないと」
「……だな」
「で、お前はどうするつもり?」
「どうも何も……今の状況じゃなんもできねえし」
「そうじゃなくて」
「え?」
「お前の気持ちのこと」
「……さあ」
そう簡単に俺の迷いを察したのは、さすが幼馴染だということか?
考えた。だが答えが出なかった。本当に、何もかも分からなくなって来た。
俺は、奈名に裏切られた気がした。
理由はどうであれ、奈名は自分の意志で茉緒を傷つけた。
俺はそんな奈名に会いたくない。会ったら、好きになれなくなるかもしれないのが怖いのだ。
だが、そう簡単に手放すことが出来ない。だから、電話もLI○Eもした。
それでも、答えが出なかった。
「はあ……」
「頑張ってな」
「あ」
頭に一つのカツサンドが置かれた。
どうやら、京陽は事前に俺のために買ってくれたみたいだ。
「……サンキュー」
包装の袋を剥きながら、俺は軽くお礼を伝えた。
こいつ、たまにも良いことするなぁ。
「成良くん、元気なさそうだね、どうしたの?」
「俺、そんなに元気なく見えます?」
梨沙に心配そうに聞かれて、俺はちょっと鏡で自分は一体どんな顔しているのを確認したくなった。
まだ答えが出ていない。だが、なんとなく、奈名がいるかもしれない場所にやって来た。
「あ、アルバムのクレームなら受け付けませんよ♫」
「いや、そうではなくて……まぁ、それについては確かに文句言いたいですけど……」
簡単に店の人への挨拶を済ませたら、やはり奈名の姿がいなくて、俺は梨沙の言葉に甘えて休憩室の椅子に座った。
ちなみに、節真の娘が無事に出産されたと、さっき本人から聞いた。ついてに梨沙が助けに来るまで、10分間ほど娘さんの写真を見せびらかされた。。
「あの、奈名は今日出勤してませんか?」
「なな?いいえ、今日のシフトに入ってないよ」
首を傾げて考えると、その束に結んだ髪も柔らかそうに揺れた。
「君たちが演劇の練習を始めたから、ななは出勤の日数を大分減らしたから、ここに来ても中々会えないと思うよ」
「そうなんですか……」
「あれ、成良くんはななと同じクラスでしょ?直接にななに聞いたら?」
「いや、それは、ちょっと聞きづらいというか……」
「もしかしてケンカした?」
「いや、その……」
知らせたらきっと梨沙が悲しいと思うし、何より、こんな話を口にしたくない気持ちが強いので、俺はあえて梨沙の質問を回避した。
「お、俺、そろそろ帰ります」
「え?早いね」
「はい、まだ用事あるんで……今日はありがとうございました、梨沙さん」
「そうか、演劇の練習、頑張ってね。見に行くよ」
「え、本当ですか?」
「ななに誘われたからね」
「そうですか……」
誘ったのは、奈名も梨沙に良いとこを見せたいということだろう。
それなら、どうしてそんなことを……
悔しい表情を隠し切れなくなりそうだから、俺は慌ててドアへ向かう。
「成良くん」
その呼びかけに、俺は一瞬ドキッと心臓が跳ねた気がしたが、恐る恐ると振り返ったら、梨沙はただにんまりと微笑んでいる。
「いってらっしゃいませ♫」
「……行ってきます」
「成兄、笑顔が気持ち悪い」
「……俺、一体どんな顔をすればいいだろう?」
弥っちゃんの毒舌を受けて、俺はより萎えた気がした。
メイド•イン•キャットを出て、俺は帰り道に縷紅草を訪れた。
心配されないように、俺は自分が出来る一番の笑顔を作ったのに……
「成兄ちゃん、笑顔が変」
「分かったよ!笑わなきゃいいんだろう」
俺は笑顔を取り下げて改めて二人に問う。
「光ちゃん、弥っちゃん、奈名姉ちゃんは最近ここに来てた?」
「奈名姉ちゃん?ないよ」
「ないと思う」
「だろうな……」
そんなことの後に奈名が縷紅草に来る可能性は、どう考えても極めて低い。
