心の欠片 3
誰にも近づけない、こんなあたしには、そんな資格がないから。
あの日から、ずっとこうして過ごして来た。
小学生から中学生に変わっても、私服からセーラー服に変わっても、ランドセルから通学カバンに変わっても、あたしが犯した罪は変わらない。中学の入学式で、顔すら思い出せない校長先生の冗長交じりの挨拶を聞きながら、あたしはそう思った。
周囲に漂う、新たな環境への不安と新しい出会いを期待する高揚感の中に、いつも俯いているあたしだけがずれていた。
そんなあたしだから、入学早々、クラスで浮いていた。
それも当然だ。不愛想でおしゃれもしないあたしは、ただ好かれない陰キャラだった。
最初は、声を掛けて来るはまだ何人もいたけど、あたしは馴れ馴れしくなるつもりがないと分かったら、彼も彼女も、次々とあたしを離れた。残ったのはたった一人。
「ね、宮坂さん、一緒にお昼飯しよう」
満面の笑みで、「彼女」はあたしを誘った。男女にも好かれて、親切で可愛くて、クラスの中心となる存在。そんな彼女は、あたしに近づく必要がなかったはずだ。
「最近は自分で弁当を作るようになったんだけど、食べてみない?」
なのに、彼女はいつもこうやって、あたしの前に現れる。
「……いい」
「そっか、残念だね……今度は一緒に食べよう!」
「いや、あたしは……」
「茉緒、何してんの?昼休みが終わっちゃうよ?」
「茉緒の弁当は自分で作ったって?食べたい〜」
同じクラスで中心グループにいる女子たちは、テンション高そうに彼女を呼んでいる。
中学に入ったばかりの学生にとって、親に頼らず、自力で作ったお弁当はとても見甲斐があるらしい。
「うん、すぐ行く」
呼びかけに応じて、彼女は立ち上がる。離れる前に、笑いながらあたしに手を小さく振った。
「約束だよ!」
その言葉を残して、彼女は友達のとこへ行った。
断りチャンスを逃したあたしは、ただ何もない机の上を見つめていた。
「……」
「今日も奈名の分作ったよ!」
今日も相変わらず、彼女は満面の笑みで話しかけて来る。
しかも、いつの間にかあたしのことを名前で呼ぶようになった。
最近の彼女は、あたしを彼女の友達と一緒にお昼することに誘わなくなった。その代わりに、彼女は時々こうやって弁当を持って、当たり前のように自分の机をあたしのと併せて、向かいに座るようになった。それに勝手に弁当を作ってくれている。
「ねえ聞いて、今回豚カツを作ってみたの。揚げた時は『ちぱっ、ちぱっ』と怖かったけど、上手く出来たよ!だから奈名も食べて——」
「いい」
「……そうか、やっぱり食べてくれないね」
当然、あたしは一度も食べなかった。一緒にお昼をするのを黙認したところで、あたしは彼女とこれ以上関わるつもりがない。
それでも、彼女はまた弁当を持ってあたしの前に現れる。
正直、困る。
「奈名も食べてくれればいいのに……」
特にこういう勝手に落ち込むところ。
「……どうしていつもあたしのとこに来るの?」
「奈名はわたしと一緒じゃ嫌なの?」
「……そういう問題じゃない」
あたしは彼女の視線を躱して、食べかけのクリームパンを見つめる。
「あたしみたいな陰キャラを、クラス中心のあんたが構う必要ないでしょ」
そう、彼女は最初から、あたしに関わる必要も、関わるべきでもなかった。
「むしろあたしと一緒にいると、あんたの人気にも悪い影響が出るかもよ。だから——」
「そんなこと関係ないよ」
「え?」
一瞬、怒るような感情が、彼女の顔に浮かんだ。でもそれがすぐに温かい微笑みに変わった。
「奈名が陰キャラとか、わたしがクラスの中心とか、そんなこと関係ないよ」
そんな優しい微笑みを、あたしは逸らすことが出来なかった。逸らすことが許されない気がした。
「わたしは奈名と友達になりたい、だから奈名に会いに来た、それだけよ」
「……そう」
あたしにとって、彼女は眩しすぎる。
でも、彼女がみんなに好かれている理由が、少し分かったかも。
「うん、だから、明日もお弁当を作って、奈名とお昼するよ」
「……」
やっぱり、困る。
こういう素直過ぎるところも。
そして、あの日が来た。
