心の欠片 1

 あの頃、毎日も楽しかった。

 家に帰ったら、「お帰り」と微笑んで言ってくれるお母さん。

 仕事の疲れが残っても、職場であった面白いことを話してくれるお父さん。

 家族三人で美味しいご飯を食べる時間、あの頃、それはどれだけの幸せだと、あたしは知らなかった。

 友達とのお約束がない休日は、お母さんと一緒に「ルコウソウ」という、ちょっと変わった名前をしている児童養護施設へ行っていた。あたしはそこが気に入っていた。

 建物が古い、人も多くない、手伝いに行くボランティアはいるが、普段は院長のお爺さんが一人で子供たちの面倒を見ているらしい。

 だから、子供の皆は自分たちで家事と掃除の役割を配分して、守ってくれる大人の負担を軽減する。模範とも言える理想的な大家庭。

 頑固だけど、誰よりも皆の世話に専念している院長。

 お母さんの親友で、誰にも親切で、たまには少し距離を置いてほしいぐらいの成恵おばさん。

 幼い子供たちが憂いなし遊んで、年長組の子供たちはそれらの面倒を見る。

 何より大事なのは、お母さんがいる。

 あたしもよく施設の掃除と子供の世話を手伝った。

 それが家族の一員の役割だから。

 あの頃のあたしは、本当に毎日が楽しかった。

 四年前のクリスマスイブまで。



「ねえ、ねえ、パパとママはいつ来るの?」

 あどけない声で聞き出したのは、鋭くて答えがたい疑問。

 光(こう)ちゃんと名前で、最近施設に入った5歳の男の子。期待が含まれる目線に、あたしは真相を言えなかった。「君は捨てられた」という、残酷な真相。

 詳しい状況は知らないけど、光ちゃんの話によると、「すぐ戻るから、ここで待ってね」と両親に言われて、それっきりだった。

 あとで施設の前で光ちゃんを発見した院長は、彼のリュックに日用品と何着かの洋服、それと「この子お願いします」と書いてある手紙を見つけたらしい。

「パパと公園で砂のお城作りたい!」

 高揚のイントネーションでやりたい事を主張している光ちゃんだけど、あたしはそのテンションに乗ることが出来なかった。

「奈名お姉ちゃんも一緒に来てよ!ママはいつも美味しいクッキー作って行くよ!」

「……」

「どうしたの?奈名お姉ちゃん」

 そのあまりにも純粋な笑顔に、12歳のあたしは嘘も真実も語る勇気がなかった。だから、どうしたらいいのかが分からないまま黙っていた。

「ねえ——」

「光ちゃん、おやつタイムだよ〜」

 後ろから抱き上げられた光ちゃんは「あわわ」と手足を振ったが、相手が知人だと分かったらすぐに落ち着いた。

「成恵おばちゃん!でも奈名お姉ちゃんが……」

「プリンとゼリー、どっちがいい?」

「プリン!あ、でもゼリーも食べたい……う……」

「仕方ないわね、じゃあ一個ずつあげるよ」

「本当⁉やった!」

 すでにおやつだけを考えている光ちゃんを連れて行く前に、成恵おばさんがあたしにウィンクした。心の中で感謝して、あたしはほっとした。でも、このままでいいの……?

「奈名もプリン食べる?」

「きゃっ!マ……お母さん」

 今度は、後ろからやって来たお母さんが冷たいプリンであたしのうなじに当てた。

「あら、『ママ』でもいいよ」

「や、やだよ」

 この年でまだママと呼んでいるなんて、友達に聞かれたら恥ずかしい。

「それで、おやつをどうする?」

 おやつ……あ、プリンが美味しそう……

「……いらないよ、子供じゃないし」

 子供扱いが嫌だから、あたしは本音を隠して小声で答えた。

「そっか、じゃお母さんはゼリーが食べたいから、奈名はプリンでいいのね?」

「だ、だからあたしは……」

「はい」

 と、にっこり笑いながら、あたしの手のひらにプリンを乗せた。

 気持ちを見透かされたようで少し悔しかったけど、押し付けられた以上、あたしも大人しくプリンの包装フィルムを剥がしてスプーンで口に運んだ。やっぱり、プリンは甘くて美味しい。

 悩みはあるけど、ここでは院長と成恵おばさんなど、頼れる大人たちがいて、それにお母さんもいる。だから大丈夫だ。

「あ、私、自分のスプーン忘れた」

「お母さん……」

 大丈夫……だよね?