それでも、なんとなく来たのは、往生際の悪い自分の心が蠢いたからだ。
「急に何じゃ?成良」
「いや、別に……」
「成兄は奈名姉ちゃんを探してるみたい」
「ん?奈名……?」
「うぅ……」
しまった。子供たちに聞いてから帰ろうと思ったのに、失策だ。
片方の眉を上げた院長は、疑う目線を投げてくる。
毎日会っているはずの人が行方を聞きに来るなんて、やはり不自然と思うだろう。
「何かあったか?」
「な、何でもねえよ?ははっ!」
緊張しながらも、俺は今日一番出来が良い笑顔を作れた。自分でも上出来だと思うぐらいの。
「成良……」
「な、何だ?」
「そんな凄まじい顔しとるんじゃない、ガキ共を怖がらせるつもりか?」
「ジジイ、俺泣くよ」
家に帰ったら、笑顔の練習をしよう。うん、そうする。
「まあいい、お前さんたちのことに口を挟むつもりはない」
深く問い詰めないと意志を表明して、院長は少し和らげた声で付け足す。
「じゃが、ワシらの力が必要な時はちゃんと言え。お前さんも、ワシらの家族じゃ」
「ジジイ……」
「あと、気付かれたくないなら、もう少し元気のあるように振る舞え」
その言葉を残して、院長は子供たちの世話に戻った。
「……」
俺の知り合い、皆エスパーなのか?
「ただいま」
「お帰り〜」
玄関で靴を脱ぎながらそう言ったら、家の中から軽快な返事が来た。
帰る前に、俺は何でもない顔が出来るほど気持ちを整えた。少なくとも、コンビニの鏡の中で見た自分はいつも通りだった。
頭に混んでいる思惑より、今俺の注意を引き起こしたのは、厨房から拡散しつつある香りだ。
「母さん、飯作ってんだ?」
「たまに練習しないと疎くなるから」
「なるほど」
一年中の大半は海外にいる両親だから、自然に料理をする機会は限られている。帰国期間中も、基本は俺が家の飯を作っている。とは言え、両親は料理が出来ないわけでもない。少なくとも俺の料理の礎は、お母さんに習った。
「オヤジは?」
「アンちゃんと舞台の相談があるから外で食べるって……十中八九はお酒を飲みに行ってる」
「しょうがないね」とため息交じりで言ったお母さんである。お父さんは累犯だろうか。
「もうすぐで出来るよ」
「分かった」
カバンを部屋に置いて、俺は着換えを済ませて手を洗って、ちょうど出来上がった晩飯がダイニングテーブルに置かれた。そのまま俺は箸を持って夕飯を食べ始める。
「そんで京陽のやつ……」
「変わってないね、京ちゃんは」
昼飯を抜いたせいだろうか、食べながら適当に話題を振って、俺はいつの間にかおかわりを頼んだ。
「そうだ、成ちゃん」
「ん?」
「あんまり元気ないみたいね、何かあったの?」
「……俺の顔って、そんなにひどかった?」
「ううん、いつも通りだよ」
「え?じゃ何で?」
「ん……お母さんだから?」
……決めた。明日本屋にマインドリーディングの本を探しに行く。
「もしかして、奈っちゃんのことで悩んでる?」
「……何でここで奈名の名前が出てんだ?」
「読みかけたアルバムは、ちゃんと閉めた方がいいよ〜」
「……マジかよ」
「ごめんね、部屋を片付けてあげようって思って、見ちゃった」
……プライバシー、大事。
「でも、例えアルバムを見てなくても、なんとなく分かったけどね」
「マジ?」
「お母さんから見ても、成ちゃんは分かりやすすぎるよ」
梨沙にも似たようなことを言われたことがあった気がする。ポーカーフェイスも練習しようか。
「この前、私はお昼に奈っちゃんを誘ったでしょ?」
「そういや、秘密話とか言ったな」
「実は奈っちゃんに『ぶっちゃけ成ちゃんのことをどう思ってる』って聞いた」
「何してくれたんだ⁉」
「いいの、いいの、細かいことは気にしないで」
