心の欠片 2

 再び縷紅草に着いた時、夕陽はすっかり西へと沈み込んで、乳白色の街灯だけが道を照らしている。

「大丈夫か、奈名?」

 あたしはまた硬い表情をしているのでしょうか、傍にいる成良が心配そうに聞いてくる。

「大丈夫、今度はきっと……」

 いつもあたしを付き纏って、たまにキモイことを言うけど、彼は確かにあたしを助けて、あたしにここに戻る勇気をくれた。

 だから、今度はちゃんと向き合う。

 成良への感激を胸にしまい、あたしはノブを掴んでドアを押し開ける。

「「「「「お帰り‼」」」」」

 クラッカーの少し滑稽な音に伴って、あたしと成良は盛大な歓迎に浴びた。

「え⁉」

「うわっ⁉」

 待ち伏せしてたように迎えに来るのは、院長と施設のみんな、朝は見なかったボランティアのおじさんとおばさんたち。中には、あたしは見覚えのある人も、ない人もいる。

 それと……

「あれ?母さん、オヤジ、何でここに?」

「院長が電話でパーティーをやると言ったから、パパと来たよ〜」

「よう、久しぶりだな、奈名。おじさんと対局しないか?」

「いきなり囲碁対局させんなよ、オヤジ!」

 ……成良のご両親、つまり、成恵おばさんもいる。

「……」

「奈っちゃん、お腹すいた?院長が奈っちゃんが縷紅草に帰ったお祝いをするって、料理をいっぱい作ったよ!」

「成恵、何余計なこと言っとる! ……こらあ!ガキ共、つまみ食いしとるんじゃない!」

 広いホールの中に、美味しそうな料理に埋め尽くされた長いダイニングテーブルが二つ置かれてある。香りが漂って、鼻腔を刺激している。

 一緒にお帰りのコールをしていた子供たちはすでに我慢できずに食べ始めて、ボランティアのおじさんとおばさんたちは忙しく彼らの面倒を見ている。

「そういや、ジジイって料理の達人だな」

 成良が感服するように言って、あたしも昔院長の料理を食べた記憶があるけど、今はその記憶を甘く回想するゆとりがない。

 どうして……

「外で一日ふらついて、少し頭冷やしたじゃろ?だったらバカなこと言っとるんじゃなく、さっさと入って飯を食うのじゃ」

 院長までも、愛想のない口調で、温かい言葉を送ってくれている。でも、どうして……

「どうして……」

 胸が絞め付けられたように苦しくて痛い。その痛みを移転したくて、あたしは痛くなるほど、爪痕が手のひらに食い込むまで拳を強く握る。

「あたしのせいで、みんなの和奈おばさんが……成恵おばさんの親友が……院長が育てた娘が……あたしのせいで、お母さんが死んだよ!こんなあたしは、帰る資格がないのに……なのにどうして……!」

 どうして、みんながこんなに優しくしてくれているの?

 もう、ダメだ。

 向き合えない、向き合う顔がない。あたしはここの誰とも、向き合う資格がない。

 逃げたい、一刻も早くここを出たい。

 視野の前方は、傷跡だらけの古い床。そうか、あたしはまた下を向いている。

 こんなに、助けてもらったのに。こんなに、優しくしてもらったのに。

 結局、あたしは……何も……

「!」

 呆気にとられたのは、急に柔らかさに包まれたから。

 遅れて、あたしは成恵おばさんに抱きしめられたと理解した。

「ずっと、そんなこと考えてるね、奈っちゃん」

 言葉を掛けてきたその声は、とても優しい。

「ごめんね、一人に背負わせて」

「……どうして、こんなに優しくしてくれるの?どうして……恨まないの?」

「和ちゃんは私の大事で、かけがえのない親友だったよ。だから、和ちゃんを失ったことに、すごく悲しかった。今でも、たまには和ちゃんのことを思い出だすと、一人で泣く。それでも、いいえ、だからこそ……」

 あたしが逃げるのが怖いみたいに、成恵おばさんはより強く抱き付いた。

 痛みを感じるほどの力だけど、不思議に、胸の痛みは緩まった気がする。

 成恵おばさんの目から、涙が滲み出る。

「あの和ちゃんが命をかけても守りたかった奈っちゃんを、私は恨むわけないでしょう?」

「……!」

「なんも分かっちゃいねえな、お前さん」

 成恵おばさんの言葉を続いて、院長の少し嗄れた声も響く。

「贖罪なんかいらん。お前さんに罪があると思うヤツは、一人もおらん」

「でもあたしは……院長の……」

「確かに、和奈も成恵も、ワシにとって娘みたいな、大事な家族だ。じゃが、奈名、お前さんも同じじゃ」

「……」

「何があったとしても、お前さんはワシらの家族、ここもいつまでもお前さんの家じゃ。子供が家に帰るのに、資格なんていらんじゃろ?」

 どうして、みんなはこんなに優しいの?