「ちょっと取りにいくね」

 あたしの頭を優しく撫でて、お母さんはおやつが置かれたビニール袋の方へ行ってしまった。

 同じ方向から、院長の怒鳴り声が鳴り響く。

「こら、成恵!ガキを甘やかすな!」

「え〜別に一個ずつあげるぐらいはいいでしょ?」

「だからお前な……」

 こんな温かい家族だから、きっと光ちゃんは大丈夫だ。



 こうして、クリスマスイブがやって来た。

 毎年の恒例通り、成恵おばさんは夫と他の友達と一緒に芝居をしてくれた。

 子供たちのために用意した、誰でも聞いたことがある童話の芝居だけど、想像以上に面白くて、あたしは退屈な思いもなく最後まで見届けた。

 あたしはまだ芝居の後味を玩味している時、子供たちの中から一つ疑問の声が上がる。

「あれ?光ちゃんは?」

「え?」

 速やかに室内を一周回って探ると、やはり光ちゃんの姿はどこにもいない。

 異常な状況で、すぐに皆が騒ぎ出しだ。大人たちは探し始めたが、どれだけ光ちゃんの名前を叫んでも、返事がなかった。となると、恐らく外へ行った。院長を筆頭に、大人たちグループに分けて探すのことを決めた。何人かの大人は施設に残って、子供たちが外に出ないように見張っている。あたしも「ここで待ってろ」と釘を刺されたが……

「ねえ、ねえ、パパとママはいつ来るの?」

 光ちゃんの言葉を思い出すたびに、不安が募る。

 だから、トイレに行くと嘘をついて、あたしはこっそり抜け出した。

 冬の夜は寒いものだ。マフラーを巻いてあっても、鼻先は寒風に吹かれて疼いている。

 順調に誰にも会わずに、あたしは心当たりがある場所にたどり着いた。

「パパと公園で砂のお城作りたい!」

「奈名お姉ちゃんも一緒に来てよ!ママはいつも美味しいクッキー作って行くよ!」

 光ちゃんは、特に公園が好きらしい。そして公園と言ったら、この辺りは一つしかいない。

 正直、歩行でここに来るには、それなりの距離があった。5歳の子供が自力でここまで来るのは想像しがたいのだろう。だからこそ、捜索範囲から漏れる可能性がある。

 公園に入ると、やはり、薄着で寒さに耐えきれぬ模様の光ちゃんが一人でブランコに座っている。

「光ちゃん!」

「え……どうして奈名お姉ちゃんが……?」

「光ちゃんを探しにきたよ!」

 ブランコまで走って、あたしはしゃがんでマフラーを光ちゃんの首に巻く。

「どうして一人でこんなとこに来たの?みんな心配してるよ?」

「ごめんなさい……」

 謝りの言葉が口からこぼれて、光ちゃんは自分を守るように体を丸く縮めた。

「公園に来たら、パパとママに会えると思った」

「……」

「でも、会えなかった」

 落胆した光ちゃんを見て、あたしはどうするべきかに迷った。

「奈名お姉ちゃんは、パパママがいつ来ると思う?」

 あたしは知っている。いつも楽そうに見えていても、光ちゃんは毎日夕方になると外を見ていて、両親が迎いに来るのを待っていた。

「すぐ戻るって言ったのに、どうしてまだなの?」

 おろおろと、光ちゃんが涙目になった。そんな光ちゃんを見て、あたしの心も千切れたように痛かった。光ちゃんを傷つけたくない。だけど……

「ねえ——」

「もう来ない」

「……え?」

「光ちゃんのパパママは……もう光ちゃんを迎えに来ない」

 光ちゃんを傷つけたくない。だけど、彼がこれ以上傷つくのも、見たくない。何度も何度も期待と失望にもてあそばれる光ちゃんの顔が思い浮かべて、あたしは覚悟して拳を強く握る。