「わたし、気になります!」
とある古典部の部長を真似たけど、お母さんには無効らしい。
「大事な人だって」
「え?」
「『成良はあたしに勇気をくれた。縷紅草に戻る勇気、過去に向き合う勇気、そして……自分を変えようする勇気。だからあたしにとって、成良はきっと、大事な人……だと思う』奈っちゃんは、そう言ったよ」
自分を変えようとする勇気。
だったら、そうだったら、どうして……
「母さんは、もし大事な人に裏切られたら、どう思う?」
「え?お父さん、浮気した⁉」
「違げえよ、たとえ話だ」
「うん……怒って悲しいかな」
「……それでも、やっぱりこのまま終わるのが嫌なら?」
「なあに、そんなこと悩んでるの?」
どうってことないと言わんばかりに、お母さんはにこりと笑う。
「簡単だよ」
「え?」
「怒って悲しくて、それでもまだ一緒にいたいなら、会って話して、思いっきり怒って、気が済むまで相手を𠮟って、そして笑って仲直りをするだけよ〜」
「なんじゃそりゃ……」
それは、理想的な、少し子供っぽい答えだ。でも、俺が求めているのは、案外こんな単純な解答なのかもしれない。
そう考えて、俺は思わず苦笑いをこぼす。
「やっぱ母さんってすげえな」
「そりゃあ、お母さんだがら〜」
「ここでXを方程式に代入して……おい佐上、聞いてるか?」
「はい、聞いてまーす」
「じゃこの問題を解いて」
「……すいません、聞いてませんでした」
「集中しろ!」
「はい……」
数学の先生が視線を黒板に戻して、チョークでリズムのいい書き音を叩き始めたら、俺はほっとして肩の力を抜いた。びっくりした……
放課後前の授業は数学。奈名のことを考えて、今日も俺は心があらずに一日を過ごした。
一日悩んだ末、俺はお母さんのアドバイスを採用して、とりあえず会って話そうと思っている。
でも、その会うことさえ、今は難航しているのだ。
そう考えて少しめげた俺は、窓外を眺めてため息をついた。
連絡が取れない以上、そんなに都合よく会うわけが——
「会った!」
いや、会ったわけではないが、いた。
視野の一角が、一週間ぶりの金髪ロングを捉えた。
俯いていても、その姿だけが、俺は決して見間違わない自信がある。
「会いに、行かなきゃ……」
「誰に会いに行かなきゃ?」
「……トイレ?」
気付いた時、数学の先生は至近距離で俺を睨み付けている。やめて、おっさん、顔が近い。どうやら、俺は無意識に立ち上がったようだ。
先生の顔には、青筋が立っている。
「真面目に授業を受けろ‼」
待ちに待ったチャイム音がようやく鳴ってから、俺は直ちに旧校舎へ足を運んだ。
この時間で奈名が学校に来るとしたら、行ける場所は旧校舎しか思いつかない。
今度こそちゃんと話そう。と、思ったが……
「待ちやがれ‼この野郎‼」
「またお前かよおおおおお‼!」
何故か校舎を出た拍子に、貴琉たちとばっちり出くわした。
「クソ、こんな時ぐらい邪魔すんなよ……」
「本当に、面倒くさいな」
口にした文句に返事が返って、俺はまた隣で走っている幼馴染に目を配る。
「で、京陽、何でお前もいるんだ?」
「成良の様子がおかしいって思って追ってきたけど……」
「また会えたなぁ!今度こそぶっ潰してやる!」
「……というわけだ」
「なるほど」
たわし……いや、手下はまだ京陽に根に持っているらしい。
「お前、謝った方がいいんじゃね?」
「本当に似てるって」
「……」
さすが、ブレないな。
「とにかく、どこに隠れよう」
「ああ」
前回の経験もあって、俺たちはすぐに校舎周囲の灌木を見つけて身を隠した。
案の定、貴琉たちは俺たちを探せなかった。
「ちっ、また逃げられたか……」
「でも、さすがっすね、花玲姉貴の情報」
……花玲姉貴?
