第6話 聖水と枢機卿

 ロートシルト公爵ランスロットは、屋敷の執務室で言いようもない怒りに囚われていた。


 ドンッ。


 強く握ったこぶしを思いっきり机に振り下ろす。

 そんな行為で娘が生き返る訳ではない。そんなことは、頭では分かっている。それでも過去が変えられるならばという気持ちを抑えることは出来なかった。


 私の可愛い可愛いコレットが天に召されてもうひと月も経った。だが私の気持ちは凪いでいくどころか嵐の大海のごとく荒れて行くばかりだ。


 ただ娘の願いを叶えてやっただけの筈だった。それなのに娘は……これじゃ聖水に殺されたようなものではないか。




 10年前。


 コレットは人見知りの激しい子供だった。そんな娘が唯一好意を示したのが、ラインハルト殿下だった。殿下と共にあれたなら、娘は幸せになれるのではないか。そうだ、殿下と添わせよう。私は決意した。


 我が国の王族との婚約には、少なからず教会が絡んでいることは前々からわかっていた。だが第二王子との婚約など公爵家の力を以てすれば、些細な事だと高を括っていた。しかし実際に懇意にしていた枢機卿に話を持ちかけてみると、全く相手にされなかった。


 たかが第二王子との婚約に、何故それほど渋る。


 焦った私は教会に多額の寄進をし、執務の合間を縫っては枢機卿の下に通った。

 そんな努力の甲斐あって、私は遂に枢機卿から話を聞き出すことに成功した。


「ロートシルト閣下、こちらが聖水になります。王家の秘密ですから、くれぐれもご内密に」


 枢機卿が妖精だなんだ言い出した時には、この私を担ぐつもりなのかと腹立たしかった。それに王家の秘密なんてどうでもよかった。ただコレットのために何とか殿下の婚約者にしたかっただけだった。だから伝説紛いの枢機卿の話に私は縋ることにしたのだ。


「本当に妖精が見えるのか」

「この期に及んで噓は申しません。何せこの私がラインハルト殿下の儀式の時に実際目にしているのですから」

「そ、そうであったな。子供が飲んでも問題はないのか」

「王族のお子様は10歳でお飲みになります。他のお子様については前例がございませんので存じ上げません。どうされます? お止めになってもいいのですよ」


 目の前に置かれたガラス瓶には聖水が入っている。

 無色透明。

 ただの水だとしてもこちらには判別などつくはずもない。だがこれがなければ殿下の婚約者にはなれない。


「い、いや。持って帰る」


 私は瓶を手にすると教会を後にした。





 王妃様主催のお茶会の朝。私はコレットに聖水を飲ませた。妖精が見えるようになるよと言うと、満面の笑みを浮かべた娘こそ、私にとっては妖精そのものだった。


 そろそろ、お茶会が終わった頃か……。

 無事にコレットの願いは叶えられたのだろうか。


 気が付けば、何度も娘の帰りを確認していた。

 窓の外から馬車の音が聞こえる。

 あぁ、きっと、コレットだ。大丈夫、きっと何もかも上手くいったはずだ。


 執務室の扉が開かれる。

 頬を上気させて走ってきたコレットを、私は手を広げて抱きとめた。


「お父様、私、本当に見えました! 妖精があまりに可愛らしくて、つい突っついてしまって。それに王妃様もとてもお優しい方で」


 余程嬉しかったのだろう、コレットの言葉が止まらない。


 あぁ、本当に、本当に良かった。

 枢機卿には感謝しかない。

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