22 後輩は俺の汗ならいくらでも全身上から下まで舐めていいらしい

 美沙緒さんは、グラウンドのすみっこのクローバーがいっぱい生えてるあたりで、膝を抱えて泣いていた。俺はもしかしたらひどいことを言ってしまったのかもしれないと後悔する。美沙緒さんは俺を妄想のネタにするのが楽しいだけで、俺から好きの矢印を向けられて傷ついたのかもしれない。矢印の先はとんがっている。


 遠くから、泣いている美沙緒さんを見つめる。今回は間違いなく、俺が傷つけたのだ。


「……美沙緒さん?」

 謝ろうとそっと近づいて声をかける。


「……先輩。わたしなんか、無価値です」

 美沙緒さんは、将棋部にくるようになったころのような、どこか諦めた口調でそう呟いた。自分を無価値なんて言っちゃいけない。俺は美沙緒さんに、

「美沙緒さん、人間は価値で計られるものじゃない。人間は一人一人違うものだ。一人一人、違う個性がある。でも、人間はみんな人間だ。……なんか矛盾してるな」と、声をかけた。


 俺はポケットから財布を取り出した。小学校のころ、学校が終わると近所のプロテスタントの教会によく遊びに行っていた――同級生が牧師さんの息子だったのだ――ので、そこで聞いた話を実演してみる。


「ここに十円玉三つあるでしょ?」


 財布から十円玉を三つ取り出す。ひとつは緑色っぽいサビのわいたもの。もう一つは黒ずみ、もう一つはピカピカだ。


「……?」美沙緒さんはよく分からない顔で、俺の手のひらをみている。


「これさ、これはサビサビで、こっちはちょっと汚くて、こっちはピカピカだけど――ぜんぶ十円でしょ? サビてるからこいつは五円! ってことないでしょ?」


「でも西成区ではピカピカに磨いた五十円玉を百円で売ってるってテレビでお笑いの人が言ってました」


「西成区て……それはふつうじゃない場合だ。とにかく、人間は一人一人が尊重されて、一人一人が愛されていなくてはならない、と、牧師さんは言っていた」


「先輩ってクリスチャンなんですか?」


「いや。小学校の同級生が牧師さんの子だったからちょいちょい遊びに行っただけだ。そいつは二年生で陽明学園の生徒会メンバーやってるって噂だよ。それに牧師さんって喋るのうまいから、そいつのお父さんが陽明学園のPTA会長やってて、挨拶で登壇するたび生徒がドッカンドッカン笑うとか」


「そうですか。……先輩、先輩は――わたしのことが、なんで……好きなんですか? 可愛くないし、気もきかないし、根暗だし、ヘンタイだし」


「まずは可愛くないっていう自己認識が間違ってる」


「は?」美沙緒さんはよく分からない顔。


「美沙緒さんはすごく可愛い。街を歩いてたらみんな振り返るような、って形容する感じの顔してるんだよ。手指もすらっと長いし、色白だし、『なるほどこれが美少女!』っていう感じの顔してるんだよ!」


