第18話 プランクトンは雪のように
5月2日、土曜日。
俺は現在、東京スカイツリーのほとんど真横にある、すみかわ水族館の前にいた。
時刻は14時前、六月さんとの待ち合わせは、14時だった。
俺は人を待つことはできるが、待たせることに非常に罪悪感を感じるタチな為、何かの集合時間には大抵早めに着いておく。
今回も早めにつくことができたが、やはり、GWの土曜日ということもあって、人が、かなり多い。
スカイツリーに入る人もいれば、水族館に入る人もいる。
ここ周辺はソラマチという、屋台等が並んでいる場所もあるから、そっちの方にも人が沢山おり、まさしく大盛況だった。
俺は、634mのスカイツリーの頂点が、まるで一点透視図法のように、天の中心に向かっているのを、半ば無意識で見ていた。
……すると。
「おいおい、あの人、綺麗すぎだろ」
「……すごいな」
「お前、ちょっと、声かけてこいよ」
「馬鹿野郎、あれほどの美女に、彼氏がいないわけないだろ、現実を見ろ」
近くに居た男子のグループの話し声が聞こえた。
俺はなんとなく視線の方を見る。
……やはり、その先に居たのは、六月さんだった。
ただでさえ、人目を惹く容姿をしているのに、それをさらに昇華させたように、純白の上着に、膝丈ほどの青色スカートを履いている。
意図してないとは思うが、ここの場所のイメージカラーに適合した服装をしていた。
よく見ると、周りの人間も、特に男性は、彼女の方を見ていた。
おそらく伴侶であろう女性から軽く体をこづかれている男性までいた。
……と、ここで、六月さんが俺の方に気づいた。
六月さんは笑顔で、俺の方に小走りをして近づいてくる。
「一ノ瀬くん。ごめん、待った?」
六月さんは、上目遣いで俺の方を見てくる。
「いや、今着いた」
なんていう、いわゆるテンプレ会話をしてみる。
「……ふふふ」
「……はは」
そして、同じタイミングで二人で笑った。
……やはり、周囲の評価のように、冷たい人ではない。
そう、改めて思った。
ふと周りを見回してみると、先程彼女を見ていた人間は全員、違う方を見ていた。
……まるで、俺と会った瞬間に存在を見失ったかのように。
「どうかした?一ノ瀬くん」
「……あ、いや。なんでもない。じゃあ、入ろうか」
この違和感の原因を突き止めることができるのは、おそらく当分先だろう。
今は水族館での海洋生物鑑賞の方に集中しよう。
そう思い直して、俺も、六月さんとともに歩みをすすめた。
自動ドアをくぐる。
最近改装工事が行われたようで、それを記念する花束が右側に飾られていた。
俺たちはそのまま、前方の階段へと足を進めた。
6階に到着する。
といっても、もともとこの水族館の基準階、つまりは入った時点で5階だったので、一回分しか上がっていない。
階段を登り終えると、目の前には、細長い水槽が見えた。
「わぁー‼‼」
六月さんは目を輝かせている。
流石に周囲には配慮しているようで、1人で水槽の近くへ駆け寄ったりはしていない。
「すごい、長い水槽だな」
俺は思ったことを口にする。
魚には詳しくないからわからないが、沢山の魚が泳いでいる。
「レッドファントムに、ルブラ、トリゴノスティグマ、レッドライントーピードまで……‼‼」
「……凄いな、六月さん」
「ほら、一ノ瀬くん、見て、あれ!あの青みがかった体に、朱色のお腹を持つあのお魚、カージナルテトラって言うんだよ!」
「……そ、そうか」
……凄い、本当に。
ここまで海洋生物好きだとは思わなかった。
口調も、普段の六月さんからは想像もできなかった。
彼女も子供らしい一面を持っていたのだ。
しばらくそのまま「自然風景」のエリアに滞在し、俺達は、次のエリアへと足を進めた。
