3 いつだってメイドの笑顔はぶれない
「メイド•イン•キャット……ここか」
ここに入ったら、上昇負荷でもかけられそうだ。
俺はスマホの画面と店の看板に目線を行ったり来たりさせて、場所が間違っていないと確認した。
土曜日の午後、風邪が完治した俺は、この前花玲が送ってきた住所が示された地点へ向かった。
電車約1時間、加え歩いて20分の路程、俺は遂に隣の県にあるこの建物にたどり着いた。
見た目からしては、カフェやレストランみたいな飲食店だろう。名前はたぶん、英語をそのままカタカナにしたカタカナ英語。Made In Cat、かな……木製で厚そうなドアに金色のノブ、ノブがぶら下がっているプレートに可愛いネコの絵が描かれてある。
「営業中」と書いてあるが、午後早々だからまだ客がいないだろうか、話し声すら聞こえないほど静かだ。俺は手をノブに掛けて、思ったよりずっと軽いドアを押し開けた。
「お帰りなさいませ、ご主人様❤ご案内いたしますニャン〜」
「……」
「……」
元気よく迎えに来ているウェイトレスさんと目が合って、その完璧な営業スマイルは石のように固まる。俺も口を開けたまま動きが止まって、ただ思考停止の状態で彼女を見据える。
理由は単純だ。
目の前に立っているのは、メイド服姿に猫耳、髪をポニーテールにして、胸元の名札に「なな」と書いてある……奈名である。
「「ええええええ⁉」」
数秒の滞りのあと、俺と奈名の叫び声が、秋の空の下でハーモニーを奏でた。
なるほど、こっちのMaidか……
「何であんたがいんのよ‼」
どこが聞き覚えのあるセリフだな。
ペンキが多少剝がれた白い外壁に背中を付けて、冷たさが俺の全身に拡散しつつある。
職員専用の出入り口であるこの裏口で、俺は奈名に問い詰められている。モダンでおしゃれなフロントドアと比べて、何の飾りもない簡素な裏口は、ただ使われるだけのための存在と感じさせる。
俺を追い込んだ奈名は威嚇するように右手を伸ばして外壁に当てる。つまり、今俺が奈名(メイドVer.)にされているのは、いわゆる壁ドンだ。やだな〜ちょっとドキッとした。キャー、かっこいい!まぁ、現実逃避は無駄なことぐらいは知っている。
「まさか偶然、隣県のメイド喫茶に来たとでも言わないよね?」
「いや、その、行き比べ……みたいな?」
「メイド喫茶の?キモっ」
「そ、それより、何で宮坂がこんな店でアルバイトしてんだ?」
「し、仕方ないじゃない、時給高いし。それに……って、今はあたしが聞いてるでしょ!」
忍法•話題転移の術、失敗。それにしても、案外単純な理由だな。
さて、どうすればいいのか?ここで正直に花玲から教えてもらったと言ったら花玲には悪い気がする。かと言って、適当な理由なら、さぞ今の奈名を誤魔化せないだろう。
ピンと張った空気を切り裂いたのは、スマホの着信音。誰だろう。こんな良いタイミングに掛けて来るやつ。一応、画面を見て確認する。だが、あいにく、この距離では、奈名でも俺の画面が見える。相手は花玲だ。
「……」
「……」
誰かと思ったら、最悪のタイミングで掛けて来る人だ。
「あの、俺ちょっと電話——」
「待ちなさい」
何か心当たりがあるか、それとも単なる感が鋭いか、奈名が俺のスマホを奪い、電話に出てオーディオキーを押して、また俺の手にスマホを戻した。
「……」
「もしもし、成良くん、ちゃんと送った住所通り行けた?迷ってないよね、ひひっ」
「……あの、花玲先輩」
「メイド•イン•キャットって店だよ」
「いや、その」
「そうそう、この前言い忘れたけど、私が教えたって奈名に知らせたら……分かるよね」
いや、さっぱり分からん。分かるのは、きちんと働いているスマホのスピーカーが、今の話を一字一句漏れなく奈名の耳にも届けた。
「どうした、成良くん?黙ってて」
「……そういうことね」
冷たい声を淡々と放った奈名。終わった。
「おかしいと思った。このアルバイトのことは一人しか知らなかったはず……」
「あれ?どうして奈名の声が……」
花玲が驚きの声を上げた同時に、奈名は再び俺からスマホを取り、オーディオ機能をオフにしてスマホを耳に当てる。
「花玲、何でこいつに言ったのよ⁉あの変な着信音を録音したら秘密にしてくれるって約束したでしょ!」
なるほど、あの着信音の経緯はそういうことか。
「大体、あんたがどうしてあたしのアルバイト知ってるのも謎だけど……ちょっと、聞いてる?は?何でこいつに?だから話聞いてよ!もう!」
何を話しているだろう。しばらく争論が続いて、挙句の果てに、奈名は喧嘩に負けた子供のように、ふてくされてスマホを俺に渡す。元々俺のスマホだけど。
嫌な予感がしながらも、俺は仕方なくスマホを耳に当てる。
「……すいません、花玲先輩」
「奈名に知らせちゃダメって言ったでしょ?ひひっ」
「待ってください!あれはタイミングが——」
「し•け•い」
と、電話が切られた。
「花玲はなんて?」
「かわいい後輩だから許すって」
「嘘つくな」
気にしないで、俺は自分を騙しているだけ。こんなどうしようもない悪足搔きでもしているとき、今度は奈名のスマホからLI○Eの通知音が鳴った。
「ん?花玲から……今度は何?」
困惑そうにタップしてメッセージを見ると、奈名は「キャっ」と小さい悲鳴を上げた。
「どうした?」
「……」
「宮坂?」
「……」
無言のまま、奈名はスマホの画面を見せる。花玲とのチャットに、一通の新メッセージがあった。あるDVDが映った写真だ。
「金髪ネコメイドのご奉仕タイム」というタイトルで、表紙はタイトル通りの特徴をしていて、男に刺激を与えるポーズをとる女の人の写真だ。
写真と共に、「成良くんの部屋で見つけた。他にもいっぱいあるから、奈名は気を付けてね」という文字が送って来た。
「な……!」
これ、俺のコレクションじゃねえか⁉俺の部屋で何をしやがったんだあの人!
