キスと彼女①

 小説において、登場人物の心情や、情景を読者に伝え、想像してもらう事はとても大切なことである。

 やはり文章だけで説明しないとならない為、そこが薄いとどうしても物語も薄っぺらく感じてしまう。

 じゃあ問おう。


──キスした時、どう思った?


 結論から言おう。分からない。

 分からないというのは、少し語弊がある気がする。

 頭が真っ白だったという表現が正しかったかな。

 小説では、よくキスの感触やその時の心情を綴っている場合が多い。

 感触。これは何となく分かる。

 心情。これに関しては実際、経験してみないと分からない気がした。

 それでは小説にならない? 間違いない。

 ただ、一つだけ言える事がある。


──何も考えることが出来ない。

 


────────



 目を覚ますと、そこは見慣れてはいるがいつもと違う天井が映っている。

 ベッドもいつもより固く感じた。

 その正体を掴もうと、撫でて材質を確認する。

 少し表面がザラザラしているが、引っかかる感じではなく、なめらかに滑っていく。

 横になっているものの正体が、ソファーだと気づいた。

 ただ、無理な体勢で寝ていたせいか、体の節々に痛みが走る。

 何とか体を起こし、首を抑えながら電気をつける。


「めっちゃ痛いんだけど……」


 暫くこの痛みと生活しなければならないと思うと、少しだけソファーで寝てしまった自分が恨む。

 そんな後悔をしたところで、何かが変わる訳でもない。

 携帯の電源をつけると、充電マークの表示。

 SNSの反応が気になる状況でこれは、とてつもなくだるい。

 大きな溜息をつき、痛みと格闘しながら、近くにある充電器を引っ張ってくる。

 時間も分からない、カーテンから外の様子を除くと、東から赤みが混じった夜空が確認できた。

 『3%』と表示された携帯の電源を入れる。

 ロック画面には5時55分の表示。

 偶然時計を見た時にこの数字になっていると、幸運が訪れるなんて聞いたことあるが、全く信じていない。

 信じてはないが、気にはなる。

 SNSを覗くと、一番上に表示されているアカウントは『ナカサ』というユーザーネーム。ありさだ。

 そこには『うおおおおおお』としか書かれていない。

 その内容の意味は、俺にしか理解できないだろう。

 蘇ってく記憶。まだ、鮮明に思い出せる。

 視界いっぱい映るありさの顔、柔らかな唇の感触、甘い吐息、鳴り止まない鼓動。

 セロトニンの分泌がもたらす、ひと時の幸せ。

 ただ、どこかそれに負い目を感じている。

 絢香のことや、ありさへの気持ちだ。

 彼女の告白は断るくせに、昨日のキスを拒むことはできなかった。

 突然、現実に戻される。もう引き返せない。

 一度回ってしまった歯車が、戻ることはないのだ。

 そんな現実から少しでも遠ざかりたいため、もう一度眠りにつく。

 後悔の念を抱えながら。



────────



 暗い世界から自分を呼ぶ声が聞こえる。

 もう少しここにいたい。

 しかし、その思いは届かず、現実へと引っ張り出される。


「コーキさん! コーキさん! 起きてくださいよ!」


 体を揺すられる感覚がする。

 目を開けると、そこにはありさがいた。


「やっと起きましたね、夏とはいえ風邪引きますよ」


「ああ、すまん」


 昨日の事もあり、少し顔を合わせるのは恥ずかしい。


「というか、なんで家にいるんだ?」


 ドアを開けた記憶が無い。

 インターホン鳴ってたっけ? 今何時だ?