「クラゲエリア」、「ビッグシャーレ」と書かれた看板が見える。
「……これは‼」
俺は息を飲んだ。
眼前に広がるのは、平面上の透明水槽の中に、無数と錯覚してしまうほどいたくさんいるクラゲたちだった。
周囲から照らされたカラフルなライトによってクラゲたちの透明の体が透過され、反射する。
その風景はどこか宇宙を彷彿とさせるもので、俺の心も湧き上がってしまっていた。
……当然、六月さんも例外ではなかった。
「……すごいすごい!」
俺の隣にいる六月さんは、相変わらず子供のように目を輝かせながら、クラゲを見ている。
「パシフィックシーネットルまでいるのね……‼」
とかそんなことをつぶやいている。
「六月さんは、クラゲも好きなのか?」
俺は、気になったことを尋ねた。
「うん、私はペンギンさんの次ぐらいに、クラゲさんも好きなの!」
どちらも、敬称「さん」づけで呼んでいる。
「そうか。しばらく、見てこう」
「うん!」
俺たちはそのまま、改装工事によって出来たという「ビッグシャーレ」の周りにあるサンゴ礁や、下の階に通じるであろう大水槽を見て回った。
「ペンギンは下の階にいるそうだぞ」
俺は看板を見つけて、六月さんにそう伝える。
「ペンギンさんが……!!」
瞬く間に、六月さんの瞳が喜色に染まった。
六月さんの後方には、人がたくさんいた。
そして、数多く見受けられるのは、男女のペアだった。
おそらくは、カップルで間違いない……とは、言い難いか。
なにせ、俺達のようにただの友達である可能性もある。
間違いなく、この幻想的としか言いようがない雰囲気の中、お互い好きな者同士で過ごすことは、非常に有意義で、楽しいだろう。
……まぁ、俺には縁のない話だ。
すぐさま頭を切り替え、六月さんと一緒に下の階、5階に降りた。
……そして、降りた瞬間。
「ペ、ペンギンさん……!!」
左側に、もう少しでペンギンショーが始まる、というアナウンスとともに、多数のペンギン「さん」と、飼育員が見えた。
「一ノ瀬くん、急いで行こう‼」
「ああ、行こ……ちょ」
行こう、と言おうとした矢先、六月さんは俺の手を掴み、他人の妨げにならないよう、スローペースで速歩きし始めた。
……俺の手を引いたまま。
六月さんの手は、少し冷たくて、そして、とても小さかった。
女子の手など、触れたことが無かった俺には、その一瞬は新鮮で……と、雑念を振り払う。
俺も手を握り返し、六月さんに追いついた。
一時的ではあるが、並列して歩きながら、ただ手を繋いでいる形になってしまう。
六月さんの顔を見るが、彼女は目を輝かせたまま、ペンギンの方に意識を持って行かれていた。
……まぁ、六月さんが気にしないならそれでいいか。
俺もそう思いなおすことに決め、ついに、ペンギンショーが行われる場所の目の前に着いた。
偶然空いていた最前列に俺と六月さんは二人で行き、ショーが始まるのを待った。
「……あっ……ご、ごめんなさい」
「……あ、ああ。大丈夫」
何故かここで正気に戻った、とか言ったら失礼だが、正常な判断が出来るようになった六月さんは、俺と普通に手を繋いでいたことに気づき、手を離した。
そして六月さんは、俺とは反対側の、ペンギンのいるほうへと向き直る。
「あれは……コウテイペンギンとか言う個体か?」
「コウテイペンギンは頭の付け根が黄色になっているから、あれは、フンボルトペンギンに見えがちだけど、マゼランペンギンだね!」
「マゼランペンギンか……」
今日始めて聞いた名前ではあるが、妙に頭に残る名前だった。
「それでは、はじまるよ〜!!」
俺も目の前をみると、青いウォータースーツを着た女性の飼育員さんが、そうアナウンスしていた。
そして、その合図とともに、ショーが始まった。