「金髪、ネコ、メイド……それって……!」
頬が真っ赤になって、奈名は後ろへ退く。
「あたしのこと、そんな目で見てんだ……」
「ち、違うんだ!これは……」
「来ないで!変態!」
俺が一歩進めると、奈名は何歩も引いてる。その目に、軽蔑と嫌悪が丸出ている。
「だ、だから……」
「ご主人様、うちのメイドに会いたいのなら、規定を守って正門からご入場ください」
後ろから知らない声が響く。開けた裏口のドアから、奈名と同じ服装をしている、20代前半に見える女性が出て来た。長いまつげの下に隠れたビー玉のような美しい瞳と、一束にして胸の右側に置く艶やかな長い髪。お姉さんだと思わせる、優しくて頼もしい雰囲気がする。
その親切そうなお姉さんだが、今の目つきはまるで獲物を狙っている猛獣そのものだ。
「店長⁉」
「え?」
奈名に呼ばれて、彼女はにっこりと笑って俺に近づく。その笑顔に、寒気を感じる。
「うちのメイドにセクハラをする悪いご主人様には、お仕置きですよ♫」
「待って!これは誤解だ!」
「誤解?なながあなたのこと「変態」と呼んでだの聞えましたよ?」
「あ、店長、それは……」
店長の誤解に気付いて、奈名は説明しようとしているが、彼女は聞く耳を持っていないらしく、腰からしなやかそうなものを取り出し、地面に思いっきりたたきつけ、はっきりした音が響いた。それは……
「鞭⁉」
何でそんなSM道具を持ち歩いてます?魔導士ギルドに星霊魔導士でもやってますか?
「と、とにかく落ち着いてくれ!」
「あの……」
たぶん、どんな理由があっても、今の彼女は聞き入れてくれないのだろう。
両手で鞭を引き絞り、店長は俺の前にやって来た。
「覚悟しなさい!」
「本当に誤解だあああああ!」
「本当にごめんなさい」
深く頭を下げて、店長が俺に謝る。
裏口から入ったこの空間は、壁一面がロッカーで埋まり、残るスペースはテーブルと何脚の椅子が置いてある。休憩室かつ更衣室として使われているらしい。
「てっきり……」
「いえ、誤解が解けて良かったです」
鞭がお尻に刻んだ痛みを感じながら、俺は苦笑いして返事した。
誤解だったが、奈名を守るための行動だから、あえて咎める必要はないと俺は思う。
「ところで、その鞭は?」
「あ……見ての通り、こういう店だから、提供できるサービス以上のものをメイドたちに要求するお客さんはいるね。この鞭は、そういう時にメイドたちを守る武器なんだ」
大変そうだな、メイド喫茶。さきほど鞭を振り下ろしていた凛々しい模様とはまるで別人みたいに、目の前の女性は淑やかな姿勢で立っていて、優しい微笑みを浮かばせる。
「あらためて、私は相倉(あいくら)梨沙(りさ)、このメイド•イン•キャットの店長を勤めている」
「俺は佐上成良、宮坂の……えっと、クラスメイトです」
ここは、友達だと胸を張って言いたかったが、今の奈名は、きっと俺を友達として認めてくれないのだろう。なので、少し考えて、俺はクラスメイトという単語を選んだ。
「すみません、相倉さん。仕事中なのに……」
「いいのよ、別に今は暇だから、節真さんに任せた。あ、節真さんと言ったのはうちのコック」
不本意とは言え、結果的に営業の邪魔になったかもしれないので謝ったが、梨沙は本当に気にしていないように大丈夫と主張した。
「それと、梨沙でいいよ」
「あ、はい、では……梨沙さんで」
「成良くん、今日はわざわざななに会いに来たの?」
「まぁ……そんな感じ」
説明してもややこしいから、俺は特に否定しないことにした。
「どう?ななに似合うでしょう、メイド服」
「店、店長!」
梨沙は何故か自慢そうに奈名の肩を掴み、展示するように俺に見せつける。
抗議の声を上げた奈名だが、それ以外の反抗もなく、大人しく俺の前に立っている。
おかげで、俺は奈名のメイド服姿をじっくり鑑賞する機会を得た。
黒を基底にした服装の上に白いエプロンという、王道のデザイン。
視覚効果のためだろうか。伝統の長袖とロングスカートではなく、露出度を少し高めの半袖とミニスカート、袖口も裾の部分もふわふわの白いパイピングが飾ってあり、襟にピンク色の蝶結びが活発な印象を増やせた。
服装の背後は小道具の尻尾が付いて、定番のカチューシャも猫耳造形のものにすり替わった。
なぜこんな細かく見たと聞かれたら、それはこの服を着ている奈名が、それほどの魅力があるからだ。
「……いつまで見るつもり?」
「え……わ、悪い」
