4 ただいまを告ぐ
「すーはーすーはー……すーはー」
「……大丈夫か?」
翌日の朝、俺と奈名は縷紅草の門の前に立っている。
昨日と同じ制服の姿をしている奈名を見て、俺は彼女の不良という身分を疑いたくなった。
そんな俺の視線に気付くこともなく、奈名はさっきからただ深呼吸を繰り返している。
「へ、平気よ!すーはーすーはー」
どう見ても平気ではなさそうだ。無理もない、何せ奈名にとって、5年間一歩も踏み入れない場所だ。縷紅草に来てみんなに会ってみようと勧めたのは俺だけど、実は心配があった。
ここに入ったら、奈名は間違いなくあの子に——
「よし」
と、ようやく腹をくくったみたいに、奈名はこくりと頷いて、観音開きのドアを押し開ける。
「……」
目に入ったのは、見慣れた空間。学校の体育館を彷彿させる広い室内に、遊んでいる子供たちが何組もいる。傷跡だらけの古い床だが、丁寧に掃除されたうえ、ワックスもかけられ、ピカピカで清潔感のある心地良い所だ。伸びた床の果てに舞台がある。この舞台こそ、この施設でそれっぽくの演劇が成り立てる理由である。
元々市民センターだったらしいこのホールが、今は施設の昼間の活動空間として使われている。ホール全体に隣接するもう一つの建物は、部屋とお風呂などの設備が揃っていて、生活空間として使用されているわけだ。しばらく眺めると、奈名が懐かしそうな口調でこぼす。
「変わってないね……」
「変えたくても金がねえからな」
「成兄だ!」
「本当だ!成兄ちゃん!」
「成兄!」
まるで連鎖反応のように、一人の子供が俺たちを見つけて呼びまわったら、他の子たちもすぐに集って来て、あっという間に俺たちは囲まれた。
「お、おい、お前ら……」
「成兄、最近全然来てないじゃん」
「いろいろ忙しかったんだ」
奈名に付きまとうのに忙しかった。
「京兄ちゃんは一緒じゃないの?」
「今日は用事あるから来てんだ、あいつは呼んでねえ」
「このお姉ちゃん誰?」
「あ、このお姉ちゃんはな……」
「……奈名お姉ちゃん?」
ちょうど奈名をどう紹介するかを悩んでいる時、幼児たちより大人っぽくて、けどまだ子供の範疇から離れていない女の子が奈名に声をかけた。呼ばれた奈名が驚きを隠せず。
「……弥(や)っちゃん⁉」
「やっぱり奈名お姉ちゃんだ!久しぶり!」
テンション高く挨拶する弥っちゃんは、かわいいツインテールをしている元気な少女。
年は確か……四年生ぐらいかな?まだまだ子供だけど、孤児院という特殊なコンストラクションの中では、すでに他人の面倒を見ているお姉ちゃんだ。
そんな弥っちゃんの言葉を引き金に、年長組の子たちも集まる。
「奈名お姉ちゃんって、あの奈名姉?」
「本当だ!髪カッケエ!」
「なんか大きくなった!」
そりゃ5年も経ったし、色々と大きくなったに決まっているだろうが。
どうやら、年上組の子は、皆奈名のことを知っているみたい。
だが、数人の子が挨拶しに来ても、奈名はどうしたらいいのか分からないらしい。
まぁ、5年間もみんなを避けていた。今更自然に接することが出来るのなら逆におかしいわけだ。
「話はあとでな。院長は——」
「早く早く!」
「そんなに引っ張らないでよ、弥っちゃん」
院長を呼ぼうとしたが、弥っちゃんは一人の男の子手を引っ張って連れて来た。
来た……一番心配な事態が。
縷紅草では、いつも弥っちゃんに連れまわされていて、少々弱気な男の子がいる。
「光、光ちゃん……!」
奈名にとって、全ての起因である光ちゃん。誰のせいでもないあの事故。それでも、奈名はきっと光ちゃんに複雑な気持ちを抱えていると思う。
「……」
「奈名お姉ちゃん、どうしたの?」
待っても返事をくれなかった奈名に、弥っちゃんは困惑そうに問いかけた。
依然何も言わずに、奈名は自分の両手を重ね合わせる。それは震える指先を隠すためのだと、俺は見逃さなかった。
疑問と不安に包まれているこの空間を歪めたのは、悠々と上げた無邪気な声。
「あの……お姉ちゃんは、誰なの?」
「は?」
「え……?」
思いの外の言葉に、俺も奈名も驚愕な声をもらした。
弥っちゃんも信じられないような顔で、光ちゃんを覗く。
「何言ってるの、光ちゃん?奈名お姉ちゃんだよ!昔は仲良かったでしょう?」
「そう言われても……全然覚えてないよ」
弥っちゃんの話を聞いても、光ちゃんはただ首を傾げる。
「お姉ちゃん、僕の知り合いなの?」
「……!」
これは一体……?