水中を泳いでいるペンギンは、飼育員さんが出した餌につられて縦横無尽に駆け回っていく。
そこから先は、俺も思わず息を飲むほど、素晴らしかった。
ショーは体感数分、実際は数十分程度続いて、終わった。
その間六月さんは全く言葉を喋らず、「わー!」や、「おー!」など、言語能力がかなり幼くなり、かつ、やはり目の中を輝かせて、その風景を見守っていた。
俺にとっては、この六月さんの表情を見るのも楽しみの一つだった為、それはそれで満足してた。勿論、この水族館のクオリティにも大変満足していたことは、言うまでもない。
「凄かった……‼」
まだ興奮冷めやらぬ様子の六月さんは、相変わらず子供のように、そう言った。
「ほんと、すごかったな!」
当の俺も、本当はテンションが上っており、二人して、笑いあった。
楽しいことをしていると、時間というものはすぐに過ぎ去る。
俺も、勉強や読書をしていると、すぐ時間が過ぎ去る体験をしたことが有る。
そしてそれは今回も例外ではなく、六月さんとの水族館鑑賞は、瞬く間に時間がすぎるほどに楽しかった。
道中、カフェで30分ほど休憩したり、備え付けのソファで一息ついたりもしたが、水族館を隅から隅までじっくり鑑賞していると、いつの間にか時刻は午後6時を過ぎていた。
「あ~、ほんとに楽しかった!」
「俺もだよ」
現在は水族館を出て、かなり近くにあったレストランに居た。
「六月さんほんと、感情豊かなんだな」
「……あ、あれは……。うん……そうかも」
六月さんは、その純白の頬を朱色に染めて、そう答えた。
「あ、この後なんだけど……もう一個、付き合ってくれない……?一ノ瀬くんがいいなら、だけど……」
六月さんが少し心配そうに、そう尋ねてくる。
今回のお誘いも六月さんからだから、俺を振り回している、とでも思っているのかもしれないが、俺にとっても、今回の行事はとても楽しい。
だから、断る理由なんか、無かった。
「ああ。もちろん、いいよ。俺もまだ、六月さんと居たいから」
「……わたしと……居たい?」
「あ……ちょっと間違えた。気にしないでくれ」
六月さんの意思だけでなく、俺の意思で行きたい、ということを伝えようと思ったが、その表現方法を間違えた。
六月さんと居たい、だなんて、捉えようによっては口説き文句だ。口説いたこと無いから、知らんが。
(「ふふ、翔くん、何だか、口説いてるみたいだね……それ」)
奏さんの言葉を思い出す。
……これは、今後は気をつけないとな。
「……で、何処に行くんだ?」
「……えっと、チケット、私が取り寄せたでしょ?」
そう。代金は俺が払ったが、チケットは、六月さんに取り寄せてもらっていた。
俺がやろうか?と提案はしたのだが、水族館に詳しいのは当然六月さんなので、結局押し切られる形で任せることとなった。
俺は無言で頷く。
「あれ、実は、スカイツリーの展望台とのセットで買ったの。そっちとあまり値段が変わらなかったから……。もちろん、一ノ瀬くんには、元のすみかわ水族館の値段分しか払ってもらってないから、安心してほしい」
「スカイツリー!俺も行きたいと思っていたんだ。スカイツリーの値段分はいくらだった?払うから」
俺は一応東京に住んではいるものの、スカイツリーに行ったことはなかった。
……理由はもちろん、友達がいなかったからだ。
純粋に行きたい、という気持ちがあった。
「いや!お金はいいわ。これは完全に私の我儘だから」
「……でもな」
「いや、本当に大丈夫。私、友達と何処かへ出かけるのは、今日が初めてなの。だから、せめてスカイツリー代は、その記念としても、私が負担する。いや、したい」
六月さんは、熱量を込めて、俺の目を見つめ、そう告げる。
……初めて遊ぶ友達が俺でいいのか?