つい見惚れてしまった。見られるのが苦手だろうか、奈名は恥ずかしそうに手で体を隠そうとしている。慌てて俺は視線を逸らした。
「成良くん、顔真っ赤だね、可愛い♫」
梨沙に言われて、俺は発熱している顔を気付いた。
俺の反応を見て、梨沙はいたずらな笑みが浮かび上がって、俺の耳元で囁く。
「成良くん、もしかしてななのこと——」
「梨沙!大変だ!」
店内と繋がるドアもう一つのドアが凄まじい勢いで開けられ、コックコートを着用している中年男性が入って来た。
「どうしたのですか?節真(せつま)さん」
「妻がもうすぐ出産するって病院から連絡が来たんだ!」
どうやら、このヤギヒゲが垂れているおっさんがさっき梨沙との会話中に一度出てきた節真さんらしい。この確かに大事な話に、梨沙も目をむく。
「それは確かに大変ですね!」
「つう訳で、今日は早退させてもらうな!」
「分かりました。赤ちゃんの写真、期待してますね」
「おう!ななに負けないぐらい可愛い娘を見せてやる!」
「何であたしと比べるのよ……」
大声で笑いながら、節真が適当に奈名の頭を撫でる。途中に俺を気づいて、瞬困惑が顔に過ぎたが、すぐに歯が見える大きい笑顔をくれた。俺もそれに会釈した。
「ちょっ……触わんないでよ」
「ははっ!そんじゃあとは頼むぞ、梨沙!」
「はい、お疲れ様でした」
節真がバタバタ外へ走った。少ししたら、喜び満載の歓声がドア越して届いた。
「何ヶ月前からずっと期待してたよ、あのおっさん。仕事中もずっと言ってた」
「節真さんなら、良い父親になるよ♫」
「……そうね」
喜ばしい話のはずなのに、奈名は何故か寂しそうに見える。
「どうします?店長」
店内に繋がるドアが再び開けられ、今度はメイドの服姿のウェイトレスが頭だけを突き出して梨沙に尋ねた。
「どうって?」
「そろそろピークに入るけど、節真おっさんがいないと、人手足りないでしょう?」
「……あ!」
状況を飲み込むまで、梨沙は少し時間が掛かった。そして、テンパった。
「どどどどどうしよう⁉」
「私に聞いてもね……」
「どうしよう?なな!」
「知りませんよ」
二人の落ち着いている様子から見れば、似たような状況はたぶん何回もあっただろう。
梨沙さん、よくこれで店長努められるな……
「店長ならなんとか行けるじゃない?」
「無理だよ!一人じゃ絶対間に合わない、下手したらミスして店ごと爆発するよ!」
どんなミスをしたらそんなおっかないことになるだろう。
「一人じゃ……」
喚いてあちこち見回している梨沙。その目線が俺に合った時、何かを見つけ出したように止まった。
「成良くん!もしかして料理出来る?」
「えっ、まあ、一応……」
普段は自炊生活送っているので、上手とは言わないが、それなりに心得がある。
「もしかして、、飲食業で働いた経験も?」
「……ファミレスでバイトをしました」
「キッチン?」
「……両方」
梨沙のそのビー玉のような瞳がキラキラしている。
いや、嘘だろう。まさか……
「よし、成良くん、君に決めた!」
「ポケ○ンか俺は⁉」
「お願い!」
「いや、それは……」
「ななのメイド姿見放題、それに給料付きよ!」
「ちょっと店長⁉」
「佐上成良です!本日はよろしくお願いします!」
「え⁉」
「良かった!よろしくね、成良くん♫」
「良くないのよ!」
言い方を変えるだけで、人の気持ちはこんなに変わることが、今日で分かった。
「7番テーブルのオムライスが出来た、早くオーダー出して。3番テーブルのパスタはもうちょっと掛かる、しずがお客さんの話に付き合って」
「「はい!」」
指示を受けたメイドたちは速やかに動き始めて、梨沙も手を止めずに次のオーダーに進む。
「お待たせしました、ご主人様。ももと一緒に美味しくなる魔法をかけましょうニャン!」
「ご主人様、お嬢様、よろしければしずとお話でもしましょうニャン?」
予想の斜めの上に、仕事はわりと順調に進んでいる。さすがに始めて出会った仕事場はかなりきついけど、それでもなんとなく任されたことをこなせたのは……
「成良くん、そっちのタレを取って来て、あとチキンカレーの肉を切っといて。鶏もも肉は冷蔵庫の右上ね」
「了、了解」
一刻の暇も取りにくいこの状況の中でも、自分の仕事と俺の指導、加えて店の指揮まで完璧に取っている梨沙がいるからだ。少し前のパニック状態は演技だと疑わせるほど、仕事中の梨沙は凛として頼もしい。
ちなみに、キッチンなのにメイド服姿をしている理由は、ただの趣味らしい。