「こらあ!ガキ共は砂場で遊んでろ!」
枯れていて、だがパワフルな大声が俺たちを無形のプレッシャーから解放した。
ビックリした子供たちだったが、その声主を確認したら、すぐにいつもの調子に戻った。
「院長、大声出さないでよ!」
「せっかく成兄が来てるから、成兄と遊びたい〜」
「っていうかここ砂ないじゃん」
「やっかましい!話聞かないヤツは明日からトイレ掃除じゃ!」
「「「へ〜〜」」」
院長の脅かしが効いている。ブツブツと文句を吐きながらも、皆は大人しく俺たちから離れた。弥っちゃんも、心配そうに奈名を一瞥したあと、光ちゃんの手首を掴んで行った。
「ジジイ、これはどういうこと?」
「ワシが聞きたいじゃ。ガキ二人いきなりやって来て」
院長の視線が俺と奈名の間に行き来をしたら、奈名は躱すように目を逸らした。そんな奈名を見て、院長は長い息を吐いた。
「お前さんは奈名と一緒に来てるとは、もう事故の事を知ったんじゃろ?」
「まあな」
「……あのガキは覚えとらんのじゃ」
目を細めた院長の口から、想像もつかない話が出て来た。
「は?」
「……!」
「ショックが原因かどうかは知らんのじゃが、あの日の事も、和奈と奈名に関したことも、あのガキは全部覚えておらん」
「何……⁉」
「そ、そんな……」
俺は目尻で奈名の様子を伺う。今でも重ね合っている両手の手の甲は、深い爪痕が残るほど強く握り合わせられている。
「忘れちゃ……行けないことでしょ……!」
「宮坂……」
「それじゃお母さんは何のために……」
蒼白になった顔に映るのは、悲しみか、怒りか、驚きか、それとも、その全てか?俺には分からない。
分かるのは、俺たちはどうしようもなく無力だってこと。
いくら何でも、光ちゃんに事実を無理矢理に思い出させるわけにはいかない。それこそ誰も幸せにならないのだ。
「……またいつか教えるつもりじゃが、今はこのままにしてくれ」
そう結論を伝えたて、院長は念を押すように俺に言う。
「あの日のことは、原則的にガキには内緒にしておるから、言いふらさんぞ」
「分かってるって」
「それから……コン」
院長はわざとらしく咳払いをして、あらためて奈名に視線を刺す。
「奈名」
「……!」
呼ばれた奈名はビクッとして、怯えているように院長を正視することが出来ない。
「お前さん……」
きっと、言いたいことも、言うべきことも、たくさん積もっているだろう。
厳重な表情をして、院長は切り出す。
「そのみっともない髪はなんじゃ?」
「え?」
「は?」
呆れの極みで、俺たちは思わず拍子抜けた声を出した。
「女優でもモデルでもないのに、そんな派手な色はうちのバカ孫娘とそっくりじゃ!本当にお前らガキたちが分からんのじゃ……」
いや、何言ってんだ、このジジイ?4年ぶりでこんなどうでもいいこと言う?てかこのジジイ孫いるんだ。
さすがに奈名も不満を感じただろう。怖がっていても奈名は口先を尖らせる。
「か、髪色なんて別にいいでしょ!」
「何バカ言っとる!お前さんの格好はどこぞの不良のガキみたいじゃ!」
正真正銘、本物の不良少女だよ、彼女は。
それにしても、不合格の挨拶だったが、こうしてやり取りをしているうちに、奈名の表情は少し緩めた。もしかして院長はこのためにわざと説教を……?