「……そうなんですか。先輩それ時々言いますけど、先輩以外に言われたことがないので」


「九条寺くんだって美沙緒さんのこと美人だって言うじゃないか。あんまり顔の話するのはシーラカンス日下部みたいであれだけど」


 美沙緒さんはふふっと笑った。シーラカンス日下部が面白かったらしい。


「それに気が利かないって言うけどさ、この間九条寺くんがリンチされてるとき、日下部先生だけでなく西田先生まで呼んできてくれたじゃないか」


「でもあのBBAなんの役にも立たなかったですよ」辛辣である。


「でも弦楽部の責任者は西田先生だ。あの場合はあれが最善手だよ」

 そこまで話して、俺は美沙緒さんの横に座った。


「根暗っていうのも違うと思うんだ。美沙緒さんはきっと、ちょっと恥ずかしがり屋なだけ」


「……そうでしょうか。わたしは――先輩に、好きって言ってもらえていい人間なんですね」


「そうだよ。俺は美沙緒さんが大好きだ。そりゃ妄想のネタにされてるのはときどきびっくりするけど、美沙緒さんみたいに素敵な人を、俺は知らない」


 美沙緒さんは、フフフと嬉しそうに笑った。とても可愛らしい笑い方だった。


「それがいいよ。その顔がいちばんかわいい。笑ってるのがいちばんいい」


「えへへへ……先輩、お持ち帰りしちゃいます? 朝まで一緒コースで」


「うーん、それはムリだな。アパートクソ狭いしさすがに女の子連れ込んだら深夜に帰ってくる親にビックリされる」


「珍しいですね、先輩がわたしのわいせつジョークに乗ってくるなんて」


「わいせつって自覚はあったんだね……」


 二人でクローバーの上に座り込み、ぽつぽつと会話する。


「九条寺くんのこと、どう思ってる?」


「……なんていうか、『気の合う人族』っていう言い方がいちばんしっくりきますね」


「気の合う人族、かあ。九条寺くん、俺以上に本気で美沙緒さんのこと好きなんだよ」


「えぇ?! 気の合う人族が?! こまる……」


「美沙緒さんのこと、俺以上に心配してる。ああ見えて優しいんだね」


「そう言われても――九条寺くん、行動や言動がまるっきし子供じゃないですか」


「……たしかに」


「それじゃあ、小学生とか幼稚園児が、付き合ってるごっこするのとなんも変わりませんよ」


「そうかな。美沙緒さんについては、高校生の本気っぽいけど」


「ううーん……困ったぁ~」

 美沙緒さんは本当に困っている。


「美沙緒さんが楽しいほうを選べばいいんだ。べつに俺か九条寺くんの二択ってわけじゃないし。もっとこう……バスケ部とかでカッコよくさわやかに汗流してるやつでもいいんだよ」


「バスケ部なんて嫌ですよ。先輩の汗ならいくらでも全身上から下まで舐めますけど」


 どういうことなの……。


「先輩が好きでいてくれているのは分かりました。九条寺くんがわたしを好きなのも分かりました。でも、そこから先は、放っておいてもらえたら嬉しいです」


「――どうして?」


「わたしは、……誰かに好きになってもらえる人間じゃないと思うんですよ。先輩は、もっとこう……なんていうか。もっと相応しい人間がいるんじゃないかなって。わたしなんて、おこがましいです」


「……これは端的に、フラれたということでよろしいのかな?」


「えっ、いやそんなつもりはなくて。あっそっか、自分じゃ釣り合わないから身を引きます、って、お断りの常套句だ」

 美沙緒さんは焦った口調でそう言った。


「あ、あの、その。わたしは先輩に、猫耳をつけてアナルプラグで猫しっぽをつけて、喋っていいのは猫語だけのプレイをしているのを想像したいだけで、先輩と実際に付き合うのは無理だと思ってて、なんでかっていうとわたしはそんな価値のない人間だからで」


 小声の早口で美沙緒さんは言う。アナルプラグて……。そんなことはどうでもいい。


「美沙緒さん、美沙緒さんの価値基準で判断すると、美沙緒さんは俺なんかと釣り合わないくらいの人間だ。勉強も得意だし、顔も声もかわいいし、手指もや姿勢もきれいだし、髪はさらさらだし、俺ごときが美沙緒さんと付き合うのは、ちょっと前にシーラカンス日下部が言ってた、『木暮と春野は釣り合わない』っていうのがまさに正しい。美沙緒さん、美沙緒さんはトロフィーって言っていいくらいの素晴らしい女の子だ。S●Oのア●ナみたいな」


「S●O……? ア●ナ……?」ああ、美沙緒さんは美●女文庫しか読まないんだった……。


「ライトノベルだよ。こんど貸してあげる。それはともかく、美沙緒さんはもっと、自信を持っていいんだ。誰かを好きになっていいんだ。その誰かが俺じゃなくても構わない。何度だって言うけど、美沙緒さんは幸せな人生を送る権利がある。人生エンジョイ勢なんて、悲しいこと言わないでほしいんだ」


「……先輩は、優しいですね。いままでそんなこと言ってくれた人、どこにもいませんでした」


 美沙緒さんは、横に座っている俺に、ぎゅっと抱きついてきた。


 制服の下から体温と鼓動を感じる。俺までドキドキしてくる。


 そのとき俺は、自分で「俺じゃなくても構わない」と言ったくせに、美沙緒さんが好きで好きで、仕方がなくなっていることに気付いた。これはもう、恋だ。

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