 こんなに優しくされたら、あたし、自分を許しっちゃうよ。

 許されちゃいけないことを、たくさんしたのに。

「これは俺の肉だ!」

「先に取ったのは俺だよ!」

 ダイニングテーブルの方からの騒ぎに、会話が中断された。子供二人が食べ物の所有権について争っているらしい。二人共、あたしは見覚えがない、小さい子供だ。

「全く、あの子たち……」

 困った顔をして、成恵おばさんがあたしから離れて、仲裁しに行こうとする。

 院長もあの子たちを𠮟ろうとする。

「こらあ!ガキ共——」

「や、やめろ!」

 院長の声が届く前に、先に二人を止めたのは、あたしも知っている、ある男の子の言葉。

「光ちゃん……!」

 あたしを忘れて、お母さんを忘れて、4年前のあの事故もすっかり忘れた光ちゃん。

 あたしは、今でも光ちゃんとどう接していいか分からない。

 すべてを忘れた方が、光ちゃんにとっては幸せかもしれない。

 だけど、本当にそれでいいの?

 怖い思いから逃げ出したのと同時に、面倒を見てもらったことや、最後はあたしたちのために命を失ったお母さんのことさえも忘れている。

 もし光ちゃんが何もかも忘れたのなら、お母さんは一体何のために……

「だって、あいつが……」

「あいつが先に……」

 年長組の責任感でしょうか。光ちゃんは二人の言い争いを止めようとしている。

「家族だから、こんなことでケンカしちゃダメ」

 だけど、それは激しい情緒の最中にある二人には、逆効果になる言葉だ。

「俺はこいつの家族じゃない!」

「こっちのセリフだ!俺だって——」

「そんなこと言っちゃダメ!」

 それは、この場にいる誰も想像できなかった、光ちゃんの叫び声だった。

「僕たちは家族だ。ほかの子と違って、パパママと一緒に暮らせない。でも、僕たちは一人じゃない。みんなが一緒に家事をして、一緒に遊んで、困ってる時は助け合う。縷紅草で生活してるみんなは、本当の家族よりも家族になる!」

「……!」

 そう宣言した光ちゃんは周りの視線を気付き、恥ずかしそうに顔が真っ赤になった。

「だ、だから、家族じゃないなんて……言っちゃダメだ」

「「お、おおう……!」」

 少し詰めが甘かったけど、子供たちの心を掴むにはもう十分だ。

「カッコイイ……」

「大人みたい……」

「えっと……うわっ!」

 憧れの眼差しを浴びている光ちゃんの背中に、一人小柄の女の子が飛びついた

「弥っちゃん、急に飛びつかないでよ」

「ごめん、ごめん、だって光ちゃんカッコ良かったもん」

 反省していない顔で謝る弥っちゃんは、幼児の時で縷紅草に送られてきた。

 長い間会わなかったけど、その楽観的な性格は変わっていないらしい。

「光ちゃんはすごいよ!」

「いや……実はあれは別の誰かから聞いた言葉だった」

「え?誰から?」

「それが……よく覚えてないけど、何だかすごく大切なことで、、絶対に忘れちゃダメな言葉だったと思う」

 困惑そうに、光ちゃんは首を傾げた。

 あたしは知っている。あの言葉、あの言葉は……



「お母……さん……?」

 あの夜、倒れたお母さんを見て、あたしは茫然となった。

 あたしを現実に引き戻したのは、地面に拡散した暗赤色の液体。

「ママ!」

 厳重な事態だと理解したあたしはお母さんの傍に駆け付けた。

「ママ!大丈夫?」

「奈名……」

 かすれ声は意識があることを伝えた。

 しかし、大丈夫じゃないと、地面にある血だまりと生彩が消えつつあるその瞳が訴えた。

 どうしたらいいの?救急車を呼ぶ?院長に助けを求める?