「奈名、おにぎり作ったの、一緒に食べよう」
「……」
「そうだ、せっかくのクリスマスイブ、良かったら夜は一緒に——」
「ごめん」
顔を見ることもなく、あたしは立ち上がって、教室を後にした。後ろにいた彼女は慌てて何かを言っているみたいだけど、あたしの耳には入らなかった。少し後ろめたい気持ちはあるけど、とても返事が出来る気分じゃないのだ。クリスマスイブだから。
あたしが、お母さんを死なせた日。思い出しているだけで、全身がチクチクと痛くなる。
不快な寒気が指先まで伝わり、吐き気が耐え難い。我慢しないと、胃袋の中にある消化物はいつでも出てきそうだ。
これはきっと、あたしが受けるべき罰でしょ。だけど、どれだけ苛まれても、あたしがしたことはやり直せない。罪悪感の渦に巻き溺れて、あたしはただただ時間が過ぎるのを待っている、いつの間にか太陽が月に変わって、夜がやって来る。
そのまま教室に戻らずに学校を出たあたしは縷紅草まで歩いて、やっと見つけたバイトさきからもらったお給料をポストに入れた。
みんなは何をしているのかな?成恵おばさんたちは、今日も来るのかな?疑問はいくつも頭をよぎったけど、それらのすべて意味がない。
あたしは、あそこに戻れないのだから。
家に帰る気にもなれなく、どこへ行くのかも分からないあたしは、目的地もなく街中を彷徨った。
街行く人たちも気障に見えて、あたしは人の少ない方へ向かった。
そして、あの場所にたどり着いた。
平たいとは言えない石の階段を踏んで、並んでいる何列の石碑の中に、あたしは足を止めた。
きっと、誰もが楽しく祝うクリスマスイブに、こんなところに来る人はいないでしょ。
「ママ……」
だから、心の思いは口からこぼれた。
きっと、灯りが彩る街では、幸せな笑顔が溢れているでしょ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
だから、痛いほど鮮明に思い浮かぶ……お母さんとの最後の会話。
「……奈名もね」
光ちゃんを宥めたあと、少しだけ厳しい顔をして、お母さんはあたしを見る。
「こっそり外に出てきたら、みんなに心配かけるでしょ……コン!コン!」
「ママ!」
激しい咳で、お母さんが苦しそうに眉間でしわを寄せて、地面の暗赤色も広がっていく。
「ごめんなさい、ごめんなさい!もうしないから、だからもう喋らないで!このままじゃ、ママは……」
あたしは焦って叫び、涙も目元から溢れ出る。今、握っているお母さんの手が段々と冷たくなっていく。だからお願い、もうこれ以上話をしないで。
「……それはちょっと出来ないね」
顔を緩めたお母さんは、ゆっくりと左手を伸ばして、あたしの顔から涙を拭き取る。
「もう……最後かもしれないから」
「え……?」
一瞬、あたしはお母さんの話が理解出来なかった。理解するのを、頭が拒絶した。
「どうして……そんなこと言うの?」
「ごめんね、ずっとそばにいたかったのに」
「そんなこと言わないで!ママはきっと大丈夫だから、だから——」
「ごめんね」
「……!」
「……一緒にしたいことは、まだいっぱいあるけどね」
あたしの不安を消そうとしているように、お母さんは浅く微笑む。
本当は、もうこれ以上言わせたくない。
失いたくない、離れたくない。
だけど、優しくあたしの頬に触れているその手が、血の気を失うほど蒼白で冷たいのに、とても温かい。だから、お母さんを止めることが出来なかった。
「甘い物が好きな奈名に、いっぱいケーキを作ってあげたかった……もっと奈名を縷紅草に連れて行きたかった……成恵の劇団の芝居を、いつか三人で見に行きたかったな……」
聞きたくない。知りたくない。
やりたいことを語っているお母さんが、遠ざかっていくようで、あたしはそれが怖い。
「成恵も悲しむよね……笑った方が可愛いのに、でも泣き虫だから、きっと泣いちゃうよね……院長にも、嫌な思いをさせちゃうね……」
やめて、もう言わないで。
お母さんの一字一句を聞くたびに、あたしは窒息しそうに息が出来なくなる。