いや、あのジジイに限ってそれはないだろう。
「まあいい……それより奈名、お前さんに渡し物がある」
「あたしに……?」
奈名の困惑を回答するように、院長は一つの封筒を取り出した。一見は普通の封筒だが、内容物の分厚さが特に目立っている目立っている。少なくとも、手紙類のものではなさそうだ。
「これは……」
「ポストに金を入れたのは、お前さんじゃろ?」
「……!」
このことについて、俺は昨日、奈名に話した。
沈黙を認めだと見なして、院長は奈名に近づき、封筒を奈名に渡そうとする。
「この5年間、お前さんが入れた全部の金じゃ。お前さんに返す」
「何だと⁉」
「は⁉ど、どうしてなのよ⁉」
「ふん、金を稼げないガキは寄付なんかしとるんじゃない」
院長の言う通りのなら、その封筒に入っているのは決して小遣い程度の金額ではない。
たとえ大金とは言えなくても、それなりに縷紅草の運営に役に立てるはずだ。
それでも、院長は、すべて奈名に返そうとしている。そんな面倒な性格が、俺は嫌いじゃないが、奈名がはこの結果を認めていないようだ。
「金を稼げないガキなんかじゃない!ちゃんとバイトして稼いだのよ!」
「だったらなおさら、自分のために使うべきじゃ」
「あたしがそうしたいからしたの!受け取ってよ!」
「ワシの縷紅草はガキに心配されるほど落ちぶれておらん」
「は?めっちゃ貧乏でしょ!」
「いや、ずっと金足りねえだろう……あ」
「なんじゃと‼」
つい奈名と一緒にツッコミした。仕方がない、孤児院というも場所は、金がかかるものだ。
それにしても、お前らも要らないなら、俺にくれば?
というのは冗談だったが、本当に二人とも一歩引かない強引な態度を取っている。
「何なのよ!受け取ってよ……」
納得いかずに、昨日と同じ顔を見せて、奈名は独り言のように呟く。
「お願いだから、これはあたしの……贖罪だから……」
「……なんも分かっておらんじゃ、お前さん」
「……どういう意味?」
奈名の質問に、院長はただ首を横に振った。
「分かった、どうしても自分のために使わらんというのなら……」
院長は体の向きを変えて、封筒を俺の手に置いた。
「成良、お前さんに任せるのじゃ」
まさか本当に俺にくれたな。うわっ、重い。
これで金持ちになりました、イェーイ。
「えええええ⁉」
「はああああ⁉」
俺と奈名は今日気が合うな、声を上げることに。いや、感心している場合じゃない。
「なにしてんだ、ジジイ⁉」
「奈名が嫌なら、お前さんが使え。飯を食うのも買い物も何でもいい、その金で奈名を連れて遊んでけ!」
「待ってよ!あたしは——」
「やかましい!全部使い切るまでは帰って来んな!いいな?」
その言葉だけ残して、院長は俺たちを追い出した。
重々しい封筒を感じながら、俺はもう片方の手で首を触る。
「なんじゃこりゃ……」
院長の優しさだと分かるが、もっと他にいい伝え方があるだろう?
子供かよ、あのジジイ。
「なによ、なんなのよ……あたしは、頑張ったのに……」
「宮坂……」
隣の奈名は握る拳を見つめて、歯を噛みしめている。
きっと、落ち込んで——
「む、ムカつく‼」
「え?」
猛烈に顔を上げて、奈名は怒気を叫び出す。
「なによ!一円すら使ってないなんて……あたしはなんのためにバイトを頑張ったのよ!光ちゃんも、なによ!全く覚えてないなんて!どいつもこいつも……‼」
落ち込むどころか、むしろ全力で怒っているみたい。
「そんなことなら……」
怒りが盛んな奈名は俺の腕を取って引きずる。
「お、おい、どうしたんだ急に……」
「そんなことなら、使って見せるよ!そんなにあたしに無駄遣いをさせたいなら、残らずに使い切って見せる!行くわよ!」
「え……」
決意した奈名は足取りを速めて、俺も歩くペースを上げながら、手にある封筒をコートの懐に収める。