しばらく絶えないオーダーを消化し続けて、午後のピークが終わるまで俺は仕事を集中した。
「ふう……」
客が少なくなって、店がまったりした空気に変わったのは、午後4時半。
喫茶店という性質だからだろうか、メイド•イン•キャットの午後は、昼に負けないほどの忙しない時間帯があるらしい。俺が訪れた時は、ちょうどお昼のピークタイムが終わった頃。そしてたった今、俺は節真の代わりに、午後のピークタイムを乗り越えた。
俺は疲れを吐き出すように長い息を吐いて、グラスに水を入れて飲む。
「成良くん、ななのこと好きでしょう」
「ブッ⁉」
突然の言葉に襲われ、つい飲みかけた水を吹き出した。
「な、何でそれを……!」
「成良くん分かりやすいだもん。それに、仕事中はちょくちょくななを見てるでしょう」
「バ、バレましたか……すいません」
オーダーの渡し口がかなり広いため、厨房の中にいても店内の状況が把握できる。
俺はそれに便乗して、奈名の姿を目で追っていた。
せっかくの眼福だし、出来る限り一秒でも長く見ていたいのだ。
「告白はした?」
「……実はもう振られました」
「あらら……」
「あ、まだ諦めてませんよ。今はある演劇の出演を誘ってます」
「面白そうだね、頑張ってね、ふふっ」
「ガシャン!」
会話に割り込んだのは、食器が割れた尖った音。
「も、申し訳ございません、ご主人様」
どうやら、食べ終わった料理を取り下げる時に手が滑った。
急いでしゃがんで割れたプレートを回収するそのメイドは、奈名だ。
「またか……」
「また?」
「うん……」
片手で頬を支えて、梨沙は困ったように言う。
「どうしてか分からないけど、ななはおじさんに会うと緊張しちゃうね」
「おじさんに?」
「女性や成良くんみたいな若い男性なら別に大丈夫だけど、時々も中年男性のお客さんが来るから、その時ななはいつも硬そうに見えて、食器を落としたり、飲み物をこぼしたり、ミスが多いの」
「そんなことあったんですか……」
確かに、破片を清掃している奈名の隣の席に座っているのは、四十代に見える禿げた男性だ。
「来たばかりの時、節真さんと話すことすら出来なかったよ、今は仲が良いけどね……もしかしてアレルギーとか?」
「そんなアレルギーはないと思いますけど……」
あったら世界中のおっさんが可哀想だ。
「お帰りなさいませ、ご主人様!四名様ですね、こちらへどうぞニャン〜」
お客さんを招き入れる声を信号に、新しい注文も間もなく入ってきた。
「そろそろ仕事に戻りましょう。成良くん、玉ねぎを千切ってくれる?」
「はい」
微かな疑問を抱えながらも、仕事に手抜きをするわけにもいかないので、俺は再び梨沙の指示に従って動き出した。
「いってらっしゃいませ、ご主人様。またお帰りくださいニャン!」
最後のお客さんを送った可愛らしい声と共に、時計の針はピッタリ7時半の位置に止まった。
「終わった~」
手の甲で額の汗を拭き取って、梨沙は満足げに笑う。
「お疲れ様、成良くん、おかげで助かったよ」
「いえ、俺は梨沙さんの指示通りやっただけです」
「それがすごいって言ってるの。初日でこんなに働ける人はそうそういないから、謙遜をしなくていいよ」
「ありがとうございます。こちらこそ梨沙さんの傍で働いて、色々勉強になりました」
「それは良かった。では、ちょっと他の仕事があるから、後片付けを任せてもいい?」
「分かりました」
「ありがとう、本当に成良くんはいい子だね♫」
梨沙が後にしたキッチンは、どこか寂しい静寂が残っている。ただコンロの置かれたまかないのカレーのポットから、食欲を刺激する香りが漂っている。
「腹減ったな……」
いきなりのバイトはさすがに疲れた。でも、知らない奈名の一面を知ることが出来て、それも悪くない気がする。メッセージを送って花玲に礼を言いたいが、彼女のせいで色々大変な羽目になったと思い出して、俺は最終的に心の中で感謝すると決めた。
こうして一日を回想しながら、俺はキッチンの片付けを終えて、休憩室へ向かうためにキッチンのドアを開ける。
「お、お疲れ様でした、ご……ご主人様。ニャ、ニャン」
「……どうも?」
思いのほかの光景に、俺の反応が遅れた。
ぎこちなく迎えに来ているのは、顔が桜色に染まるメイドなな。
「え?どゆこと?何で宮坂が?」
「あ、あたしだって嫌だよ!でも店長が……」
「ダメでしょう?なな。メイドがご主人様の給仕を嫌がってどうする?」
