26 後輩は俺の顔を見ているだけで変な気持ちがムラムラと湧き上がってくるらしい
「そう言われても、俺と指したって楽しくないと思うんですよ」
俺はいたって真面目にそう言う。白河先生は、
「春野さんは、いままでの話から察するに――やらかしたと評判の部活紹介で、木暮くんを見て好きになっちゃったわけだ。そいで、将棋なんてろくに知らないのに、木暮くんが好きで将棋部に入って、同じくらいの腕前で戦えるまで頑張って、頑張ったからいまじゃ木暮くんより強くなったわけで。だったら木暮くんが頑張らないとダメなんだよ」
と、俺と同じくらい真面目な口調で言った。
木暮くんが頑張らないとダメ。
その言葉は俺の心にぐさぐさと刺さった。その通りなのである、俺が頑張らんでどうする。……なにかいい上達法はないだろうか。なるべく即効性のあるやつ……と考えていると、
「まあ詰将棋解いたり手筋の本読んだりするのが妥当な線だろうね。すぐ強くなりたいってのが間違ってる。おおかた、即効性のある勉強法考えてたでしょ?」
ウグウーッ。やっぱりオークに拷問されるビキニアーマーの女戦士みたいな悲鳴が出そうになる。しかし俺はめげない。
「詰将棋を効率よく吸収するコツってあります?」
「あれは詰みの形を覚えるものだから、わかんなかったらウンウン言ってないでさっさと答えを見る、それにつきるね」
なるほどそれは盲点だった。いままでずっとマジでウンウン言いながら考えていた。
「いい感じの詰将棋のアプリいっぱいあるし、AIで解析してくれるアプリもあるから……そういうのも取り入れつつコツコツやってみ。人間から教わりたいなら私がいくらでも教えるよ」
「ありがとうございます。俺、部室に戻って美沙緒さんに謝ります」
「よーし。がんばれー」
というわけで部室棟に戻ってきた。部室をちらっと覗くと、なぜかジャス子先輩が美沙緒さんにアルフォートを与えてなだめすかしていた。ジャス子先輩のカバンは叡王戦のお菓子ボックスなのだろうか。いや不二家のお菓子じゃないけど……。
「たぶんさ、将棋部くんはさ、みーちゃんのことすっごい心配して、そういうこと言ったんだよ。才能があるから、もっと強い人と打たせて伸ばしたいって思ったんだよ」
いつの間にみーちゃんなんて呼ぶほど打ち解けてたんだこの二人。
「あの、ジャス子先輩。将棋は打つものじゃありません、指すものです」
「えっそうなの?! ぜんぜん知らんかったー。ま、それ食って機嫌直しなよ。あたしは戻るね。そいじゃーね」
「あ、はい……」
ジャス子先輩は将棋部部室のドアを開けて出てきた。俺の横を通り過ぎる瞬間、
「みーちゃんのエロいセリフ、いままでほぼ筒抜けだからね?」
と、そうささやいた。俺はぞわりとして、
「どういうことです」と訊ねる。
「そのまんま。みーちゃんときどきすっごいエロいこと口走るじゃん、演劇部の裏方で作業してるとき、こっちが複数人だと喋りっぱなしだからよく聞こえないけど、あたし一人でやってるときはほぼ筒抜けだから。まあそれも地方大会までかぁ」
「全国にはいかないんですか」
「行けるわけないじゃん東高の演劇部だよ、行けたら奇跡だよ。大番狂わせだよ」
「……あの、美沙緒さんの変態発言は、他の人には内緒でお願いします」
「わかってるって。だいたい誰も信じないよ、一年生で一番くぁいいみーちゃんが変態だなんて」ジャス子先輩はそう言って笑うと俺の背中をぽんと叩いた。
一呼吸おいて。
「ごめんね、美沙緒さん」
と、ドアを開けて入る。
「あ、え、その……ごめんなさい。わたし、先輩がわたしの棋力を心配してくれてたなんて考えもしなくて。ただ楽しいだけで将棋指すなんておかしいですよね」
「おかしいことはなにもない。将棋はゲームだからね、楽しいなら楽しいでいいんだ。俺、頑張るよ。美沙緒さんが入部してから、アマ初段目指すって決めてたんだ」
「おおーかっこいいーッ! さすが先輩! あ、アルフォート食べます? ジャス子先輩がくれたんですけど、あんまり食べたらニキビ増えちゃうなって」
「え、美沙緒さんってニキビとかあるの? 毛穴すらないみたいな顔だけど」
「けっこうひどいですよ。ほら」
美沙緒さんは前髪を上げてみせた。髪の生え際にぽつぽつとニキビがある。
「薬つけてもぜんっぜん治らなくて。嫌になります」
というわけでアルフォートを分けてもらった。うまい。
「美沙緒さんの手腫れちゃってるし、とりあえずきょうは指すのはよしとこうか」
「わかりました。じゃあなにしますか? セッ●スですか?」
俺はアルフォートを噴きそうになった。
「あのさ美沙緒さん、そんなふうに自分を安売りしたらいかんよ……」
「だって媚薬ロッカーみたいなものじゃないですか、ここ。媚薬将棋部部室ですよ。先輩の顔を見ているだけで変な気持ちがムラムラと湧き上がってくるんですよ」
「いや、なんていうか……そういうのはいったん中止ね。うーんと……勉強法の話でもする?」
「あ、いいですね。わたしは主に河原に落ちてるエロ漫画雑誌と美●女文庫です」
俺はまたアルフォートを噴きそうになった。
「その勉強法じゃなくて。将棋のほう!」
「あー……。詰将棋とか手筋の本くらいしか知らないですね……あとNHK杯戦観るとか」
「俺もそうなんだけど、詰将棋の本ってわかんなかったらすぐ答え見ちゃうのがいいらしいよ」
「へえーそれは初耳です。白河先生がおっしゃってたんですか?」
「うん。あの人アマチュア段位持ってるからね」
「そう言えば、なにかで聞いたんですけど、アマチュア段位の免状ってめちゃめちゃすごいお値段するらしいですね」
「まあ、名人のサイン入ってたりするし、その免状代で稼いでるところもあるんじゃない?」
「そっかあー。もしこの先、免状貰える棋力になったら、祖母を騙し討ちしようかな。お茶の免状が欲しいとか噓ついて」
美沙緒さん、結構悪いこと考えるんだな……。
「……美沙緒さん、毛虫に刺されたとこ大丈夫?」
「かゆくはないです。でも腫れてじんじんしますね」
美沙緒さんのかわいい手はひどく腫れあがっていた。可哀想だ。
「……指がまともに動かないから、しばらくピアノはお休みですね……」
「美沙緒さん、ピアノはどれくらい弾けるの? まあ説明されても分かんないかもだけど」
「えーと、いまドビュッシー勉強してます」
ど、ドビュッシー。もうめちゃめちゃ上手いんじゃないの。音楽室の壁に貼ってある人でしょ、ドビュッシーって……。
「でもぜんぜんダメなんですよ。ミスタッチするし指届かないし、自分の限界が見えてきました。伸びしろはもうないですね」
「そういうもんなの?」
「練習すればうまくなるって言っても、どうしても才能の限界ってものがありますから。わたしの限界はドビュッシーだった。それだけです」
そう言う美沙緒さんは、なにか諦めたような顔をしていた。
「あのさ、俺、将棋……もっと強くなって、美沙緒さんに負けないようになって、アマ初段になりたい。そしたら美沙緒さん、ピアノの伸びしろがないなんて悲しいこと言わないよね」
「先輩、ピアノのことまで心配してくれるんですか」
美沙緒さんは、大きく目を開いて、その大きな目からぽろっと涙をこぼした。
「……うれしい。頑張ろう。好きでやってることだもの」
「そうそうその意気。そうだなー……あ、もうこんな時間か、解散しようか」
「そうですね。それじゃ、ありがとうございました、お疲れ様でした」
「お疲れ様でした。じゃあね」
美沙緒さんは軽い足取りで部室を出ていった。その、白い夏のセーラー服の後ろ姿を見送る。俺は、本気で頑張ると決めた。将棋も、勉強も。
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