「お父さんにも、ごめんって言わないとね……せっかく愛してくれて、夫婦になってくれて、奈名まで産んだのに……私は、彼と最後まで歩んで行けなくて……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、あたしのせいで、みんなが、ママが……!」
泣いて謝る以外、あたしは何も出来なかった。
だけど、お母さんは首を横に振って、優しくあたしを見つめる。
「……奈名はね、私の宝物だよ、この世界にたった一人、一番大事な娘だよ……だから、守れて良かった。本当に、良かった」
きっと、これ以上優しい言葉が、この世にはないでしょ。
だから、より深刻に、このナイフに刺されたような痛みがあたしの心に刻んだ。
「でも、少し悔しいな……可愛い娘の制服姿を見るのが、私の一つの夢だったんだけどね。期待……してたけど……コン!コン!」
「!」
呼吸が乱れているお母さんは、より弱く見えて、手もあたしの頬から滑り落ちる。
あたしでも分かるぐらい、もう手の施しようがない状態だ。
「もう時間がないみたい……なんか寒いね……」
「い、嫌……!」
「ちょっとお父さんが心配ね……寂しがり屋だから、私がいないからバカなことでもしようとしたら、お母さんの代わりに一発殴ってやってね、ふふっ」
パンチのジェスチャーでもするつもりお母さんだったが、その拳を握った手は、すでに振るう力すら失った。
「……!」
気付いたら、お母さんの頬から涙が滑り落ちる。
初めて、お母さんはあたしの前で泣いた。
「ごめんね……本当は、まだいっぱい、いっぱい話したいの……本当は、離れたくないの……」
「ママ……」
「ね、奈名……お母さんがいなくても、笑顔で生きてね……辛い時はあるかも、悲しい時もあるかも……でも、強くなって、乗り越えてね……大丈夫、奈名なら、きっと大丈夫よ……愛してるよ、奈名」
その言葉を残して、お母さんは目を閉じた。
最後の最後まで、お母さんはあたしのために笑顔を見せた。
遠くから救急車のサイレンが鳴り響き、院長たちの声も耳に届く。
だけど、全てはもう間に合わないと分かっているあたしは、ただ光ちゃんとその場座り、サイレンの灯りが夜の街を照らすまで待っていた。
「ごめんなさい、ごめんなさい……あたしのせいだ……」
事故だって、分かっている。それでも、あたしは自分を許せない。
足の力が抜けて、あたしは冷たい地面に跪いた。
冷たさは両手の温度を失うまで拡散した。
ごめんなさい、笑顔を出せなくて、強くもなれない。
お母さんとの約束を、あたしは一つも成し遂げられなかった。
涙がこぼれて、苦しみは虚しい叫びになって喚き散る。
すべてを忘れたくて、あたしは大泣きした。
どれぐらいの時間が経ったでしょう?声を出せなくなったのが先か?涙が出て来ないのが先か?そんなことも分からず、あたしは冷静を取り戻した。もしくは、取り乱す気力を使い果たしてしまったのか。
再び立ち上がった時、あたしは誓った。
もう二度と泣かない。強くなるために。
家に帰ろう。そこはまだ家と言えるかどうかが分からないけど。
そう思って階段を降りている途中、あたしは入口の前に立ち止まった。
「あんた……!」
「彼女」がそこにいる。
あたしに気づいて、彼女は一瞬嬉しそうな顔をしたが、すぐに気を遣っているように笑顔を収めて、おどおどとあたしの様子を伺う。
その反応……
「見た?」
「いいえ、入ってないけど、奈名の声は中から……」
「……そう」
見られたくない場面だったけど、仕方がないことだ。
これ以上事情を知られないように、あたしは振り向いて帰ろうとする。
「ま、待って!」
「……」
どこか必死な声で、あたしは思わず足を止めた。
優しい人だから、今もきっとあたしを心配しているでしょう。
だけど、この優しさに甘えるわけにはいかない。
「もうあたしと関わらないで」
だから、あたしは胸の奥から伝って来る痛みを無視した。
「誰かと仲良くするつもりはない、友達を作るつもりもない、だから——」
「そうじゃないよ」
「えっ?」
予想の斜め上の返答に、あたしは踵を返した。
彼女は両手で通学カバンを手で通学カバンのストラップを掴め、手を挙げてストラップを頭の上に越させて、一つのカバンを下した。
