第39話 ヘンリエッタ

「ところでヘンリエッタ様、どうして教えて下さらなかったのですか」

「何のことよ」

「アーサー様のことに決まっているじゃありませんか」

「アーサー様?」

「えぇ、ファティマ国にお戻りになったそうじゃありませんか」

「えっ?」

「アカデミーを辞められて国に戻られたとお聞きしました。しかもマクシミリアン様までファティマ国に留学されたとか……私、夜も眠れませんでしたわ」

「マックスも?」

「はい、ヘンリエッタ様。由々しき事態だと思われませんか。ネーデルラン皇国中の男性陣は安堵しているかもしれませんけれど」


 アーサー殿下が帰国された?

 お兄様から、そんな話は聞いていない。

 しかもマックスまで留学って……。





 アーサー殿下がネーデルラン皇国に初めて来た時、彼は15歳で私はまだ8歳だった。お兄様より更に二つ年上のアーサー殿下はとても大人びて見えた。お兄様の後ろからそっと様子を窺っている私に微笑んだアーサー殿下の目元は柔らかくて、お兄様にはない包み込まれるような安心感があった。


 私は皇帝と皇后の子として両親からも周囲の人たちからも可愛がられて育った。でも年の近かった側妃の子である第一王女からは、いつも冷たい視線を投げかけられ話すこともままならなかった。一緒に遊びたいだけなのに、幼かった私はなぜ自分がそこまで疎まれているのか分からなかった。

 将来の皇太子として既に公務に忙しかったお兄様とも時間のとれない中、私は寂しさを周囲に漏らすことも出来ず、一人自室で過ごすことが多かった。

 そんな私を気にかけてくれたのはアーサー殿下だった。ファティマ国の王族としてネーデルラン皇国に留学するのは初めてであったにもかかわらず、ネーデルランの言語を流暢に話されるアーサー殿下は直ぐにこの国に馴染んだ。

 アーサー殿下と過ごすのは陽だまりの中にいるように心地よかった。そんな日々をを重ねるうちに、私のアーサー殿下への気持ちはいつしか恋になっていた。自分がアーサー殿下に一番近いところにいるのだと信じて疑わなかった。

 でもアーサー殿下の心にあるのはマリアンヌ嬢だった。

 そうと知った時の気持ちは表現しようもなかった。何とかアーサー殿下を自分だけのものにしたかった。

 だからお兄様に何とかしてくれと頼んだ。これまでお兄様にお願いごとをしたことなんかなかったのに。







「お兄様。一体どういうことですの」

「どうしたのヘティ。そんな怖い顔をして」

「アーサー殿下もマックスもファティマ国にいるそうじゃないですか」

「そうだね。アーサー殿下は帰国されたし、マクシミリアンは王立学園に留学した。どちらも本人の希望でね」


 涼しい顔をして話す様子にイラっとする。

 お兄様のこうした人を小馬鹿にしたような受け答えが昔から嫌いだった。


「本人の希望って……。何とかして欲しいとお願いしたのをお忘れですか。それとも私のことなどどうでもよいということでしょうか」

「ヘティ。君のことは妹として最大限大切にしているつもりだよ。でもアーサー殿下の帰国は止めようもないよね。彼は人質として我が国に来ていた訳ではないのだから」

「それは分かっております。でもマックスまでファティマ国に行っているのはのどういう理由なのですか」


 お兄様の顔を正面から捉えた。


「アーサー殿下の想い人が気に入ったみたいだよ」


 何食わぬ顔で答えるお兄様に直ぐに言い返すことが出来なかった。

 想い人って……。


「みんな……マリアンヌ、マリアンヌって。どこがそんなにいいんですの」

「ヘティ。マクシミリアンを取られたのが気に入らない?」

「そんなわけないっ」


 なんで私がマックスなんか。

 彼はただ同じ年だから気心が知れているだけ。だいたいマックスだって私のことなんか眼中にない。


「まぁ、落ち着きなよ。マクシミリアンがマリアンヌ嬢を落とすことが出来れば、アーサー殿下はフリーになるんじゃないかな」

「それはそうですけど、留学のことを教えてくれても良かったじゃありませんか」

「ごめんね、急だったから」

「……もういいですわ。その代わり私もファティマ国に参ります。お兄様、お力添え頂けますね」

「他でもないヘティのお願いじゃしょうがないね。だけど少しだけ時間をもえらるかな。ネーデルラン皇国の第二皇女が出向くとなればそれなりに手順が必要なことぐらい、もう理解できるだろ」

「それぐらい分かっています。私のことをいつまで子供扱いするおつもりですか。とにかくお願い致しましたからね」


 ひらひらと手を振るお兄様は、真剣に受け止めているようには見えない。でもマリアンヌ嬢を牽制するには正式な肩書で訪れた方が都合がいい。それでも手続きに時間がかかるようであれば、お忍びで行くのもありかもしれない。ファティマ国までは船で半日もかからないのだから。


「分かったよ、ヘティ。だからお忍びで行くのは止めてね」

「……」


 お兄様の笑みには有無を言わせない威圧感のようなものがあった。

 やはりお兄様は苦手だ。

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