とは聞けなかった。これで俺の問いに対する返答に困っていたら、俺のメンタルはズタズタに引き裂かれてしまう。
世の中には、知らなくて良いこともあるのだ。
そんなこんなで食事を終え、夜ご飯はきちんと割り勘(一応奢ろうとしたが、また押し切られた)で済ませた。
外を出ると、午後7時30分。いつの間にか辺りはほとんど暗闇、しかし、ここは街頭が多く存在し、昼間よりも良い雰囲気を醸し出していた。
綺麗な夜景を横目に、俺たちはそのまま、スカイツリーへと向かった。
六月さんの話によると、スカイツリーの展望デッキの高さは地上約350mだそうだ。
まだ少し寒さの残った夜の中、俺は六月さんとともに、スカイツリーの入り口を進み、エレベーターへと乗った。
瞬く間にエレベーターは上へ昇り、チンッという音がすると、眼前には、夜の東京を写した、ガラス張りの風景が出現した。
この時間になると、この場所にいる人は、ほとんどがカップルだった。
家族連れはいない。
昼に来たことがないが、ここは本来騒がしいのだと思う。
しかし、現在は、落ち着いたBGMと、大人ばかりいることに起因する控えめな静寂、ある程度空いた空間が残っていた。
「あそこ、空いてるから行こう」
「ええ」
そのまま六月さんと共に展望台のガラスの目の前に着き、付近にあった鉄製ポールに手をついた。
東京の夜景は好きだ。
田舎の風景も好きだが、都会の夜景も捨てたものではないと思う。
「すごいわね……」
「ああ。そうだな」
俺は東京の夜景と、この位置から見える星を眺めながら、幻想的な気分に浸っていた。
……しかし。
「一ノ瀬くん。本当にありがとう、ね」
六月さんが俺の方に向き直り、深くお辞儀してくる。
「……ん?何かしたか?」
「あなたが居てくれなかったら、私は、そうね……七花さんが言うように、未来の一ノ瀬くんと同様、天涯孤独だったかもしれない」
「……いや、俺がいなくても、大丈夫だったと思うよ、六月さんなら」
天涯孤独な未来を変えてくれたのは、俺の場合七花さんだ。
今度、七花さんに、お礼も兼ねて、ご飯でも奢ろうかな。
しかし、六月さんには、俺のような違和感問題はない。
多分俺がいなくても、いずれは友達ができていただろうと思っていた。
「……いや、それはなかった。私が変われたのは、一ノ瀬くん、あなたがいたからなの」
「……俺が?」
「うん……。あの時、中学2年生の時、溺れた私をあなたが助けてくれなかったら……あの後、私と会話してくれなかったら……。多分、私はもう、この世にはいない」
六月さんは、至極真面目な表情で、そう告げた。
「……こ、この世に?それはどういうことだ?」
「ええ……話すわ。私が溺れていたあれ、本当は、あわよくば、死ぬつもりだったの」
「……なんだと!?」
俺は驚きのあまり、大きな声を出してしまう。
周りの人が、流石にこちらを見た。
だが、それどころではない。
あのとき、死ぬつもりだった……つまりは、入水自殺しようとしていた、ということか……?
「……ええ。私は、別に虐められていたわけじゃない。でも、全くもって、同年代の人と話すことがなかった。実はね、人間は、誰にも相手にされないこと、もかなり辛くて苦しいことなの。確かに、同級生に虐げられることはなかったから、肉体的な傷はまったくなかった。……でも、私の心は、日に日に擦り減っていったの」
「……」
「死のうと思ったことは、それまで何回もあった。でも、結局、実行に移すことはできなかった。でも、あの日は、ついに耐えかねて……実行してしまったの」
「……」
俺は、圧倒されたまま、六月さんの話を黙って聞くしか無かった。
あの時俺が六月さんを助けたのは、本当に正解だったのか……?という疑問が彷彿としてくる。
そりゃ、倫理的に考えたら、助けるべきだ。
しかし、その善意は、六月さんにとっても善意と捉えられるかは、わからない。
人によって善も悪も変わる。何が善で何が悪かなんて、議論するだけ不毛だと思う。
そして俺は、死にたいと思うほどに苦しんだ人間をこの世に引き戻してしまったのだ。
それは、果たして六月さんにとって良かったことなのか、という疑問は、残らざるを得なかった。
「でも、あなたはそんな私を助けてくれた。……肉体的にも、精神的にも」
「……精神的?」