 何かできることがあったかもしれない。だけど、混乱でパニックになったあたしは、何も出来なかった。

「ごめんなさい、ごめんなさい!あたしのせいで……!」

 だから、涙に覆われた視線の中に、謝るほかなかった。

「光ちゃんを苦しませたくないから……あたしは……」

「奈名……」

「僕は……僕はただパパママに会いたいよ……うあああああ……!」

 あたしを呼んだお母さんは何か言いたかったみたいけど、光ちゃんの号泣に遮られた。

 幼い光ちゃんが正しく状況を理解しているかどうか、あたしは知らない。

 だけど、自分の行動が悪い結果を招いたのは、分かっていると思う。

 だから、あたしと同じ、泣くしかなかった。

 結局、泣いていたあたしたちを宥めたのは、段々と弱くなっていくお母さんだ。

「ね、光ちゃん……」

「え……?」

「光ちゃんのパパとママは、もう迎えに来ないかもしれない。でも……それでも、光ちゃんは一人にならないよ」

 こんな最悪の状況なのに、お母さんの言葉は、いつも通り優しくて穏やかで、まるで目の前の光景が幻のようだ。

「これから、縷紅草のみんなと、光ちゃんは家族になるの。あなたたちは一緒に生活をして、一緒に笑って、一緒に泣いて、お互いを助け合って……あなたたちは、縷紅草のみんなは、本当の家族よりも家族になるのよ。そこは、そのためにある場所だ」

 蒼白になっていく顔色で、お母さんが温かく笑った。

「だから……もう家族に心配させることは、しちゃダメよ……」



「なによ……忘れて……ないじゃない……」

 大事な言葉を、ちゃんと心にしまってあるじゃない。

 堪えないと、涙が出てきそう。

「すべてを受け止めるには、まだ時間かかりそうじゃが……」

 子供たちの争いが解決したとこを見て、院長は話を続ける。

「傷が治るまで、ゆっくりしていいのじゃ。今必要なのは、たった一言」

「一言……?」

「家に帰った子供が最初に言うことは、一つしかないじゃろ」

 ……そうね。あたし許されちゃいけないことをした。

 たくさんの人を傷つけ、取り返しがつかないことにもなった。

 だけど、まだ取り返しがつけることもあるはずだ。

 許されるかどうかは分からない。許される資格があるかどうかも分からない。

 せめて今から、少しずつ取り返そう。

 みんながいるなら、彼がいるなら、きっと大丈夫。

 たとえ心にまだ葛藤があっても、たとえ胸がまだ少し痛くても。

 あたしは家族に向けて、心から、今が出来る一番の笑顔を掬い上げる。

「ただいま!」




「へえ……光ちゃんも頼もしくなったな」

 縷紅草に戻ってからあまり出番がなかった俺は、奈名が無事に院長たちと話し合えたこを嬉しく思いながら、光ちゃんの行動に少し面食らった。

 ずっと面倒見の良い子だが、さっきみたいに強烈に意見を主張するとこを、俺は初めて見た。

 理由は知らないが、それを見た奈名が、何だか紐が解けたように、素直に皆と向き合った。

「ただいま」と、少し強がりの笑顔で、奈名はやっと言えた。

 完璧な笑顔ではないかもしれないが、それでもきっと、これが今の奈名だ。

「良かったな、奈名」

「成良……」

 まだ複雑そうに笑っている奈名に、俺は声を掛けた。

「母さんから聞いた話だけど、縷紅草って名前は、花言葉で決めたらしい」

「花言葉?」

「『おせっかい』だって、縷紅草の花言葉」

「なにそれ、悪い意味じゃない」

「でも、孤児院(ここ)に似合う名前だろう」

 おせっかいではなければ、こんな面倒で稼ぎにもならないことはするはずもなかった。

 こんなおせっかいがあるからこそ、縷紅草の皆はここにいられる。

 だから、似合うと思う。

「……あんた、意外にロマンチックだね」

「惚れた?」

「キモイ」

「容赦ないな」

 適当に軽口を叩いて、俺は少々急き込んで奈名に要件を伝える。

「約束通り、演劇に参加してもらうぞ」

「……はあ、分かったよ、もう」

 大げさなため息をして、奈名は俺に呆れた視線を刺す。

「よくこのことのためにここまでしたわね」

「惚れた?」

「だからキモイって」

「成ちゃん、奈っちゃん!早く来ないと、みんなに食べられちゃうよ〜」

 お母さんの呼びかけに、俺はまだ夕飯を食べていないことを思い出した。

 気づけば、ケーキに満たされていた胃袋はすでに空っぽに戻った。

「行こうか?」

「う、うん」

 奈名の傷が治るには、まだ少し時間がかかるだろう。

 だが、きっと大丈夫だ。

 あの時、俺はそう思っていた。

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