彼と彼女 2
一階に到着したエレベーターの数メートル先には、外に繋がるガラスの自動ドアがある。
二人を感知したセンサーがドアを開けた瞬間、冷たい風が襲い掛かってくる。
前足を外に踏み出したばかりの茉緒は、すでに暖房が効いている室内を懐かしく思った。
「……帰ろうか?」
「外で食べようって言ったのは豊原くんでしょう……」
隣の京陽も寒さに耐え難いみたいに、諦めたい意志を示した。
呆れた気持ちはあるが、茉緒は京陽のそのマイペースの性格にもう免疫ができている。
「やっぱりみんなで食べよう?私が買って来るから、豊原くんは先に奈名たちのとこに戻っていいよ」
半分は優しさ、半分は一人でいたい気持ちで、茉緒はそう提案した。
「……やっぱいい」
「え?あ……」
心で結論を出したようで、京陽はそのまま前へ進む。
振り回されたことであまりいい気味ではない茉緒だが、それでも足取りを早めて京陽と並べて歩く。
「ところで、練習の調子はどうだったの?」
「まぁ、三々入りは覚えた」
「それはすごい……って、囲碁の話をしてないよ!」
どうやらまだ変な状態から回復していない京陽の様子を見て、茉緒はため息をついた。
「ため息したら、幸せが逃げちゃうよ?」とか、さっき自分で言ったばかりなのに……
「はあ……午後の練習はしっかりしてね?私も人のことあまり言えないけど」
「……サボりたい」
「もう……魔法の鏡は顔を出す必要ないから、そんなに大変じゃないでしょう?」
「だが喋る」
「……じゃあ豊原くんどの役がいいの?」
「木」
「……それは無理だと思うよ」
「残念だな」
「でも、いいじゃない、真実を伝える魔法の鏡」
茉緒はまぶたを少し垂らして、歩道に転がる小石がやけに遠く見える。
「私も知りたいな……何が真実なのか、何が偽りなのか」
「……」
台本に書かれてあったセリフを思い出して、茉緒は練習通り声を上げる。
「鏡よ鏡」
「私世界を変えたいの♫」
「それ歌詞でしょう……」
せっかく恥ずかしさを堪えて構えたのに、横槍を入れられた茉緒は少し萎えた。
改めて気合を入れて、茉緒は薄く赤まった顔で切り出す。
「鏡よ鏡、美味しいラーメン屋はどこにある?」
「もう着いたよ」
「え?ここ公園だよ?」
京陽が足を止めたのは、徒歩で十分ほど、地理から見ればちょうど縷紅草と駅の間に位置する公園だ。
周りはラーメン屋どころか、飲食店一軒すら見えない。完全なる住宅区だ。
「ラーメンを食べに行くって言ってない」
「え?じゃ何食べるの?」
「弁当、二つあるだろう?」
「え……?え⁉ど、どうして……?」
はっとした茉緒は目をむいた。一方、京陽は茉緒から目を逸らす。
「……リュックを開けた時見た」
「そうなんだ……」
京陽が隣に座っていたところを思い出して、茉緒はバレた理由を納得した。
「盗み見は褒めることじゃないね」
「……悪い」
「……」
京陽が素直に謝ったことに、茉緒はまた少し驚いた。
ずるいよ……こんな不意打ちの優しさ。
そう思って茉緒は悪あがきを諦め、リュックを降ろしてチャックを開いた。
開け口から、ピンク色の弁当包みが現れた。
そう、茉緒は弁当を家に忘れたわけではない。いつもより早起きして、栄養のバランスを考慮しながら、奈名の好みを合わせて作った二つの弁当は、ちゃんとリュックの中にしまってある。
しかし、このサプライズ弁当を渡す前に、成良に先越された。
だから、渡さないまま、茉緒は弁当を忘れたと口実を作った。それで、傷ついて一人になりたい茉緒は、自分が昼飯を買って来ると提案した。
だが、その全てを、目の前の男の子に見透かされていた。
ものすごい物ぐさなのに、外で食べるなんて言って、茉緒の提案も受け入れずに自分を公園まで導いて来た。
茉緒の努力が無駄にならないように。
鏡よ鏡、あなたの優しさは真実なの?真実だと、信じていいの?