梨沙の声を聞いて、俺はこの狭い廊下に、奈名以外に何人もいると気付いた。
今日シフトが入っていたウェイトレスの皆だ。梨沙を含めて5人もいるが、奈名以外の全員はすでに私服に着替えた。
「きゃー!青春だね」
テンションが高いこの人は、昼間に「しず」と呼ばれたウェイトレス。
「へえ……ななと違ってかわいいね」
昼間に「もも」と呼ばれるウェイトレスは、興味深そうに俺を見据えた。
「あ、あたしと違うって何よ!」
「だってなな冷たいし」
「そうそう、顔はかわいいけど全然かわいくないもん」
「それなのに男が会いに来るなんて、隅に置けないね」
「あ、もしかして彼氏が来てるから、今日はいつもより近づきやすいかも」
反論しようとした奈名だったが、すぐに周りに突っ込まれた。大丈夫よ、奈名。俺はいつも奈名が一番かわいいと思っている。うわっ、俺は俺で気持ち悪いな。
「違うよ!大体、こいつ彼氏じゃないし」
「え~どうだろうね」
「まぁ、いいんじゃない?今日の方がかわいいよ」
「たしかに~」
「いっそ彼氏くんも雇っちゃえば?」
「だから彼氏じゃない!」
奈名が同僚たちにからかわれるところを見て、梨沙は困った顔をして俺に近づく。
「ごめんね、成良くん。うちのメイドは大学生が多いから、みんないつもこんな感じでね」
大学生か……言われてみれば、確かに奈名より少し年上に見える。
さすがの奈名でも、年上ばかりに囲まれたら、いつもの調子でいられないようだな、
「いいえ、俺は大丈夫です。けど、これは一体……?」
「特別サービスよ♫」
「え?」
「成良くんのおかけで、今日は無事に営業が出来たから、何かお礼をしないとね」
「そんな、お礼なんて……」
「ということで、このあとのまかないタイムは、ななが成良くんの専属メイドになるよ!」
「このお礼、ぜひありがたくお受け取らせていただきます!」
「良かった。気に入って何より♫」
「だから良くないのよ!」
奈名に席まで案内して貰ったあと、梨沙さんはまかないのカレーライスをキッチンから出した。俺は奈名の隣に座って、奈名の向こうは梨沙。他の人は別のテーブル席に座っている。そう仕込んだのは、言うまでもなく梨沙だ。
まぁ、給仕とは言え、普通に奈名にウェイトレスの仕事をしてもらうだけだ。もちろん嬉しいちゃ嬉しいが、わりと平和だな。と、思っていたけど……
「ご主人様のお腹はペコペコだよ、なな?」
「で、でも……」
「……」
一体、どういう状況だろう。
スプーンを手に握る奈名の視線は、カレーライスと俺の間を彷徨っている。
「梨沙さん、これは……?」
「あーんして食べさせるサービスよ、もちろん成良くんに限定ね」
「なるほどおおおおおお⁉」
「ちょっと、いきなり叫ばないでよ!」
「わ、悪い……」
「すごく喜んでくれてるみたいだね、ふふっ」
「いや、まぁ……」
そりゃ喜ぶけどな……こんなに大勢な人に見られて、さすがに奈名だけじゃなくて俺までも恥ずかしくなって来た。してあげる方もしてもらう方も相当な勇気が必要だ。
俺は少し心配で奈名を見ると、後者はすでに耳までを赤らめて、羞恥に耐えられない模様だ。
「店長、あたしはやっぱり……」
「うん……ななは今月皿を何枚割ったかな♫」
「ご主人様、あーん❤」
「……」
手が震えてるぞ、メイドのななさん。どうやら梨沙の前で、奈名は反抗する余地がないのだ。
夢みたいなシチュエーションだから、恥ずかしながらも、俺は口を開ける。
「あー」
「むぅ……」
腹をくくった奈名は目を閉じて、震えた手で一気に俺の口にスプーンを突き出す。
あーはしたけど、んまでは行けなかった。その理由は……
「俺の目あああああ‼」
熱々のカレーライスが俺の口に入ることはなかった。その代わりに、目だけが辛さと熱さを味わった。
「あ……ごめん」
「あらら……」
目にしみる痛みで悲鳴を上げたと同時に、俺は悟った。
夢みたいなシチュエーションは、やっぱ夢の中でいいや。
「おっ先に〜」
笑顔で手を振って、喋り方に合う派手な格好をしている女子大生が店を出た。
これで休憩室へ着換えに行った奈名以外、ウェイトレス全員は帰った。
仄暗い灯りの下に残っているのは、一つテーブルに向き合って座る俺と梨沙。
「ごめんね、成良くん。なながそんなに抵抗力がないのは知らなかった」
「あはは……」
「でも、頑張ってね、私は成良くんを応援してるよ」
「ありがとうございます」