「あ……」
動揺して気付かなかったけど、さっきまで、彼女は二つのカバンを担いでいた。一つは無論彼女自身の所有物だが、もう一つは……
「奈名ずっと教室に戻って来なかったし、わたしも奈名の連絡先知らないし、明日から休みだから、先生に電話で聞いて返そう思ったけど、ちょうど街で奈名を見かけたから……」
「……ありがとう」
どれだけお人よしなのよ……呆れてカバンを取り戻そうとしたけど、失敗した。トラップの向こう側、彼女はカバンを持つの手を離してくれていない。二人が綱引きをしている状態になった。
「どういうつもり?」
「……わたしは怒ってるの」
そう言っている彼女は、責めるような視線をあたしに刺す。
力を使っているからでしょう。彼女の頬はリンゴのように赤くなった。どうやら、本当に怒っているようだ。
「奈名の様子がおかしいから、ずっと心配してたんだよ?何も言ってくれなくて、行っちゃっうし、私は夜になるまで教室で待ってたよ!クリスマスイブのことも返事して来ないし……ようやく奈名を見つけたら、もう関わるななんて……」
怒っているその目に、悲しみの情緒が織り交ぜている。
「……私だって、傷つくよ?」
「それは……」
あんたが勝手にしたことでしょと、反論したかったけど、雪で赤く凍えた鼻先や耳、それとその今でも震えている指を見たら、罪悪感がこみ上げる。
「むぅ……ごめん」
結局、あたしは諦めて謝った。
すると、彼女はすぐにいつもの笑顔に戻った。
「うん、じゃ許す」
「……」
本当に困る、こんな優しすぎるところも。
その笑顔を見て、あたしは何故か少し楽になった。すると、重い一日の反動のように、強い飢えが襲い掛かった。
そう言えば、今日はまだ何も食べなかった。
「ね、奈名」
あたしの心を見抜いたように、彼女は微笑む。
「時間も場所も変だけど、私が作ったお弁当を食べる?」
「……うん」
少し躊躇って、あたしは大人しく頷いた。確かに、今日もあたしの分を作ったと言った。
石の階段に座り、隣の石垣が雪と風を遮ってくれたけど、低すぎる気温の中、あたしたちは寄り添った。
それでも寒い。だけど、今はこの方が安心だ。
カバンからお弁当を出した彼女は、その一つを渡してきた。そして、もう一つの弁当箱を自分の膝の上に置く。
「実は、私もまだ食べてないの」
「え、どうして?」
「だって、一緒に食べた方が美味しいでしょう」
「……なにそれ」
呆気に取られて言いながらも、あたしの口元が自然に上がったた。弁当箱に、二つのおにぎりが置いてある。綺麗に作った三角形の上に、海苔で可愛い顔文字が張られた。
あたしたちは同時におにぎりを手に取って、一口を噛む。
「あはは……もう美味しくなくなっちゃったね」
「うん……」
彼女は気まずそうに笑って、あたしもフォローして頷いた。長い時間を放置されたご飯は、この真冬の中でとっくに硬くて冷たくなった。そのせいで、お世辞でも美味しいとは言えない。
「でも、美味しい……」
あたしの感想を聞いて、彼女は二回瞬きをしたら、おかしそうに笑い出して、おにぎりを食べ続けた。あっという間に、二人の弁当箱は元の重さを失った。
最後の一口を喉に飲み込んで、あたしは問いかける。
「……何かあったか、聞かないの?」
「奈名は聞かれたいの?」
「……」
「なら、私は聞かないよ」
首を横に振って、彼女はあたしを真っ直ぐ見る。
「言ったら奈名が苦しくなることなら、無理に言わなくていいよ。でも、いつか言えるようになったら、私に教えて欲しいな」
本当に優しい人ね。彼女の笑みを見て、あたしは感謝の気持ちを伝える。
「ありがとう、茉緒」
「……!」
彼女は目を丸くした。ずっと彼女のことを名前で呼ばなかった、例え心の中でも。
だって、彼女の名前を心に留めたら、あたしはきっと、彼女と友達になりたくなる。
あたしにはそんな資格がない。
「それと……」
だけど、隣に座っている彼女は、きっと特別だ。
あたしは自分に言い訳をつけた。どうしても、彼女が自分の傍にいて欲しいから。