「あぁ、この前も今日も、本当に言われた通りの場所に出てきやがったな」
「俺たち二回も逃したっすけど」
秋の風が運んでくれた貴琉たちの言葉に、俺はどうも違和感を感じる。
花玲兄貴、この前も今日、言われた通りの場所。それはつまり……
「うるせ!」
「けど、どうして花玲姉貴は俺たちに情報をくれたっすか?」
「利害関係が一致だからじゃねえか?あの女も奈名に近づく雑魚を追っ払いたいだろう」
利害関係一致と、俺は貴琉の話を反芻した。
まさか……が、それなら、理屈が通る。
「どうせ最後奈名を勝ち取るのはこの俺様だ!行くぞ!」
そう言って、貴琉は手下くんを連れて行った。
足音がなくなるまで忍んで、俺は京陽と視線を交わし、旧校舎の方へ急いだ。
「は……は……」
「……ふう」
「成良くん……京陽くんも来たね。どうしたの、そんなに慌てて?」
いつもの笑顔をしている花玲の瞳に、僅かな驚きが浮かぶ。
全速で旧校舎に駆けつけたら、やはり、始めて会話をした、池の隣にある空地に花玲がいた。
「……奈名は?」
「あの子はいつも成良くんと一緒じゃないの?」
「奈名は?」
明らかなボケを無視して、俺はただ同じ質問を問いかけた。
俺が引かない意志を示したら、数秒後、花玲は無音の嘆きをこぼした。
「……もう帰ったよ」
「そうですか……」
花玲の近くに奈名の姿が見えない時点でそうかなと思ったので、特に驚きはなかった。
それでも、悔しくて拳を握った。
「やっぱり、最初から全部知ってますね、花玲先輩?」
「……」
「だから、先週も今週も神宝たちに俺の居場所を教えて、俺が奈名を探せないようにしましたね?」
別に、俺のクラスと奈名のとこへ行くという目的を知ったら、簡単に推測できる情報だが、それでいい。貴琉たちが俺を追いかけているうちに、俺は奈名を探すことが出来ない。
「……私が成良くんに声をかけたあの日もね」
「……!」
花玲は淡々と補足した。思い出したら、確かにあの時、世音と理夏は旧校舎に来て奈名を呼んだ。そして花玲が現れた。
「あの時、小野里も……」
「こうなった以上、理夏たちが茉緒ちゃんに手を出せないように保証するよ。せめての補いとしてね」
「……どうして、俺に何も言わなかったんですか?」
「伝えようとしたよ、最初から」
「え?」
「だから言ったでしょ?あの手帳、成良くんこそあれを見るべきって」
「!何だよ、それ……」
それなら、最初から、俺はすべてが阻止出来るかもしれないじゃないか?少なくとも、茉緒は二回のいじめから逃れることになる。
でも、俺は何も気付かなかった。
「失策だね、君たちが校舎に入ると思わなかった……いや、成良くんと仲良くなった以来、あの子は一回も茉緒ちゃんに手を出さなかったから、私は油断したかも」
自嘲するような虚ろな笑顔で言いながら、花玲は手に握った何かを俺に渡そうとする。
「あの子はこれを渡すために学校に来た。でも今の状態じゃ当分自分から渡せないよね」
それは花の形のキーホルダー。透明のラッピング袋の上に、一枚の付箋が貼られてあった。
ボールペンで描いた文字が少し掠れたが、きちんと刻まれてあった。
「ごめんなさい」と文字が。
「成良くん、これを茉緒ちゃんに渡してくれる?」
「……」
「友情の証……か」
キーホルダーを見つめて、京陽は独り言のように呟いた。
「何か知ってるか、京陽?」
「いや、何でも……キーホルダー、僕が渡します」
「……少し意外だね。じゃお願いね、京陽くん」
自ら買って出るのは珍しいが、京陽なら、自分の考えがあるだろう。
今はそれより大事なことがある。
「花玲先輩、一体、これはどういうことですか?」
「……入学してから、校内で相当に人気がある茉緒ちゃんが、理夏と世音の狙いになった。そのいじめの現場は、ちょうど茉緒ちゃんを探している奈名に見られた」
ただ事実を述べているように、花玲の声には感情がない。
「だけど、あの子は茉緒ちゃんを助けなかった。逆に自分が三人目のいじめっ子になった。それでも、あの子と茉緒ちゃんは決裂しなかった。茉緒ちゃんに手を出した日以外、彼女たちは友好の関係を保ってた」