「……ええ。一ノ瀬くんは、こんな私を、1人の、普通の女の子として扱ってくれた。それは、今も同じ。誰もしてくれなくて、私が望んでいた気持ちを、あなたはいとも簡単に、私に与えてくれた。その時初めて私は、「生きたい」って思った。この世の中も捨てたものじゃない、と思った。それもこれも全部、一ノ瀬くん、あなたのおかげ。あなたは私にとって、本物の命の恩人なの」
あの日、六月さんを助けた後、彼女と交わした会話を思い出した。
「大丈夫ですか……?」
「……」
「服、汚れちゃいましたね……。よかったら、この上着、使ってください」
俺は、自分の来ていたジャケットを彼女に着せた。
これで、一時的には寒さは、多少凌げるはずだ。
「……なんで」
「ん?どうかしました?」
「……だから、なんで!あなたはそんな格好になってまで、私を助けて……‼」
言われて気づいた、俺もびしょびしょだ。
だが、そんなことはどうでも良かった。
「……そりゃ……溺れている女の子を見つけたら、助けに行くしかないでしょう」
「……私は普通の女の子じゃない‼……だから、みんな見て見ぬ振りして……」
目の前の子はそう叫んだ。
心からの悲痛の叫びを、俺は本能的に感じ取る。
「みんながどうとか、俺にはどうでもいいです。あなたは、どう見ても、普通の女の子でしょう。ちょっと髪の毛が白い、というより銀色?なくらいで、他は何も変わりませんよ」
俺がそう言うと、目の前の子は、顔だけをこちらに向け、目を丸くした。
「……わたしが、普通……?」
「……はい。普通、は嫌ですか?」
「……」
……ポタポタ、と、その少女の瞳から涙がこぼれ落ちた。
突然、助けた女の子が泣き出してしまったのだ。
「ちょ……ご、ごめんなさい……!軽率なことを……‼」
俺は、唯以外の同年代の女の子と話したことがない。
逆鱗に触れたのかもしれない……。
「いや……ありがとう……本当に、ありがとう……‼」
女の子は、改めて、こちらを真正面から見てくれる。
すごい綺麗な顔立ちをしている子だな、と思った。
「私と……お話ししてください……」
女の子は、俺にそう言う。
「……はい。もちろん」
俺にとっては遠い記憶。
当時は同学年だとは思っていなかったことや、助けることに必死だったことから、違和感なく話せたことに疑問を感じていなかった。
俺の言葉は、「普通の女の子」として扱ってほしかった六月さんの心には届いてくれたらしい。
……良かった。
あの時取った行動は、独りよがりな善ではなかったのだ。
「いや、俺は六月さんが生きてくれているだけで嬉しいから、どっちもどっちだよ」
「……またそういうこと言う。さっきも「俺もまだ、六月さんと居たいから」なんて言っちゃって……。女の子には、そういうことを軽率に言っちゃいけないんだよ……。特に、一ノ瀬くんのような、魅力に溢れた人は。」
六月さんは、儚げな表情で、そう告げる。
「……そうか。気をつけるよ」
社交辞令でも、褒められると嬉しいものだ。
それからの時間は、昔の話も含めて話し込み、さらに、時刻は9時になろうとしていた。
「……そろそろ、帰ろう」
「……ええ。そうしましょう」
六月さんは、そう言って笑った。
その笑顔を見た瞬間、この人を救えてよかったと、心から思えた。
これからの人生は、今まで苦しんだ分、誰よりも幸せであってほしいと願う。
六月さんとは最寄り駅が2つほど離れていたが、時間的に危ないので、俺は六月さんを自宅の近くまで、送ることにした。
「一ノ瀬くん、今日は、本当に、本当に、ありがとう。今までの人生で……一番楽しかった」
「……ああ。俺も本当に楽しかった。じゃあ、おやすみ」
俺がそう言って別れを告げ、六月さんは自宅へ入ろうとする、が、突然、こちらを向いた。
彼女の美しく、長い白髪が揺れる。
「これから、翔くんって……呼んでもいい?」
「……うん、構わないよ」
「ありがとう!それじゃ私のことも……下の名前で……呼んではくれないかしら?」
「……。……雪さん。これでいいか?」
「……うん!ありがとう、おやすみなさい……、あと、ここまで送ってくれてありがとう」
俺は手をふりながら、彼女が自宅に入るのを見守った。
そのまま俺は方向転換して、駅へと向かう。
「今までの人生で一番楽しかった」か……。
はぁ、と空に息を吐く。
これはため息ではなく、感嘆を込めたものだ。
時期は5月初頭、春も終わり、夏に近づこうとしていた。
そんな時期の吐息が白くなるはずもなく、おれの吐息は、色がつかずに、霧散した。
それはそれで、感慨深く、情緒があった。
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