第13話 マリーだけは

 マリーをストランド侯爵家の馬車まで送り届けた。


 どこをどう歩いて馬車寄せまでたどり着いたのか覚えていない。その間に僕はマリーと何を話しただろうか、それとも無言のままだったのだろうか。まさか自分がこんな大胆な行動に出るとは思いもしなかった。

 気が付いたらマリーに手を伸ばしていた。他の誰かに触らせたくなかった。自分の腕の中にマリーがいる。それがたまらなく嬉しかった。


 僕のマリー。





 弟のラインハルトが生まれたのは、僕が3歳の時だった。兄になったのが嬉しくて、とにかく良く面倒をみた。そんな僕の後ろをちょこちょことついて来る弟は本当に可愛かった。現国王と王妃である父と母も、僕たち兄弟に惜しみない愛情を注いでくれた。何も疑うことなく満ち足りた毎日を過ごしていた。

 そう、あの時までは……。


 10歳の誕生日。父と母が宰相を伴ってやって来た。これから王都中央にある大聖堂に行くという。皆どことなく緊張した面持ちであった。そういえばこのところ、父も母もいつもとは何かが違っていた。10歳になるという今日に、一体何の特別な意味があるというのだろうか。皆の顔つきが僕を不安にさせる。


 馬車の中で向かいの席に座る父に「ラインハルトは一緒ではないのですか」と尋ねると、「そうだ」と短く頷いて押し黙った。隣の席の母が気遣うように「ラインハルトなら大丈夫よ」と僕の肩にそっと手を置いた。


 大聖堂の正面に寄せられた馬車から降りた僕は、これから待ち受ける何かを見極めるかのように建物を見上げた。王城にも引けを取らない存在感を放つ荘厳な外観に、不安は増すばかりであった。

 聖堂の前で僕たちを出迎えたのは教皇様だった。後続の馬車から宰相が降りて来るのを確認した教皇様は、慇懃に頭を下げて「こちらでございます」と聖堂の奥へ僕たちを案内した。


 王家が訪れた際に通される貴賓室。その部屋の脇に小さな扉があった。前にも来たことのある部屋だったが、こんな扉あっただろうか。

 教皇様は懐から取り出した鍵で扉を開けると、その先に続く階段を降りて行った。父を先頭に僕たちも後に続く。誰も言葉を発する者はいなかった。

 階段を下り切ると少し開けた空間になっており、突き当りにはその先への侵入を拒むかのような重厚な扉があった。教皇様は今度は小さく呪文を唱えてその扉に手をかざした。


 ギィーー。


 扉の向こうから白い大理石で覆われた部屋が現れた。まるでそれ自体が発光しているかのように明るい。部屋の中央には泉があり、キラキラと輝くような水が流れていた。


「本日、アーサー殿下10歳の日を迎えあそばしたこと、ファティマ国教皇として誠に嬉しく存じます。この後でございますが、先ずアーサー殿下以外の方々に聖水を飲んでいただきます。そして最後に殿下がお飲みになり終了となります」


 教皇様の説明を受けた僕は拍子抜けした。なんだ聖水を飲むだけなのか。だが父も母もその表情は硬いままだった。

 

 教皇様は泉の脇に備えられた小さな杯を手渡していく。それからガラス瓶を手に取ると泉の水を汲み上げ杯へと注いだ。


「それではお飲み下さい」


 それぞれが粛々と杯を飲み干していく。

 皆が飲み終わると教皇様は僕にも杯を渡して、同じようにガラス瓶からその水を注いだ。


 いよいよ僕の番だ。

 僕は杯の中の聖水をそっと眺める。キラキラとしてはいるが、ただそれだけだ。僕はぐっとその聖水を飲んだ。特に味もしなければ、香りもなかった。この聖水に一体何の意味があるのだろうか。顔を上げると周囲の大人たちの視線が僕に集まっていた。なんだか居心地の悪さを感じて「飲み終わりました」と言った。


 僕を見ていた大人たちの目が、残念そうな憐れんだようなものに変わった。


「どうやらアーサー殿下ではないようでございますな」


 漸く発せられた教皇様の言葉に「そうだな」と小さく答えた父上の顔はどこか他人のように見えた。母上はそっと目を伏せた。


 どういうことだ。何が僕じゃないというんだ。僕は、僕は、彼らの期待に応えられなかったというのかっ。一体何なんだ、僕が何をしたっ。

 今まで自分が手にしていたものが零れ落ちていくように感じた。


 全員から杯を回収した教皇様は、静かにファティマ国にまつわる話を始めた。


 建国の祖となる当時の王が精霊の加護を受けたこと。それ以降、聖なる水を飲み妖精になることが出来たものだけが王となってきたこと。そしてその妖精を見ることが出来るのは、ただ一人、王妃となる者だけだということ。


「妖精となることが出来るのは王族の血を引く者のみですが、必ず王の子供がその資格を有するものではございません。ですからゆくゆくはアーサー殿下のお子様が王になられるかもしれないのですよ。王の血筋というのは尊いものなのです」


 僕の子供が王になるかもしれない?

 それが何だというのだろう。これまで僕はこの国を治めるべき時のために、絶えず自分を律してきた。それなのにただ妖精の姿になれるかどうか、たったそれだけで判断されるというのか。

 

 その日を境に陛下と王妃の関心は弟のラインハルトに移っていった。もちろん表立って彼らの行動が変わったわけじゃないし、別に虐げられているわけでもない。

 でも以前とは明らかに違う何かがそこにはあった。もしかしたら僕の心の在り様がそう見させているだけなのかもしれないが……。


 この日以降も僕にとって弟は可愛い存在のままであった。だがそれも弟が10歳になり次期国王になることが決まるまでだった。なんとか平穏を保っていた心は徐々に浸食されていった。僕の中に生まれたこのどろりとした感情を何と名付けたらいいのか、僕は戸惑いを隠せずにいた。


 マリーに出会ったのは、そんな感情から逃れるため隣国ネーデルランにある帝国学院への留学を決めた頃だった。


 僕はその夏、側近候補だった辺境伯子息の領地を訪れていた。辺境伯領地の背後に広がる北の森。隣国との天然要塞ともいえる危険な森ではあるが、それ故に手付かずの自然が残る美しい森でもあった。


 水の音がした。

 

 そっと歩みを進めた先で僕はマリーを見つけた。

 水で作られた鳥の羽ばたきに合わせて落ちるキラキラとした雫。一面に咲く白い花。泉の淵には銀糸のような艶やかな髪を広げて横たわる天使。


 その天使こそ、マリーだった。


 僕が何者かではなく、僕自身に向けてくれる彼女の純粋な心。その心が生み出す濁りのない魔法。彼女と過ごしていた時間、僕の心は何物にも囚われることなく輝いていられた。まさに夢のようだった。こんな風に過ごせる日がまた来るとは思ってもいなかった。

 いつの間にか蓋をしていた僕の心を開放してくれたのは、マリーだった。





 王城の回廊でマリーに触れるライを見た時、僕は漸く自覚した。僕がどれほど彼女を欲していたのかを……。


 絶対に彼女を手放したりしない。

 ライ、お前にはやらない。

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