実際、梨沙は「ななを家まで送って」と俺に言ったのだ。奈名は要らないと言い張ったが、梨沙の前でやっぱり堅持することはできなかったので、大人しく同意した。
それで奈名を待っている間に、俺は梨沙と話をするわけだ。
「そうだ、これを渡さないと」
一つの封筒が俺の手に交付された。
「はい、今日の給料よ」
「えっ、こんなに⁉」
開け口から覗くと、アルバイトとして随分厚遇の数目が入っている。
「臨時の仕事を上手くこなせた成良くんだから、当然の報酬だよ」
「こんなに評価されて、ちょっと照れますな」
「それに、今日のななはいつもよりずっと元気で愛想がいいから、私も成良くんにお礼を言いたいの」
「そうなんですか?」
「そうなんだよ。きちんと仕事が出来て、真面目な子だけど、仕事以外の時は、いつもみんなの話題を入らずに一人でいる。笑顔だって、お客さんの前じゃなきゃほとんど見たことないの」
先ほども、ウェイトレスたちの話に似たような内容を聞いた。
梨沙の話によれば、奈名は学校の中でと同じく振舞っているだろう。
「心配して聞いてみても、ななはあんまり話してくれないし、ただいつも一人で……別に仕事以外のことを干渉したいわけじゃない、でも、少し……寂しいかもね」
決して自ら手を伸ばさない。誰が手を伸ばして来ても、絶対にその手を気安く取らない。
それが、俺は今まで知っていた奈名だ。
「だから、私は成良くんを応援してるよ。成良くんといる時のななは、本当に楽しそうに見えたから」
優しい月明かりが店内を少し明るく照らす。今日は満月のようだ。
その光に映された梨沙は綺麗に笑う。
「バイト先の店長の私が言ってもあれ何だけどね」
「いえ、奈名のこと、大事にしてますね」
「そうね、ななはちょっと妹に似てるから、なんとなくほっとけないのよね」
「梨沙さん、妹いるんですか?」
「いるよ、ななと同じぐらいかわいい妹」
自慢そうに言っている梨沙が、先ほどの憂鬱な表情はすでにどこへ消えていた。
「もう一つ渡したいものがある」
「これは……!」
代わりにいたずらっぽい笑顔で、俺にポラロイドカメラで撮った一枚の写真を渡す。
まかないの時間で撮った、特別サービスの写真。
メイド服の奈名がカレーライスの載ったスプーンを俺の目に突き刺した瞬間の写真。
「いつの間にこんなもん……」
「二人とも慌てて気付いてなかったもん」
「俺顔ひでえな」
口を大きく開けて悲鳴を上げているという、とんでもない絵面だ。
「まあまあ、ななにも渡してあるから、成良くんも記念に受け取って」
気持ちは複雑だけど、確かに記念すべき初のツーショットだから、ありがたく上着のポケットにしまった。
「まぁ、メイド服だけでも眼福だし」
「でしょう?でも、成良くんがもっと色んなななを見たいというのなら、私もとっておきはあるよ」
「え?」
そう宣言した梨沙は一旦席を外して、しばらくしたら、一冊のアルバムを取って返ってきた。
困惑している俺に一笑いをして、梨沙がアルバムを開く。
「な、なに⁉」
文庫本二冊ほどの大きさがあるこのアルバムに、奈名の各種の写真が詰め込まれた。
メイド服の格好が多いが、制服の姿も何枚かある。仕事中や休憩中の写真も欠けずにあった。だが、どの写真も、奈名はレンズを見ることはなかった。というより、カメラを意識していないと見えた。
「こ、これは……」
「なながアルバイトに入ってからこっそり撮ったの」
「盗撮かよ!」
「自社のメイドの仕事状況を記録するのも店長の役割だからね」
「ありませんよそんな役割」
ツッコミながら、俺は手をアルバムに伸ばして次のページに捲ろうとしたが、一足先に手は梨沙に抑えられた。
「続きを見たいなら、5000円で買ってくださいね」
「高けえ!てか売るかよ!」
「良いじゃない、給料あるでしょう?」
「あなたがくれたばかりの給料ね!」
さすが商売人だ、梨沙さん。悩み込んだ果てに、俺はアルバムから手を引いた。
「やはり、ちょっと奈名に悪い気がしますんで……」
大体高いし。
「そうか、成良くんだから特別に売ってあげようと思ったけど……」
梨沙はなぜかわざとらしく声を尖らせる
「着替え中のあんな写真や、ローアングルでうっかり撮ったあんな写真も、アルバムに入ってるかもしれないのに……そうか、成良くんは興味ないんだ、残念だね」
「……マジか?」
「さあ、どうでしょうね」
「……」
卑怯だぞ。そんなことを聞かされたら、確認しなければならないだろう?
