第2話 マリア

 明くる日、ワシリーは小型宇宙船の中に居た。キリーも一緒だ。海王星は外から眺めれば、美しい青い惑星であるが、大気圏の中は水素やヘリウム、メタンガスなどで構成された、暴風の吹き荒れる地獄である。その中を液体メタンガス層まで宇宙船で降下し、収集機でメタンを集めるのだ。集められたメタンはプラントで精製されて、各スペースコロニーや地球まで運ばれて行く。宇宙時代に突入した人類にとって、地球以外の資源の確保は急務だった。ワシリーは主にプラントの外壁の修復など、宇宙空間での作業を任されていたが、そういった仕事の無い時はこうやって収集作業もこなすのである。



「今日はまた、えらい荒れてるな」


キリーが操縦席から窓の外を見て言った。外は白く濁ったガスの嵐だった。小型宇宙船はさながら荒れた大海に放り込まれた小舟の様で、油断すれば吹き飛ばされそうだった。宇宙船はぐんぐん高度を下げ、液体メタンのマントルへ到達した。周囲は超低温の凍てつく世界である。この世の果てとも言うべき、殺伐とした風景だった。ワシリーは収集機のホースをマントルへ投入する。吸入スイッチを押すと、液体メタンはみるみるタンクへ吸い込まれていった。


「こうやって我々が集めた資源が地球やコロニーへ運ばれていくのだと思うと、この地味な作業にもそれなりの意義を感じるな」


キリーが計器を見ながら呟く。


「そうですね。まあ、人間の活動はそれが何であれ、大抵誰かの役に立っているものですよ」


「そうか? 下らんものだって沢山あるだろう?」


「そういう物でもですよ。例えばポルノグラフィーですけど、ああいった物は人によっては眉をひそめる物ですが、誰かの楽しみにはなっている訳です。また、不幸にして適切な教育を受ける機会に恵まれず、あるいは機会はあっても付いていけず、他に大した取り柄が無いけれど、体だけは恵まれた女性が生きのびる道や、活躍の場を提供もしている訳です」


「お前、ポルノなんか見るのか?」


「私の趣味ではありませんが、一通り見た事はありますよ」


「何のために見るんだ? お前性欲とか無いだろ?」


「もちろん、人間を理解するためです」


「ふーん。そりゃ御苦労なこったな」



 二人はその後一日黙って作業を続け、タンクが満杯になったのを確認してプラントへ引き上げた。プラントは長期間滞在に対応するため、様々な施設を併設してある。ガスの精製工場と居住区の他に、レストランやバーやプールなど、長期に渡っての閉鎖環境生活のストレスを和らげるための施設もあった。作業を終えたワシリーは、バーへと向かった。食事を摂る必要が無く、泳ぐことも出来ないワシリーにとって、バーでの一時が唯一心の和む時間である。



 バーには既にそこそこ客が入っていた。皆のお目当てはここの専属歌手、マリアである。客席が満席になった頃を見計らって、マリアがステージに現れた。マリアは褐色の肌に豊かな黒髪、明るい緑の眼をした、グラマーな美女である。マリアはマイクをチェックすると、バンドに目配せして演奏を促した。曲はタイかそこらのアジアン風のバラードだった。仏教的な荘厳なメロディーを、現代的なデジタル楽器が奏でる。そこにマリアの澄んだ高音の歌声が重なって、えもいわれぬ幻想的な空間を作り出していた。ワシリーはうっとりと曲に聞き入った。人類は長い歴史の中で、様々な技術の革新や発明をしてきたが、最高の創作物は音楽ではないのか? 美しい音楽程、人の心を簡単に拐い、幻惑するものは無いだろう。



 ワシリーは自分が人間と同じ様に音や光などを捉える感覚器官を持っている事に感謝した。世界は論理的演算のみで推し量れる物では無いのだ。溢れる感覚的刺激もまた、世界の一部なのである。この美しい調べに身を委ね、音が移ろうままに心を遊ばせていると、ワシリーは自分にも魂があるのではないか? と思えてくるのだった。そうでなければ、こんなにもマリアの歌声に感動する筈がない。芸術を理解するためには、唯の動物的感情以上の物が必要な筈だ。動物にすら魂があるというのなら、それ以上の複雑な人間的感情に加えて、更にそれを洗練させた高度な美的感覚に心動かされるのは、きっと人間的魂の働きに違いない。歌が終わると、マリアは客たちの拍手を受けながらステージを降りて、ワシリーの隣へ座った。



「また来てくれたのね」


マリアは溢れるような白い歯を見せて笑う。体にぴったり張り付いたロイヤルブルーのベルベットのドレスから、豊かな胸がはみ出しそうだった。通常の男なら、その性的魅力の虜になっただろうが、ワシリーが虜になっているのは彼女の歌声だった。


「ええ、まあ」


「アンドロイドが音楽を聴くとは意外だったわ」


「そうですか?」


「ええ、アンドロイドっていうのはもっとこう――技術とか計算とか、そういう方面にしか興味が無いのかと思っていたのよ」


「それは偏見ですね。それに、貴女の歌を聴いていると、何と言うかこう――私にも魂と呼べるものがあるのではないか? と思えてきて」


「魂?」


「ええ。人は皆、アンドロイドには知性と感情はあるけれど魂は無いと言います。生物では無いので。そう言われればそうかもと思いますが、しかし魂が無いならどうして貴女の歌に感動出来るんです?」


「難しいことを考えるのね……。そうね、確かに何か美しい物に感動したりするのはきっと魂の働きよね」


「そう思いますか?」


「ええ、芸術っていうのは、人の魂の奥底から湧き出るものよ。そして、それを理解出来るということは、やはり魂が共鳴するからじゃないかしら?」


ワシリーは思わず両手でマリアの手を握りしめた。


「やはりそうですよね? 貴女に出会えて良かった。貴女の歌声が、私の魂の存在を保証してくれるんです」


「大袈裟ね。何だかまるで愛の告白を聞いているみたいだわ」


「そうですよ」


「えっ?」


マリアは目を丸くした。


「いえ、心配なさらず。別に私は貴女とベッドを共にしたいとかいっている訳じゃありません。そもそも物理的に不可能ですしね。私はただ、貴女と貴女の歌声を愛しているんです。私に魂の共鳴を起こさせてくれた事に感謝しているだけなんです」


「フフ。そういう事ね。そう言ってもらえると私も嬉しいわ。何時でも歌を聴きに来てね」


マリアはそう言って微笑むと、他の客の所へ移動して行った。

 

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