「マジかよ……」
こうして、この散財予定のお出かけが始まる。
「……で、何でスイーツ○ラダイス?」
テーブルの空間を満遍なく埋め尽くしたデザートを見て、俺は死んだ目線で奈名に問いかける。
「だって、怒るときは甘いものを食べたくなるじゃん」
「いや、だから何でスイ○ラ?」
「いいじゃない、スイ○ラは贅沢だよ?」
「世間は一人1500円程度を贅沢だと言わねえと思うけど」
「むぅ……」
バイキングだし、いくら食べても同じ値段だ。まぁ、俺も普通にスイ○ラ好きだけど……
「これなら、ファミレスでデザートを何個も頼んだ方がまだ高いな」
「こ、これはその……ウォ―ミングアップ!あとは本気で金を使って見せ……いちごケーキ美味しい!」
「……」
「あ……も、もうちょっと取ってくる」
俺の視線を逃げるように、奈名はまた色んなスイーツを狩りに行った。
「どっちも取ればいいだろう、バイキングだし」
バイキング台に置かれている抹茶ケーキとチョコケーキの間に迷っている奈名を眺めながら、俺は一人でツッコミをして、さっき取ってきたいちごケーキを口に入れる。
「……うめえな、これ」
「次はバッティングセンターか……」
「食事の後は体を動かしたくなるよね」
金属バットがボールに当たる音が鳴り響き、時折、確実にボールを掴んだはっきりした音が聞こえる。奈名はキョロキョロ周りを見ていて、新鮮そうに声を上げる。
「ここがバッティングセンターか、ずっと来てみたかったよ」
「来たことねえか?」
「だって、あたし一人で来るのはちょっと……」
「ああ、なるほど」
女子高生一人では、主に男性客のイメージがあるバッティングセンターに入りづらいかも。
ところが、また大金が使えそうもない場所だな。
「とりあえず、一回やってみよう」
そう言って奈名はバットを手に取って、バッターボックスに立つ。
首を左右に動かし、右手片手でバットを上げて右肩に置く。
「……は?」
そして、ボールマシンに向けて、自信の溢れる顔で言い出す。
「これでよし!」
「よくねえよ!」
野球どころか、完全にケンカしに行く不良だろう。
「な、なによ?」
「いや、こっちのセリフだろう」
何そのスタンス?真島○朗の真似? ここは神室町じゃないぞ。
「……俺が先に一回やるから、見てて」
「むぅ……」
ふてくされているだろうか、奈名は頬を膨らませる。ちょっとドキッとしたので、俺は早めにバッターボックスに立った。
久しぶりのバッティングセンターに、俺も少し熱くなった。
まして好きな子の前に、カッコ悪いとこを見せるわけにはいかない。
俺は普通のスタンスをして、ボールを狙って、腰を回してスウィング——
最終的に、俺は20球の中に17球を打った。
すべてをしっかり打っていたわけではないが、素人としてはなかなかじゃないかな。
「ふーん、やるじゃない」
「へへ、まぁな」
手の甲で汗を拭いて、俺はバットを奈名に渡す。
簡単に説明をしたら、奈名をバッターボックスに立たせた。
「こう……かな……」
俺を真似て、ぎこちなくても、奈名は正常なスタンスで立った。
最初は、そう早くないスピードから……ん?
違和感を感じてちゃんと見たら、奈名が入っているのは、俺がさっき打った120キロのボールではなく……140キロのコーナーだ。
「おい、宮坂、ちょっ——」
「カーン!」
と、しっかりボールを掴めた音が、騒いでいるバッティングセンターのなかでも、 やけに透き通って、聞き心地良く俺の耳に届いた。
打たれたボールは綺麗な放物線を描いて、ホームランを示す的を当たって、センター内の放送スピーカーから合成音の歓声が流れる。
「ん?なにこれ?」
歓声の意味を知らず奈名が眉をひそめて、次の打球へ進める。
……何この天才的な運動神経?
