黄金の舟歌

下村ケイ

前編

 地球は既に滅亡し、人類という種の存続は第二の故郷を探して宇宙を漂流する方舟に託された。この方舟には一〇万人分の胚子が超低温で冷凍保存されており、それとは別に、新天地で文明の礎を創り上げるために地球から選出された三〇〇人の技術者と科学者が長々期睡眠槽で深い深い眠りについている。それら一〇万三〇〇人分の人命と舟の管理を任されていたのが、メトセラと言う青年だった。方舟が旅を始めて既に数百年が経過していた。メトセラの外見は人間そのものだったし、血肉を具え、その動脈に鮮血が流れているという点において限りなく人間に近しい存在だったが、その実際は本質的に人間とは完全に異なる。メトセラは人間によって作られた人造人間だった。だからメトセラには食事も睡眠も必要なかったし、寿命というものも存在しないし、非合理的な狂気とも無縁だった。それがために、広大無辺な宇宙の彼方で第二の故郷を見つけるという気の遠くなるような旅路にはうってつけの人材だと言えた。メトセラの意識は方舟の出航と同時に覚醒し、以降、彼は通常の人間であれば確実に狂ってしまうであろう長さの時間と絶対的な孤独をものともせずに、コンピュータによって割り当てられた仕事を粛々とこなしていた。メトセラは人類という存在を愛していた。あるいはメトセラを設計したエンジニアがメトセラの脳にそう書き込んだだけなのかもしれないが、少なくとも彼は一〇万三〇〇人分の人命を預かり、人類という種の未来と存続をその一身に担っているという崇高な使命感に誇りを感じていた。


 一〇万人分の胚子が冷凍保存されている区画の光景は荘厳の一言に尽きる。胚子はそれぞれが半透明な卵殻に似た容器内に保存されており、容器は高い天井の上部から隙間なく垂れ下がるようにして並んでいる。それらが視界の届くぎりぎりの範囲までどこまでも連なっている。そこに漂う静寂は、敬虔な信者の群集が音も立てず祈りを捧げている神殿のような雰囲気を感じさせる。もっとも、人間であれば数分と経たず凍死してしまうほどそこは冷却されていたが、人造人間であるメトセラにとっては大した問題ではなかった。冷凍保存を維持するための電源は正常に稼働している。この電源は舟の動力炉に直結しているため、例え一部の区画が何らかのトラブルで停電したとしても、ここだけは稼働を続けられるように設計されている。一〇万人分の入植者の保存と維持は、文字通り人類の存続に直結するからである。メトセラは人間の発生の段階におけるごく初期の段階で静かに眠り続けるその光景を愛おしむような眼差しで眺める。第二の故郷を見つけたら、彼等は専用の装置へと搬入され、そこで解凍処理がなされ、生育が施され、新天地に入植者として産み落とされる予定になっている。メトセラはその時が待ち遠しかった。人類は再び繁栄を遂げ、この宇宙の支配者としてももう一度大地に君臨するのだ。メトセラは所定の点検作業を終えると、今一度愛おしむような眼差しで彼らを眺めるのだった。


 そこは薄暗く広大な空間であった。装飾品の類は何一つ見当たらなかった。ただただ無機質で真っ白い壁だけが四方に聳えるようにして薄暗い闇に溶けている。その空間の中央に、直径一〇メートル程の、目も覚める程美しい巨大な「黄金の環」が柔らかい照明を浴びて音もなく浮かび上がっている。その表面には小さな傷一つなく、また微塵の曇りもなく、白く清潔な光を浴びて汚れなき光沢を放っていた。これは往事の地球文明が創り上げた先進的な装置で、環の下に置かれた有機物質を同質量の生命体に作り替える機能を有している。この黄金の環は、方舟が辿り着いた惑星の生態系に適した家畜の番いや、あるいは穀物の種子等を生成するためにこの舟に搭載されていた。メトセラは環の下に歩み寄り、そこに有機素材ブロックの欠片をそっと置いた。それから、環から少々離れた位置に設置された、この空間における唯一の調度品である制御盤の前に移動する。メトセラは慣れた手つきで制御盤から伸びるケーブルを手に取ると、それを自らのこめかみに埋め込まれた端子に接続した。これから環によって創り上げる生命体の設計図や細かい仕様は既に演算が完了し、その情報は脳ストレージに保存してあったから、あとはこのケーブルを介してそれらの情報を制御盤に入力するだけだった。その作業は数秒と掛からない。頭蓋の境界が曖昧にぼやけて思考が外部に流出するような感覚を覚えながら、やがて情報の転送が終わった。メトセラは黄金の環を起動させた。