理解できない、歪でいる、間違っている。
だがこのおぼつかない関係は、半年も続いた。
「それを知ってたなら、どうして止めなかったんですか?花玲先輩なら、それぐらいは出来るだろう!」
自分の情緒に気づいて、俺は意識的に声を下げたが、責めるような口調は無意識にこぼれた。
「花玲先輩は……奈名を大事してるんじゃないですか?だったら……!」
「……大事してるからよ」
特に小声で言っているわけではない。だが、花玲の声がどこかか弱く聞こえた。
「あの子は、バランスを保つために、茉緒ちゃんを傷つけた」
「バランス?」
「私はあの子を知ったのは、旧校舎に来る新入生の中に、すごくかわいい子がいると聞いたから。でも、あの子が旧校舎に来るようになったら、イメチェンのように、派手な格好をし始めた。その時から、あの子が私を真似てると気づいた」
昔のことを思い出したのか?花玲はクスッと笑う。
「あたしはその理由が気になったから、聞いてみようと思ったけど、君たちも知ってる通り、あの子は冷たい子だった。だから何も聞き出せなかった私は、ある日、あの子の後ろを付けた」
「……」
「ただの気まぐれでしたこと。だけど…….」
不自然に止まって、花玲の口元にある笑みが消え去った。
「そこで、私はあの子の本当の傷を知った」
それからの言葉に、俺も京陽も、目をむいて息を吞んだ。
一言も挟めずに、俺たちはただ花玲の話を最後まで聞くしかなかった。
「……」
「……」
「だから私は、あの子を止めることが出来なかった。あの子は茉緒ちゃんを傷つけることで、心のバランスを保った……潰されないように」
「そのために、小野里の心はどうだっていいと言うのですか?」
いつも通り、声から感情が分からない京陽だが、俺は確かに不愉快の情緒を感じた。
花玲は首を横に振って、どこか後ろめたさが声に含む。
「私はあの子のやり方は気に入らない。でも、私も別の方法が見つからなかった」
「……」
「だから私は、成良くんにお願いした」
「……そういうことか」
——あの子はきっと、誰よりも普通でありたいと願ってるよ
——だから、成良くんにあの子を変えてほしい。
——あの子が壊れる前に……助けてあげて
花玲の話が頭に浮かんで、悔しい気持ちが湧き上がる。
「……結局俺は、何も出来なかった」
「それは違う。成良くんはがあの子を変えた。本当に、こないだあの子は、今までと全然違かった。今はまた一歩退いたけど、それでも、あの子きっと何かが変わった。変わってるはず」
「けど奈名は……」
「……さっきのあの子は、私の見たことない辛い顔してた」
「……」
「あの子は苦しんでる、後悔してる。きっと、誰かが引っ張ってくれるのを、あの子は待っている。だから——」
俺は再度と面食らった。その理由は、俺に頭を下げている花玲だ。
不良のトップであり、学校の中で彼女に逆らえる人がいないと言われる花玲が、今はたった一人の後輩のために、俺に頭を下げている。
「だからお願い、成良くん、もう一度だけ、あの子を信じて。もう一度、あの子を変えて。お願い、あの子を……助けてあげて……!」
「……!」
噓のない祈りだと、心からの願いだと、空気に溶け込んだ切な声が教えてくれた。
「……花玲先輩、奈名の家の住所を、俺のスマホに送ってもらえますか?」
「え?いいけど……何をする気?」
俺の要求で頭を上げた花玲は、疑問ながらも、手っ取り早く俺のスマホに住所を送った。
どんな言い訳も、奈名が茉緒をひどく傷づけた理由にはなれない。
だけど、俺も信じたい。
あの日、「ただいま」を言い出せた奈名を。
俺のことを、大事な人と思ってくれた奈名を。
雪の夜に、茉緒と親友になった奈名を。
黄昏の道に、俺に何かを伝えようとした奈名を。
それらが嘘じゃないと、俺は信じたい。
俺は足を踏み出した同時に、俺は自分に言い聞かせるように言葉を放つ。
「ちょっと悪い夢を見ているお姫様を、起こしてきます!」
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