そのあと、奈名がいるバッターボックスから、ボールの撃たれた音と放送の歓声が続いた。
「150キロ……」
数字5のプレートが容易に倒されて、ストラックアウトの中央に空洞が空いた。
液晶モニターに球速が映されて、奈名はたった今人生初のピッチングをした。
さっきのホームランショーを見てから、今の俺はもう驚かないのだ。俺を動揺させることはない。おう、揺れているスカートから奈名の白い太ももが……あっ、動揺した。
プレートが次々と撃墜されていて、俺はストラックアウトのコーナーを黙々と離れた。
再び戻った時に、すでにプレーして終わった奈名は手を胸の下に組んでして、不機嫌そうな顔をする。
「どこ行ったのよ?全部の数字を倒したよ」
「……すげえな」
予想がついたが、やはり不思議だと思う。
奈名は自分の凄さを知る様子なく、俺の手に持っている紙袋に注意を引かれる。
「何買ったの?」
「これはな……」
俺は手を紙袋に入れて、さっき売店で買ったものを取り出す。
「これやる」
「あたしに?なにこれ……ユニフォーム?」
渡したのは、あるチームの赤いユニフォーム。
「エンゼルスのユニフォームだ」
「そう」
「背番は17」
「だから?」
「大谷○平選手のユニフォームだ」
「だから何よ」
少しイラついている奈名の肩に、俺は両手を置いた。
「メジャーリーグを目指そう、宮坂!」
「……」
「……」
「……だよ」
「だよ?」
「誰が野球選手だよ!」
「むぅ……どっちがいいかな……」
白いワンピースと紫色のドレスを見比べて、奈名は真剣そうに悩んでいる。
バッティングセンターを出て、洋服が見たい奈名の願いに合わせて、俺たちはデパートの婦人服フロアを訪ねた。
さっきと比べて、確かに金がかかりそうな場所だけど……
「紫が好きだけど、ワンピースの方が安い……」
もう最初の目的を忘れただろう、絶対。
まぁ、奈名がいいなら、俺も別に良いけどさ。
「ね、どっちがいい?」
「え?」
決断が出来ない奈名は俺に質問を投げた。
これがあれか?実はもう心の中で決めてあって、ただ相手に答え合わせをするだけのあれか?こういう時は、何が正解だろう。
「えっと……どっちもいいと思う」
「だからどっちがって聞いてるのよ」
「そう言われてもな……」
「お客様、お悩みでしたら、試着してみませんか?」
どうしたらいいのかを困っている俺たちに、女性の店員さんがアドバイスをした。
「うん……そうね」
「実際に着ているとこを見たら、彼氏さんも意見を出しやすいと思いますよ」
「えっ、俺たちはその……」
「は?彼氏じゃないし」
どう説明しようと考えている俺だったが、奈名はあっさりと俺たちの関係を否定した。
「それは失礼いたしました。では、こちらへどうぞ」
奈名を試着室まで案内して、店員さんは気まずそうな笑顔で振り返って、唇で「ドンマイ」の形を作った。
「……」
店員さんに同情されて、俺は苦笑いしか出来なかった。
でもそうか、俺と奈名、傍からはカップルに見えるか。言われてみれば、今日みたいに奈名と一緒に色んなことをするなんて、今まで想像もしなかった。まるでデー——
カーテンが引かれた音が俺の思考を中断した。顔を上げると、ドレスに着替えた奈名が立っている。
「ど、どう?」
少し気恥ずかしそうに、奈名は俺に意見を求める。
「………」
優しい淡い紫色は見心地が良く、バランスの良い体つき服の仕立てによって強調され、スリット入りのデザインがなお肌の露出を高めた。
衣装に合わせて、髪もポニーテールにまとめ、揺れる金色の下に白皙のうなじが見え隠れしていて、俺をドキドキさせる。
「な、なんか言ってよ」
「……お」
「お?」
「おおおおおおおお‼」
興奮のあまりに雄叫びをした。
「きゃっ⁉なによ!もう……次に着替えるよ」
照れ隠しのように、奈名は試着室に戻った。しばらくすると、白いワンピースの姿で出直した。
無垢なミルク白のワンピースは裾レースで、降ろした長い髪が柔らかそうに肩に載せて、白い布の上でキラキラしていると錯覚させる。
「……」
「ど、どっちが良いと思う?」
「おおおおおおお‼」
「ちょっとあんた……」
「買う!」
「え?」
「はい、こちらのワンピースになさいますか?」
「両方ともお願いします!」
「えっ⁉ちょっ、ちょっと待って——」
「かしこまりました。こちらのサンハットがワンピースに似合いうと思いますが、いかがなさいますか?」
「お願いします!」
「ありがとうございました♫」
「話聞いてよ!」
結局、衝動買いで全部買ってしまった。
まぁ、着る奈名が可愛過ぎたかた仕方ないだろう?