俺は自分の探求心を憎みながら、五千円札を差し出した。
「毎度ありがとうございます♫」
あくまで確認だからな。決して邪念を抱えてしたことではないからな。俺は再びアルバムに手をかざして次のページへ移ろうとする。さあ、一体どんないい写真が——
「面白いことをやってるみたいね」
「……」
後ろから寒気が伝わって来る。恐る恐ると振り返ると、案の定、休日なのになぜか制服を着ている奈名がそこに立っている。何だか懐かしいな、その冷たい目線。
「これは……その……梨沙さん助けて!」
「あら、まだ厨房の片付けが残ってるから、お先に」
「俺が片付けましたね!置いて行かないでください!」
助けを求めた俺を庇ってくれずに、梨沙は手っ取り早く逃げた。
残された俺は奈名を見て、そこにぶれない営業スマイルが完璧に咲いている。
「覚悟はできました?ご主人様❤」
「申し訳ありませんでした!」
「宮坂、まだ怒ってんのか?」
「……」
「あの、宮坂奈名さん……?」
「……」
「無視しないでください、泣きますよ」
「……」
「明日は晴れるよな……てるてる坊主さえあれば……」
「もううっさいよ!」
揺れている電車の中に、俺は奈名と少し離れて座っている。
元々通う人はそう多くないルートで、夜の遅いこの時間にもなればなおさらだ。現に車両には俺たちしかいないため、話し声で他人に迷惑をかけることもないだろう。
「あんたの自業自得でしょ?あたしのあ、あんな写真を買うなんて……」
「……すいませんでした」
「はあ……店長も店長で、いつそんなアルバム作ったのよ」
「俺も最初見たとき驚いたな」
「は?あんたどの口でそれを言う?」
「……ごめんなさい」
「はあ……別に変な写真もなかったし、いいっか」
「見たかったけどな……」
「なんか言った?」
「……何でもありません」
俺が五千円で入手したアルバムを、奈名は即刻で破ろうとしたが、さすがにもったいないので、俺と梨沙で何とか奈名を止めた。
話しあいの結果、奈名がアルバムの内容を確認した上で、梨沙が金輪際奈名を盗撮しない約束の代わりに、奈名はこの取引を認めた。
ところで、奈名が確認してオーケーを出したことは、俺は梨沙に騙されたことだろう。商売人は恐るべし。
「知ってると思うけど、バイトのこと、誰にも言うんじゃないわよ」
「それは当然だ。あ、でも、代わりに、一つ頼んでいい?」
「……死体なら何も語らないよね?」
「極端すぎるだろ!」
「だって、いやらしい頼みしか言い出さないでしょう」
「しねえよ!俺のことなんだと思ってんだ?」
「エッチなDVDを持ってる、それにあたしの写真を買った変態」
「……」
いや、男なら、DVDぐらいは普通ではないか?
好きな人の写真だって、男女問わずに欲しがるだろう。
俺が心の中で雄弁を振るったが、奈名は当然それを知らずに、妥協したように問う。
「それで、あたしに何をさせたいの?」
「クリスマスイブの芝居を出演してくれ」
「断る」
「じゃメイドななのこと言いふらす」
「……やっぱり二度とその口を開けないようにしてやる」
「すみません誰にも言わないのでどうか命だけは勘弁してください」
一体何をしているだろう、俺は。
とりあえず冗談半分のつもりで説得し続けようと思ったが、いつの間にか暗い顔になって項垂れる奈名を見て、俺は思わず口をつぐんだ。
「……ね、どうしてあたしなの?」
答えを求めている奈名の声が、どこかイラついているように低かった。
「別にあたしがいなくてもいいじゃない?あたしじゃなくてもいいじゃない?あたしに執着理由はどこにもないじゃない?だったら……やめてよ……」
それは、演劇を誘うことという意味か?奈名を近づけることという意味か?それとも両方か?俺には分からない。分かるのは、左腕を強く掴めている彼女の右手は、不安と不満を訴えるように震えている。
「……縷紅草の手伝いを始めたのは、中学生になったばかりの頃だった」
「え……?」
だから俺は、全てを伝えようと決めた。
劇団の巡回公演を参加すると決まって、父と母が忙しくなったことをきっかけに、俺は縷紅草に通うことになった。
正直興味はなかったが、あの時の両親、特に母親が、どこか必死に見えた。必死に何かから逃げるように見えた。だから俺は言われた通り孤児院に通うことにした。
子供たちと徐々に馴れ合い、縷紅草の存在が生活の一部となった頃、俺はある女の子に気付いた。
俺と大体同い年に見えて、長い黒髪をしている清楚な女の子だが、何故かよく施設の前でうろついて、こっそり中を覗いていた。