クラスの中心にいるのに、友達と過ごす楽しいクリスマスイブより、あたしみたいな人と寒い中でおにぎりを食べることを選んだ彼女。
彼女といると、あたしは少し自分を許すことができる気がする。
だから、きっと茉緒は特別だ。
「もし良かったら、あたしと……友達になってくれる?」
顔が熱くて、体温も少し上がった気がする。でも、確実に言えた。
茉緒の顔に映る驚きは、燦爛な笑顔に変わる。
たぶんあたしは、心のどこかがこの笑顔に救われた。
「……うん!」
「だけどあたしは、今でも茉緒に自分の過去を言えてなかった」
「え?何で?」
良い話だなと思いきや、奈名は少し殺風景な話を告白した。
「あの時、中々言い出せなくて。その後も色々あって……だから、言いそびれたままで……」
結局、俺は茉緒より先に知ったのか。何だか申し訳ない気がする。
でも、二人は仲がいいから、大丈夫だろう。
ところで、あの時俺とすれ違ったのは多分茉緒だな。
会話が一区切りついた俺たちは最後の曲がりを右折したら、300メートルほどの前方に、コンビニの看板が光っている。そこが俺たちが分かれる場所だ。
沈んでいる夕陽が放つ淡い黄色の灯りを眺めて、俺はさっきの話題を接続する。
「だから『茉緒は特別』か……」
「……最初は、ただ誰かが傍にいて欲しいから、茉緒は特別だと、自分に言い聞かせてたかも。でも、今は違う、今の茉緒は、きっと正真正銘、あたしにとっての特別だ」
奈名は何故か拳を握りしめて、後悔しているように、悲しい表情が浮かぶ。
「茉緒は私にいっぱいしてくれて、いっぱい助けてくれたのに、あたしは……」
「奈名……」
コンビニの前で、奈名が立ち止まった。何かを覚悟したように、奈名は強く切り出す。
「茉緒は、特別だ。だから、この特別を失わないために、あたしは、全てに向き合わないといけない」
その声から、奈名の必死さが伝わってくる。
「あたしは、成良に言わなきゃいけないことある」
準備のように呼吸を整えている奈名を見て、俺も顔を締め付ける。
「あたしは、茉緒を——」
「奈名?」
唐突、会話に挟んだのは、疲弊が混じるが穏やかな声。
コンビニの自動ドアから出て来た男は古びたスーツを着ていて、その細い体がこけている。
「お父さん……!」
その言葉に反応した奈名は男の身分を答えてくれた。この人が奈名のお父さんらしい。
「今日は会社で残業した。その帰りにちょっと買い物。奈名も今帰るところ?」
「あ、うん」
俺は彼の手に持っているコンビニ袋に気づいた。見ると、数本のビールやおつまみの食べ物が入っている。完全に週末の夜を楽しもうとするサラリーマン模様。
俺は彼に気付いたように、奈名のお父さんも同じく俺に気付く。
「君は……?」
「は、初めまして、奈名のクラスメイトの佐上成良と言います」
「そっか、僕は宮坂(みやさか)名月(なつき)、名月で呼んで」
「え?でも……いいんですか?」
さすがに戸惑っている。普通、相当に仲が良いのではなければ、クラスメイトの父親を名前で呼ばないのだ。
だが、俺の困惑に、彼は肯定の頷きをした。
「では、名月さん、よろしくお願いします」
「成良くんは、わざわざ奈名を送ってくれたのか?」
「あ、はい、まぁ…….」
正しい表現は、「勝手について来た」だけど……
「そっか、ありがとうな」
「い、いえ、大したことじゃないんです」
どうやら、あまり言動を捉えないが、親切なおっさんみたいだ。
「じゃ、僕たちもそろそろ帰る。奈名、行こう」
「うん……」
何故か陰鬱そうに、奈名は名月についていく。
そういや、さっき、何か大事な話を話そうとした。
「あ、奈名、さっきの話……」
「ごめん、また明日話す」
「お、おう……じゃ、また明日」
「うん」
緩やかな坂の上に、奈名は夕陽を背に俺に淡く微笑む。
その姿どこか儚くて、やがて小さくなっていく。
気にしながらも、俺は二人の背中を見送ることにした。親子の時間を邪魔しても悪いしな。
「……帰ろうか」
と、虚しく独り言をこぼして、俺は家に向かって踵を返した。
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