「最後は遊園地か……」
午後四時過ぎた頃に、俺たちは県内の遊園地に着いた。
時間的には、恐らく最後のスポットだろう。一日でこんなに回ったのは、さすがにちょっと疲れた。
ここはまったりと観覧車でも——
「よし、あれをやろう!」
と、疲れた様子が微塵もなく、奈名はあるアトラクション施設を指さす。
……ジェットコースターだ。
「宮坂、俺はちょっと……」
「ほら、時間ないから、早く行くよ!」
「お、おう……」
目をキラキラさせてはしゃいでいる奈名を見て、俺は言い出そうとした言葉を飲んで応じた。
「思ったより面白かった!」
「……」
し、死にたい……
激烈に揺れたおかげで、胃に収まったケーキがまた這い上がっていく気がする。
めっちゃくちゃ怖かった。奈名が傍にいなければ、俺は気絶したかもしれない。
あんな物騒なもん、俺は絶対に二度と——
「ね、次はあれに行こう?なんか面白そう!」
「……おう、行こう」
無邪気に笑う奈名の前に、俺はドロップタワーから伝わる止まない絶叫を聞こえないふりをして、自分の意志の弱さを呪った。
「うぇ……」
強烈な吐き気を必死に抑えて、俺はうめき声を上げた。
肉体も精神もダメージを受けた俺は、奈名をすがって人が離れたベンチに座った。
奈名は飲み物を買いに行っているので、俺は体力の回復を待っている、一日を振り返る。
「俺カッコ悪いな……」
しっかりとした一面を見せてあげたいと思ったが、俺が情けなかったか?それとも奈名がすごすぎたか?いずれにしても、せっかくのデートを台無しにした気がする。
まぁ、デートと思っているのは俺だけだろうが……
「何暗い顔してんのよ」
「うわっ」
思わず声を出したのは呼ばれたからではなく、頬に当たった冷たいペットボトルのせいだ。
いたずらが成功した奈名は得意げに俺にスポーツドリンクを渡した。
それを受けた瞬間に、冷たさが指先から全身に伝わる。
「こんな寒い日に冷たいドリンク……」
「冷たい方が元気出るでしょ」
「宮坂はホットココアなのに?」
「あたしはアトラクション二つでこんなざまになった誰かさんと違う。大体、温かいスポーツドリンクはどこで買うのよ?」
「……ごもっともです。ありがとうございます」
文句を言いながらも、奈名は俺の隣に座る。昨日よりまた少し距離が縮まって、本当に、手を伸ばせば触れるほどだ。
「っていうかあんた、乗れないなら先に言いなさいよ」
「悪い……宮坂は楽しそうだったから、水を差したくねえんだ」
「そ、それは……」
火照った顔で弁解しようとしたみたいが、少し考えたら、奈名は意外と大人しく頷いた。
「……うん、楽しくないと言ったら嘘になる」
寂しそうに、奈名の赤らまった顔は段々と色あせる。
「久しぶりなの……遊園地も、ほかの所も……本当に、こんなにいっぱい遊んだのは久しぶりなの……」
「……そりゃあ良かったな」
「でも、こんなに楽しんでいいのかな……?」
「え?」
「みんなのためにあったお金なのに、あたしが楽しんで使っていいのかな?」
その曇った顔に、さっきまでの元気な模様は消え果てた。
「あたしの……贖罪なのに……」
「……」
ああ、やっぱり。
そんな奈名に、俺は懐から渡された封筒を取り出して返した。
間違って、ないよな。
「え……ど、どうして?」
「どうしても何も、これは元々宮坂の金だろう」
「そうじゃなくて……どうして、この封筒はまだ開封されてないの?」
「だから、宮坂の金を、俺が勝手に使うわけねえよ」
「じゃあ……今日払った金は……」
「……細かいことは気にすんな」
「そ、そんな……!」
「梨沙さんから臨時のお給料を多めに貰ったし、別にいいんだ」
「そうじゃない!あたしはそんなこと……!」
頼んでない、余計なお世話など、奈名はそれを言わんばかりだった。
俺も正直迷っていた。勝手にそうして奈名のプライドを傷つけたら、逆効果になるかもしれないと考えた。
だけど……
「だけど、宮坂はその金を使いたくねえんだろう」
「それは……」
「最初からずっと俺に金を持たせていた。それに、会計の時はいつも先に外で待ってた。もしかしたら、金を使ったところを見たくないじゃねえかと思った」
俺が封筒を開けなかったことを知らなかったのもその原因だ。