縷紅草の関係者か何かだろうか?気になっていたが、いつも誰かに気付かれると慌てて姿を消すから、なかなか話をかける機会がなかった。
ちょうどその頃から、毎月の24日に必ず、縷紅草のポストにお金が入ってある封筒が入れられるようになった。
そんなわけのわからないまま、クリスマスイブがやって来た。
俺は恒例の芝居のあとで行われるクリスマスパーティーを抜け出して外で息をついていた時、また彼女が現れた。
雪が降っている真冬だったのに、彼女は俺の知らない中学のスクールセーターにスカートという、明らかに足りない格好をしていて、寒がって手を擦った。
案の定、彼女は懐から一つの封筒を出して、ポストに入れた。
温かい光に照らされた縷紅草を、彼女はしばらく寂しそうに眺めていた。
あの時の彼女が、俺は小さくて儚く見えた。だから、彼女が帰ろうとしたら、俺は思わず後を付けた。
長い道を歩いて、上り坂を一つ越えて、彼女は遂に足を止めた。
不自然なほど静かなこの場所は、墓地なのだ。
クリスマスに似合わなすぎる場所。、彼女がここに来る理由に疑問が浮かべる前に、俺はあの場面を目撃した。
たった一人の女の子が、寒冷で赤くなった手を強く握って、雪の中で泣いていた。
とてもとても悲しい大泣きだった。ごめんなさい、ごめんなさいと、誰かに謝りながら泣き喚いた。まるで道に迷って、誰かに見つかってほしい子供のようだ。
だけど、その彼女だけがいる世界には、見つけてくれる人は、どこにもいなかった。
あまりにも痛々しい光景を、俺は見るに忍びなくて、そのまま何もできずに帰った。
途中で誰かとすれ違う気がしたが、俺の頭には、彼女の瞳に宿る悲しさしか考えられなかった。
それ以来、俺は彼女から目を離すことが出来なくなった。
ずっと彼女に会いたがっている院長なら彼女のことを知っているだろうが、どれだけ問い詰めても、院長は何も教えてくれなかった。
俺は彼女について何も知らなかった。
彼女の名前も、彼女に何かあったのも、何一つ知らなかった。
それが悔しかった。
だから、高校にも入って、金髪を染めた彼女の席が隣にいると分かって、俺は決めた。
彼女の悲しみを消したい、その泣き顔を笑顔に変えたい。
彼女の支えになりたい。
彼女の助けになりたい。
俺は……
「俺は……宮坂を助けたい」
「……!」
「だから、お前がいないとダメだ。お前じゃなきゃダメだ。お前に執着する理由は、ちゃんとあるんだ」
一気に心に秘める思いを伝えた俺の隣に、奈名は沈黙の末に淡い嘆きがもれる。
「……ストーカーのくせに格好つけんな」
「え?」
俺の間抜けた声と同時に、電車はブレーキが掛かった音が鳴り響き、駅の到着を意味した。
奈名は席から立ち上がって、俺を待たずに車両を出た。
「お、おい」
急いで俺は追いかける。
「待ってよ、あれは——」
「ストーカー行為の言い訳なんて聞きたくない」
電子マネーを翳してホームを出ながら、俺は弁解しようとしたが、奈名がそう言って押し返した。気のせいかな?奈名の横顔に少し火照りが見えるような気がした。
しばらく俺たちは無言で歩いて、ある公園の前に、奈名は足を止めた。
「少し……休まない?」
「えっ、おう……」
奈名の提案を意外に思いながらも、俺は言われるがまま公園に入った。
静かな公園に音を立つのは、秋の冷たい風と俺たちの足音だけだ。
俺がベンチに座ると、奈名は少し離れたところで、一本のタバコに火をつけようとする。
「やめたほうがいいんじゃねえか?タバコ」
「うるさい、あんたに関係ない」
「梨沙さんにチクるぞ」
「むぅ……」
怖い目線で俺を睨み付けたが、悩んだ末に、奈名はタバコとライターを戻して俺の隣に座る。
寒いからだろうか。電車にいたときに比べて、随分俺たちの座る間隔が縮まった。
「本当に、梨沙さんに関すると、宮坂は大人しいだな」
「だって、給料払ってくれてるし」
現金だなおい。
「それに、店長はなんか……お母さんに似てる」
「宮坂のお母さんに?」
「うん……いつも頼れるとこも、時々ドジなとこも、たまに意地悪なとこも。それと、あたしがどんにやらかしても、笑って許してくれるとこも……」
奈名が俯いているから、俺は彼女の表情が見えない。
もしくは、俺に見せたくないから、奈名は俯いているのかもしれない。
「きっと、店長なら、お母さんといい友達になれるでしょう。もし、お母さんがまだ生きてるなら……」
「……!」
思わず、俺は息をのんだ。だが、そんな俺を嘲笑っているように、奈名は再び言葉をこぼす。
「あたしの……せいだ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます