タクシー

「鳥取砂丘へ行ってください」

 運転席のガラスを叩いて隙間を空けるや、開口一番に客はいった。

 え?――と面食らったものの、職業柄私は後部ドアを空け、すぐに発車した。


 ターミナルを旋回して、国道一号に通ずる交差点を左に曲がった。

 終電を過ぎた夜の横浜は車のエンジン音すらはっきり聞こえ、人はいない。

 住民は曇天の夜空に灯る星の如く、その輝きすら勝てないほどに生活を失っている。これにはコロナの成果もあるだろう。


 客はどうしてか一人で、終電に乗り遅れたか、と最初は思った。

 〝コロナの成果〟で、最近JRの終電が繰り上げになったとアナウンスしていたのを耳にしたことがある。

 それが近々か行われると言っていたのでそう思ったのだが……そうなるとなぜ鳥取、それも砂丘なのか。


「お客さん、鳥取に何か用なんですか?」

 黙秘権を発動された。

 驚くほど下の車輪がよく回る。信号機がすべて青に統一するほどに。


 ミラーで容姿を窺うと、彼女は三十代後半か四十代前半といった年齢で、マスクは着用していない。

 夜温はもうすぐセンター試験を告げるくらい、開けた窓から冷えた空気が流れた。


 ――もう話したくないのよ。

 ――あなたみたいなおじさんとはね。

 月に照らされ、深夜の車内に顔だけがほの白く浮かび上がる。

 場違いなほどに軽装で、その病的な風貌から精神病棟の患者かと思わせた。

 あるいはどっかから逃避したいのでは……とも。

 例えば、夫婦間の仲違いかなんか、いわゆる〝コロナの成果〟による不仲か……


 案の定、東名はがらがらといったもので、このままいけば十時間かそこらでつくだろう。長距離はしたことがないが、タクシー運転手としての勘がそうさせる。


 そうなると、この人は金を持っているのだろうか――?


 改めて様子を窺った。相手の身体は鉛のように重く、目は確実に死んでいる。

 陸橋のつなぎ目を走行しても車が単調に揺れるだけで、女は微動として動かない。化粧もしておらず、唇は悲しげに歪めたまま。

 寝ているのか? いや、目を開けてぼんやりと空を見つめ、耽っているのだ。


 何のためにこのタクシーに乗り込み、そして砂丘に行くのか。その理由は分からない。ただ今言えるのは、彼女の現実逃避の一助になるべく、この足を停めてはいけないのだろう。現実に向き合うのはその後で十分だ。

 私は、すこし汗で滲んだハンドルを掴みなおした。丹沢山地のトンネル群を駆けていった。


 トンネルの向こうで待っていた夜空は、煌煌こうこうと座していた――驚き顔は、白い不織布マスクで隠せている。

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