高級の店を行かなかったのも、高い買い物をしたくなかったのも同じだと思う。
本気で使い切りたいのなら、俺から封筒を取りあげて、好きなものを買えばいいのだ。
だが、意識に無意識に、奈名はいつも金の使用に配慮があった。
「本当は、やけになって使ったとしても、宮坂が自分のために金を使ったなら、俺は良いと思ってる」
「……」
「けど、それで宮坂を苦しませたら意味ねえんだ。だから、俺が払う。その代わりに、宮坂にその金がお前にとっての意味を考え直して欲しい」
使うのも使わないのも、贖罪という理由は、あまりにも重いのだ。
とは言え、俺が勝手に奈名に買った洋服を除けば、別に大金と言えるほどの金も払わなかったけど。
俺の話を聞いた奈名の顔が渋くて、空の灰色を彷彿させる。
「それでも……あんたに払わせるなんて……」
「……どうしても納得出来ないなら、一つ俺の頼み聞いてくれねえか?」
「え……?」
困惑がこもった奈名の疑問に、下心を抱えながら、俺は自分の頼みを吐露する。
「本当に……こんなことでいいの?」
「お、おう……」
微かに揺れながら、観覧車のゴンドラが緩やかに上る。
いつもより弱気な奈名の問いに、俺は緊張で上手く答えられなかった。
その緊張の原因は……
「や……柔らけえ……」
「へ、変な感想言わないでよ!」
俺と奈名は向かいにではなく、肩を並べて座っている。
加えて、手をつないでいる。恋人つなぎだ。
これは俺の頼みだった。火事場泥棒のような悪い頼みだって自覚しているが、このぐらいはどうか大目に見てくれ。
それにしても、自分の頼みとは言え、俺の方が緊張で針の筵に座る気持ちになっている。
いつも人に冷たい奈名だが、その手がこんなにも温かいなんて知らなかった。
ガタイの良い男を一発でKOできるほどの戦闘力と抜群の運動神経があるのに、絡みついている手が意外と繊細で柔らかいから、俺はつい感想を口にした。
隣の奈名もぎこちなく首を捻って、俺と目を合わせてくれないのだ。
「……」
「……」
き、気まずい。
せっかくのチャンスなのに、このままじゃ台無しだ。
「景色がいいな」
「……」
ダメだ、良い話を思いつかない。
でも、奈名の体がやけに俺に近寄り、握って来る手の力も強まっている気がする。
どういうこと?
「テンションも上がるな」
「……」
なお返事をくれず奈名だが、何故か段々と俺に近づいて、肩が触れ合うことになった。
とても俺得の状況だけど、さすがにこの明らかに異常な反応が気になるのだ。
ギュッと握ってくる手から伝わる震え。それに、観覧車に乗ってから、奈名は一度も外を見なかった。
「まさかと思うけど……宮坂、もしかして高いのが苦手?」
「……うん」
「いや、さっきめっちゃ絶叫マシンを楽しんでだだろう?」
「……ああいう一瞬でわった方が怖くない。こういう拷問みたいにゆっくり動いた方が怖いよ」
いや、あっちが怖いだろう。ドロップタワーは平気、観覧車が拷問?さっぱりわからん。
とにかく、奈名は観覧車が苦手というのは間違いなさそうだ。
強い風が吹いただろうか、ゴンドラが大きく揺れた。
「ひぃ!」
悲鳴を上げた奈名は、全身が俺にくっついた。
当たってる当たってる!色んなとこが当たってるあああああ!
俺にとって、幸せ極まりない大サービスだが、さすがに見るに見かねるので、俺は冷静なふりをして会話を続ける。
「怖いなら、先に言ってくれれば良かったのに」
「あんただけに言われたくないのよ!」
「ですよね」
「大体、あんたがこんな頼みをしたからでしょ」
顔を赤らめた奈名の抗議に、俺はまた罪悪感に叩かれた。
「……すまん、やっぱ嫌だよな?無理に手をつながなくてもいいんだぞ」
「……」
とても残念だと思うが、元々性質の悪い頼みだし、奈名が俺に付き合う筋合いがない。
俺の言葉に、奈名は返事しなかった。だが、繋いている手を離さなかった。
俺たちはしばらく緩やかに揺れるゴンドラの中で沈黙を保った。
段々と沈んでいく夕陽がオレンジ色の光を運び、通風口から逃げ込んだ風は寒くて、握る手の温度をあらためて感じさせた。
「変わってないね……あたしは」
ふと、奈名が声をこぼした。
「光ちゃんの悲しい顔を何度も見たくないから、あたしは彼を傷つけた。縷紅草に戻ると決めたのに、意地を張ってこんなことになっちゃった。観覧車に乗ってるのに、顔を上げることすら出来ない。怖いことから逃げてるばかり、本当に……何も変わってないね」