 カーテンの隙間からまばゆい光が差し込んでおり、最後に記憶していた表情とは全く別のものだった。

 携帯の画面には13時の表記、あれから7時間も寝ていたのか。

 

「インターホン鳴らしても出ないですし、鍵も空いてましたよ。電話もしたんですけどね」


 再び携帯に目をやると、着信履歴が残っていた。

 

「ほんとだ、鍵空いてたんだな」


「しっかりしてくださいよ、誰かが勝手に入ってきたらどうするんですか?」


 家の鍵に関しては少し無頓着な所がある。

 いままでそれで問題になったことは無かったため、あまり気にした事が無かった。


「気をつけるわ」


「そうしてください」


 そう言ってキッチンに向かうありさ。

 今日は、料理をしてもらう予定だったな。

 

「何作ってるんだ?」


「それは出来てからのお楽しみです。まだ時間かかるんで、ゆっくりしてて下さい」


 彼女は冷蔵庫から食材を取り出すと、料理を始める。

 料理は彼女に任せ、俺は執筆を始める。

 と言っても、まだ寝起きだ。ろくなものが書けるはずがない。

 ただ、他にすることもないので、取り敢えずは画面と向き合う。

 キッチンからはまな板の音が聞こえる。

 結婚して家庭を持つと、こんな感じなんだろうか。

 なんというか、すごく新鮮だ。

 執筆を進ませようと、頭を回転させる。

 そうして思い出されるのは、またしても昨日の事。

 当然二人はまだ、お互いに起こった事を知らない。

 バレた時は、どうなるんだろうか。

 あんな事がありながら、ありさは何事もなかったかのような反応。

 もしかすると夢なのか? なんて思ってしまい、つい画面から目を離し彼女の方を見る。

 偶然なのか目が合う。

 すると彼女は視線を逸らし、再び料理を始める。

 その仕草に少しだけ照れてしまった。

 ありさを利用するようで申し訳ないが、画面に再び視線を戻し、今の感情を小説に綴るためにメモする。

 

「コーキさん、小説の方はどうですか?」


 後方からありさの声が聞こえる。

 

「まあまあかな? まだなんとも言えない」


 いきなり小説の事を聞かれたので一瞬ドキッとする。


「ふーん、そうですか」


 会話が途切れる。

 今まだありさとどう話していたのか思い出せない。

 そうこうしている内に、食器を取り出す音が聞こえる。

 どうやら、料理ができたようだ。

 そちらに意識を向けると、料理のいい匂いがしてきた。


「コーキさん、そろそろできますよ」


 画面を閉じ、キッチンの方へ向かう。


「何かすることあるか?」


「それじゃあ、飲み物の準備だけお願いできますか?」


「わかった」


 コップと冷蔵庫にある紅茶を取りに行くと、キッチンにはご馳走が並んでいた。

 必要なものをテーブルに並べ、料理を運ぶのを手伝う。


「ありがとうございます。それじゃあ食べますか」


 席に着くと、その正面にありさが座る。


「それじゃあ、いただきます」


「どうぞ食べてください」


 しめじとベーコンのパスタを口に運ぶ。

 ニンニクと唐辛子の風味や、ベーコンの塩味が、しめじの風味を邪魔しておらず、いい塩梅になっている。

 サーモンのカルパッチョを食べる。

 さっぱりしていて、サーモンの旨みがしっかりと生かされており、ペペロンチーノとの相性がとてもいい。


「すごく美味しいよ!」


「ほんとですか? 良かったです!」


 その後も夢中で食べ進めるが、途中からありさの視線がすごく気になる。

 そんなにこっちを見ているが、口になにか付いてるのか?

 手で確認してみるが、何も付いてない。

 何か用があるのかな? 首を傾げる。

 それを見て彼女は微笑む。

 一体なんなんだ。落ち着いて食べれない。


「どうしたんだ?」


「なんでもないですよ」


 ありさは両手で頬杖をつきながら、ニコッと笑う。

 その笑顔につい照れてしまい、視線を料理の方へ向ける。

 そうすると今度は、彼女の視線が気になってしまう。

 一体どうすればいいんんだ。


「コーキさんって──」


 ありさが口を開く。

 良かった、このまま見られてたらまともにご飯を食べれない。


「私がファーストキスの相手ですか?」


 突然の質問内容に、食べていたものが喉に詰まる。

 紅茶を飲み干し、口を開く。


「それは──」


 この一言が、新たな展開を呼び起こす。


 

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