「いつまで待っても、光ちゃんのパパママは、絶対に来ない。光ちゃんはこれから、ルコウソウのみんなと一緒に生活するの」

「うそ、うそよ!パパママは来るって言ってた!」

「噓じゃない」

 これ以上君を悲しませたくない。だから、全ての悲しみは、今日で終わらせる。

「光ちゃんのパパとママは……光ちゃんを捨てた」

「……!」

 電源が切られた機械のように、光ちゃんは表情を失った。ごめん、許して。

「奈名!」

 息を切らした声が後ろから立ち、その声に愛おしいほど聞き覚えのあるあたしは振り返る。

「お母さん⁉」

「もしかしたらと思って見に来たけど、どうして奈名まで抜け出した?」

「そ、それは……」

「うわあああああああああああ‼」

「光ちゃん⁉」

 説明しようと思った瞬間に、光ちゃんは号泣して駆け出した。

 急な行動に、あたしは反応が出来なかった。

「うわあああああああああ!」

「待って、光ちゃん!そっちは……」

 お母さんの叫びであたしは気付いた。光ちゃんが向かった先は……車道の方向だ。

 いつの間にか車のエンジンも聞こえて、嫌な予感が湧き上る。

 頭が何を考える前に、体が動き出した。

「奈名!」

 背後からお母さんの叫喚が届いたけど、足を止めて確認する余裕はあたしにはなかった。

 車道に飛び出したのと同時に、あたしは転がりかけた光ちゃんの手を掴んだ。しかし、もう遅い。

 軽トラのヘッドライトを目の当たりにして、あたしは恐怖に支配されて目を閉じる。

 頭の中は真っ白になって、ブレーキの音も近く聞こえ、あたしたちはそのまま——

「……え?」

 痛くない。衝撃も軽かった。どうして?

 その理由を、あたしは目を開けた時に分かった。

 あたしも光ちゃんも無傷だった。ぶつかる前に、突き飛ばされたから。

 ある温かい手に。

 そのあたしたちを助けて、代わりに血だまりの中に倒れていた人は……

 お母さんだ。



 あの日から、何もかもが変わった。

 家に帰ったら、お母さんがいなくなった。

 お父さんが無口になって、家に帰るのも段々遅くなった。

 あの日以来、あたしは二度とルコウソウに入ることがなかった。入ることが出来なかった。

 あたしは院長と成恵おばさんに向き合う勇気がない。院長に目を合わせることすら出来なかった。成恵おばさんとだって、それ以来だった。

 あの葬式で、涙を堪える人は、一人もいなかった。

 あれだけ、お母さんの存在はみんなにとって重要だった。

 だからあたしは、身を隠してこっそり泣くしか出来なかった。

 あの夜のことを、今でも夢に見る。

 鮮明に目に焼き付いた、現実の再体験のような映像が、毎晩のようにあたしを責め苛む。

 もし、抜け出さなかったら。

 もし、光ちゃんに真相を伝えなかったら。

 もし、駆けだした光ちゃんに追いかけなかったら——

 これ以上考えない。考え続ける事に意味がない。どれだけ後悔しても、お母さんがあたしを守るために死んだ。これが現実だ。あたしはこの理想的な大家庭を壊した。

 こんなあたしは、図々しく家族の一員と名乗って、みんなと一緒に笑う資格がない。

 あたしはみんなが大好きな和奈おばさんを失わせた、成恵おばさんから大切な親友を失わせた、お父さんから愛した妻を失わせた……

 あたしは……お母さんを死なせた。




「あとは……あんたの知ってる通り、あたしはバイトを始めて、毎月稼いだお金を孤児院のポストに入れてる。それはあたしができる……せめての贖罪だから」

 俺は何故か息苦しく感じる。

 縷紅草から歩行でたどり着ける公園は、一つしかない。それは、今俺たちがいる公園だ。

 一体どんな気持ちを抱えて、奈名はここに座っているのだろう。

「もしあの時、あたしが余計なことしなかったら、お母さんは……」

「で、でも、そんなの不幸な事故だろう?誰も望んでなかった結果じゃねか?」

 下手な慰めなんて、自覚している。だけど、言わなきゃいけないのだ。誰も悪くはなかった。親に会いたかった光ちゃんも、これ以上彼を悲しませたくなかった奈名も、娘を守りたかった和奈さんも、誰も悪くなかった。ただ、たくさんの思いが重なって、悲劇となった。

「だから、何もかも自分のせいにすんな!きっと——」

「そんなの分かってるよ!」

「……!」

「分かってる……でも、あたしのせいじゃないと、誰のせいなの?誰のせいに……したらいいの……?」

 スカートの裾を掴んでいる奈名の手は、僅かに震えている。

「『君のせいじゃない』、『自分を責めないで』、みんなそう言ってくれた、お父さんだって最初は……けど、それで何か変わる?みんなが何を言っても、あたしがどう思っても、お母さんは……ママは帰って来ないのよ!」

 静かな公園に、奈名の声はやけに悲しく、やけに虚しく聞こえた。

 何も変えられない、変えられなかった無力な自分に、きっと奈名は悔しくて仕方ないのだろう。

 だから、責任を感じないなんて、出来るはずもない。

「あたしのせいだ、あたしのせいでいいんだ……こんなあたしは、みんなを傷つけたあたしは、自分だけ友達と楽しく遊ぶわけにはいかないのよ!」

 これはきっと、奈名がずっと隠して抱え込んできた本音だろう。

 自ら全ての人と距離を置いていたのは、こんな自虐的な罪悪感が作用しているからだ。

「あたしは縷紅草に帰れない、帰る資格がない、だからもう誘わないでよ!ほっといてよ!これ以上あたしの心を……揺らさないでよ……」

 奈名は一滴の涙も流していない。だが、その切なく本心を訴えている模様に、俺はどうしようもなく胸が痛くなった。

 余計なお世話かもしれない。それでも……

「それでも、俺は宮坂に参加して欲しい」

「……!」

「いや、参加しなくても、縷紅草に行くべきだと思う。謝りたくても、𠮟られたくても、許されたくてもいいんだ。お前がどんな思いを抱えていても、一人で自分を責め続けるより、一度会って伝えたほうがいいと思う」

「あたしにはそんな資格が……!」

「ある。少なくとも、俺はあると思ってる」

「あんたが——」

「俺も一応、縷紅草の一員だけど?」

「! そんなの、ずるじゃん……」

「自分で資格ないって思い込んで逃げたのも、大分ずるいと思うけど」

「そ、それは……」

 奈名を追い込むつもりはない。

 しかし、何も向き合わなければ、何も変わらない。

「資格があるかどうか、縷紅草のみんなに会ってから決めて欲しい。そんで、もし少しでも自分を許せるようになったら、演劇に参加してくれ。これでいいか?」

 追い打ちに条件交換のように提案したら、奈名は言葉が詰まり、迷いの込めた視線を漂わせる。

「……どうして、そこまであたしを?」

「俺は、好きな子と一緒にクリスマスイブを過ごしてえんだ」

「は?」

 奈名は顔を上げて、奇妙な表情で数回瞬きをした。

 特にもったいをつけているとか、そういうわけではない。ただ、本心を教えてくれた奈名に、俺も何の飾りもない本心で応じたいのだ。

「……なりそれ、キモっ」

「え?」

「本当にバカね」

「いや、今のなかなかかっこ良かっただろう」

「そこがキモイよ」

「マジか」

「本当に……余計なお世話をするバカ……」

 軽くため息をついて、奈名はベンチから立ち上がる。

 最初は、俺に愛想が尽きたからもう帰ると思ったが、数歩歩いたら、俺の方へ振り返った。

 始めて、奈名は俺に向いて笑った。

「こんなバカにここまで言われたら、あたしも前に進まないといけないのね?」

「え、それって……!」

「縷紅草に……みんなに……会いに行くよ」

 たとえ目にはまだ迷いが残っても、その顔に不安が浮かんでいても。

 奈名は、一歩を踏み出した。

「過去に、向き合わないと」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る