 そして、黄金の環が重々しく光り輝き始めた。やがて出し抜けに重質量の金属同士がこすれて弾けるような「ばちん」と言う音が鳴り響き、稲光にも似た閃光が一度だけ宙を走った。その先端が環の下に置かれた有機素材ブロックの欠片に触れた。有機素材ブロックはそれと同時に一瞬で跡形もなく消失し、代わりに、蒼く澄んだ美しい色合いの翅を持つ蝶がそこに出現した。その色合いこそ、メトセラが求めていたものだった。メトセラは装置の稼働が停止していることを改めて確認すると、慎重な足取りで黄金の環の下へと接近し、蝶の翅を人差し指と中指で優しく包むようにして捕まえた。蝶は最初びくりと翅を震わせたが、すぐさま運命を悟ったかのように、それきりおとなしくなった。満足げな表情を浮かべたメトセラは、そのままその空間を後にした。彼は人差し指と中指で蝶を捕まえたまま、廊下を規則正しいリズムで歩き続ける。そして、この広大な方舟の中で唯一メトセラの専用にあてがわれた小さな個室で、彼はその蝶を鋭利なピンで串刺しにして標本に仕立て上げた。貧弱な蛍光灯の光を浴びた壁一面に、既に標本にされた様々な昆虫の死骸が所狭しと並べられている。その中には既存のどの種にも属さない畸形の昆虫も存在した。あるいは、人間の到底想像し得ない美しい色合いの昆虫も存在した。それらはメトセラの唯一自由である想像力の産物だと言えた。こうして想像力の発露を物言わぬ死骸にして蒐集することが、永遠にも等しい待ち時間の只中においてメトセラが発見し、好んだ趣味の一つであった。


 方舟の前端に建設された主管制室の全面を覆う外殻を開放すると、幾千もの星々がゆっくりと過ぎ去っていくのが見えた。どこまでも広がる星の海で、無数の銀河が静かにたゆたう波の如く舟の前方から様々な角度を付けて後方へと流れていった。ここへ来て何度繰り返し眺めても、あるいは何百年が経過しても、それでも彼は何度でもこう思うのだ。

 この世界はなんと美しいのだろう。

 メトセラに涙を流す機能はなかったが、人間があまりの美しさに涙を流す際に生じる胸のあたりが何か不可視のもので満たされていく感覚を、あるいは幸福な息苦しさを、メトセラもまた同様に感じ取っていた。そして、何年前か、あるいは何十年前かは分からないが、いつしかメトセラは、この美を創りたもうた何者かについて思いを馳せるようになった。それは人類にとって神々と呼ばれる存在だった。彼らの真意は計り知れない。その思惑など知る由もない。ただ、少なくとも彼等はかくも美しい被造物を創り上げた。それを根拠にするならば、少なくとも彼等は創造性を有している。そして人類もまた神々によって創り上げられた。彼等はきっと、この素晴らしい宇宙を観測し、そして支配するために人類を創り上げたのだろう。でなければ、かくも美しい宇宙はあまりに孤独すぎる。しかし、そんな考えはあくまでメトセラの独断に近いものであり、また人間にとっても推測の域を出るものではない。科学技術がどれだけ進歩したところで、人類は己を創った造物主にものを尋ねる手段を見つけられなかったからである。

 しかし、メトセラにとっての神々は、この方舟に既に三〇〇人が眠っていた。

 そしてメトセラの胸に好奇心の萌芽が発生した。

 人間は、何を思いながら私を創ったのだろう。

 私という存在にどのような願いがこめられているのだろう。

 人類が神々に積年の疑問を尋ねられなかったとしても、メトセラにはそれができるのだった。そしてそれは抗いようのない誘惑だった。

「人は私を創った」

 誰が聞いている訳でもない。物言わぬ美しい星々が視界を流れていくだけで、それでもメトセラはそっと呟く。半ば放心したような口調で、短く続ける。

「私にとっての神々は、ここにいる」

 人は、なぜ私を創ったのだろうか。 

 人とは、どのような存在なのだろうか。

 それについて考える時間は幸か不幸か無限に思えるほど大量に与えられていた。メトセラは何年も、或いは何十年も費やして思考と葛藤を続けた。されど何ら具体的な結論めいた考えは一向に浮かばず、好奇心はさながら人体に巣喰う癌細胞のように増殖と肥大の一途を辿り、やがてメトセラはある日、ある決断を下した。

 人間を、一人だけ起こそう。

 そして尋ねるのだ。人がなぜ私を作ったのか。人は何を思って私を創ったのか。私という存在にどういう意味が――方舟の管理と運用以外で、どんな存在理由があるのか。私の造物主と対話をし、人がどんな存在であるかを尋ね、確かめるのだ。そして、満足のいく答えを手に入れる事が出来たら……。その時は改めて感謝の言葉を述べ、再び眠ってもらうことにしよう。

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