「……そんなこと、ねえじゃねえか?」
「え……?」
「結果が悪かったけど、光ちゃんをこれ以上悲しませないために、勇気を出して真相を伝えただろう。まだ仲直りが出来てなくても、ちゃんと自分の意志で院長に、皆に会いに行っただろう。外を見るのが怖いのに、それでも俺と一緒に観覧車に乗ってるだろう。だから、何も変わらなかったじゃねえんだ。宮坂は一歩ずつ、自分と向き合えるように頑張ってるじゃねえか?」
「……それでもダメじゃない?頑張っても、今のあたしは、何一つも向き合えない」
「俺は、もうちょっと自分に優しくしてもいいと思うけど」
「あたしは、変わりたいよ……」
「だったら、顔を上げるだけさ」
ゆっくりして良いと、俺は思う。
だが、それでも変わりたいのなら、それしかないのだ。
「……怖いよ」
「知ってる、手震えてるし」
奈名の不安も恐怖も、きちんと俺の手に伝わって来る。
「けど、顔を上げないと、外の景色が分かんねえだろう」
「……」
「こんないい景色を、俺は一人じゃなくて、誰かと一緒に見てえな」
怖くて怖くて仕方なくて、ますます俺の手を強く握りしめた奈名を見て、俺は一回息を吸って、言葉に力を入れて切り出す。
「俺は、この景色を、奈名と一緒に見たいんだ」
「え?」
始めて、俺は彼女を前に、名前を口にした。
それは、想像以上に恥ずかしくて、俺は自分の頬に熱を感じた。
だが、想像以上に効いている。奈名は驚いて顔を上げ、俺を不思議そうに見つめる。
「あんた……」
「顔、上げてんだな」
「あ……!」
「ほら、良い眺めだろう?」
俺の誘導に、奈名は視線を窓に向けた。そして、目を丸くした。
頂上へ向かうゴンドラの中から、町の風景はちんまりして、水平線に沈みつつある夕陽が、暮れる前に最後の光を放っている。
高いビルから古い住宅まで、オレンジ色に染まった。街に溢れる数え切れない人々の影が、小さくて可愛く見えている。
「やっぱり、怖い……」
そう怯えを訴えている奈名だが、その口元が三日月を作った。
指先の震えが、いつの間には止まった。
「でも、綺麗……」
「……」
しばらく、俺たちは無言のままで景色を満喫した。
頂上を過ぎて、ゴンドラは地面へ戻り始める時に、奈名は静かさを破る。
「……やっぱり、今日払ってくれた金を返すよ」
「別にいいって」
「良くない」
「俺は宮坂とデート出来てすげー嬉しかったからいいんだ」
「だから良くないのよ、デートじゃないから」
「へ……」
「それに、あたしもすごく嬉しかったから、お相子だよ」
二度目と、奈名は俺に笑顔を見せた。
美しくて、偽りのない笑顔だ。
「ありがとう、成良」
そして始めて、奈名が俺の名前を呼んだ。
「え?あの、俺の名前……」
「な、なによ、あたしのことも『奈名』って呼んだでしょ?」
桜色に染まった顔でそっぽ向いて、俺は奈名の表情を捉えなくなった。
「じゃ、じゃ……奈名」
恐る恐ると、俺はまた奈名の名前を呼ぶのを試みた。
「……何?成良」
「おおおおおおお‼」
「だから何で叫ぶのよ!」
馬鹿げたやり取りを続いているうちに、遠かった人影がどんどん近くなって、ばっちり見えるようになった。
スタッフのお兄さんがゴンドラの鍵を開けた音で、観覧車が一周回ったと告げた。
観覧車から降りてから、俺たちは手がまだ繋いていることを気付いて、慌てて離した。
離れた手の温もりがすでに懐かしくなって、そんな思いを晴らすように俺は首を振った。
「行こうか」
「次はどこ行こうかな……?」
奈名が次の予定を決める前に、俺のスマホにメッセージが届いた。
一驚はしたが、実にあの人らしいと、俺は送信先を見て思った。
「どうやら、帰らなきゃな」
「え?あんたほかに用事あんの?」
「そうじゃなくて……『俺たち』が帰らなきゃ」
「それって……!」
俺はスマホの画面を奈名に向けて、メッセージの内容を見せる。
「暗くなる前に帰ってこい」と、院長からのメッセージだ。
「早く帰らなきゃ、どこの頑固ジジイに心配を掛けそうだな」
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