少なくとも、茉緒は真実だと信じたい。今まで、奈名を信じていたように。
茉緒は心の中のもやもやをおい払って、笑顔で弁当箱を一つ出して渡す。
「良かったら、一緒にお弁当を食べましょう」
思ったより小っちゃいな……公園のベンチに並んで座り、自分の肩までの高さしかない茉緒を見て、京陽はそう思った。
伸びた髪はふわふわして柔らかそうで、京陽は一瞬触りたくなったが、その衝動を抑えた。
「ん?私の髪に何か付いてるの?」
「……いや」
茉緒に気づかれて、京陽は悪いことをしたような気がして、目線を手元のお弁当に移した。一目で分かるぐらい、心を込めた弁当。彩りのお弁当に、肉と野菜は五分五分。綺麗に焼いた玉子焼き、タコの形に切られたウインナー…… 京陽は料理が出来ないが、普段成良の弁当を見ている限り、こんな手間がかかりそうなものはなかった。
こんな上出来なお弁当なのに、、その存在すら、届くべき相手に知られなかった。
何故か少しイライラした京陽は、この気持ちを払うように箸を動かして何口も食べた。
「ど、どう?」
期待を含んだ目で、茉緒は問いかけた。
「もっと肉があれば良かった」
「……やっぱ豊原くんは豊原くんだね」
「……」
茉緒が不機嫌そうに口を尖らせた。その不満の理由が分からないので、京陽は無言のままでお弁当を食べ続ける。
しばらく、静かな公園に咀嚼の音しか立たなかった。
「……佐上くんも奈名に弁当を作ったなんて、さすがに思わなかったね」
「小野里も渡せばいいじゃない?」
「佐上くんのお弁当があったのに、それじゃ奈名を困らせるだけよ」
「そうか?ただで弁当二つ食べれば僕は嬉しいけど」
「それ豊原くんだけだから……」
京陽の主張に、茉緒は無力な笑いをこぼした。
「最近の奈名は……変わったね」
「そうか?」
「うん、前のその、他人に近づけさせないみたいな雰囲気は、最近全然感じなくなった。それはきっと……佐上くんのおかげだね」
「……かもな」
「佐上くんはすごいね。付き合ってる時間だけみたら、私の方がずっと長いのに、私が知らない奈名のことをたくさん知ってる。私は奈名と友達になるまですごく時間かかったのに、彼はこんな短い間で、奈名に演劇を参加するって説得して、いつの間にか、下の名前で呼び合い始めてるし」
下を向いて話した茉緒の表情を、京陽は知ることが出来ない。
「最近はいつも、もしかして奈名はもう私なんて要らないじゃないかなって、つい思ってしまうよね……」
「……」
「ご、ごめんね、変な空気になっちゃって……何でかな?豊原くんと一緒にいると、いつも変な事言っちゃうよね、ははっ……」
茉緒が笑顔でごまかそうとしても、弁当箱を掴んでいる指の震えを、京陽は見逃さなかった。
京陽は半分ほど残ってある弁当を、猛烈な勢いで口に運んだ。
「ちょっと⁉豊原くん何を……?」
口いっぱいに詰め込み、何度も咀嚼し、今度は一気に飲み込もうとして、結局喉に入り切れなくて噎せた。
「だ、大丈夫⁉」
茉緒が慌ててリュックからマグボトルを取り出して、温かい麦茶をコップに淹れて京陽に渡す。
液体で喉にある障害物を流し込んだら、京陽はようやくピンチが解除した。
「もう……何でそんなに一気に食べるの?」
「……弁当、うまかった」
「え?」
「僕は金……宮坂なら、こんなうまい弁当を作ってくれる友達がいて、きっと喜ぶよ」
最近の京陽は、知り合いの名前を、ちょっとだけ頑張って覚えた。
「だから、もっと自信を持ってもいいと思う」
「……」
京陽の言葉に、茉緒は驚喜そうに目をパッと開いて、日のような温かい笑みを照らす。
「豊原くん、ありがとう」
「……行こう」
「うん、そろそろ帰らないとね」
「違う」
「え?」
「やっぱラーメン食べたい」
「え、ええ⁉今お弁当を食べたばかりでしょう?」
「まだ食べれる」
「私はもうお腹いっぱいだよ!」
「この辺り、行きつけの店がある」
「だ、だから私は……いやああああ〜」
茉緒の悲鳴は、静かな住宅区に鳴り響いた。
そのあと、食べ過ぎておなかの調子を崩した茉緒は、午後の練習が終わるまで、一言も京陽に言ってくれなかった。
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