第二章 忘却砦のとにかく大変な日々  一、鶏ハム入りコールスローサンドに新たな自分を見いだす①

第二章開幕です。

恋にお仕事に大忙しの砦の面々。もちろん食べることは忘れません。あ、税金逃れもしなくちゃね。


********


 あー俺、本気で弱いわ。死ぬかも。

 目の前の敵に対峙しながら、オルコットはふと遠い目になる。

 美貌の黒兎は、酷薄な微笑を口元にはき、月の女神ルティかの巫女舞のような優雅さで剣を振るう。

「ウィルマに一日中はり付いてるなんて、羨ましすぎる」

 初対面の時から、黒兎の言葉にはとげを感じていたのだが、どうやらそれは本当に単純な嫉妬だったらしい。

 「実は家同士が領地争いしている」とか」舞踏会で挨拶するのがライバルよりも後回しにされた」とか、よくわからない理由で嫌がらせをする、王との貴族たちの複雑怪奇な思考回路に慣れすぎて深読みしてしまった。

「昼ご飯のとき、ウィルマに『あーん』してもらってたよね?」

 あれはハナさんの手伝いで、手が蜂蜜まみれだったから、「味見」とハナさんがくれた鶏ハムの切れ端をウィルマが口に入れてくれただけ。

「幸い、今日は真剣使ってるから、「うっかり」殺しちゃってもいいかな?」

 ウィルマにべったりだから殺したい。

 でも、ウィルマに怒られるから殺さない。

 実にシンプルな頭の黒兎は、「え、真剣勝負? いいわよ」とウィルマの許可が下りた途端、満面の笑みで嬲り殺しにかかってきた。。

 力強い太陽が背中を灼く。伸び放題に伸びた髪の毛が首筋にはり付いて気持ち悪い。反対に口の中はからからで、喉がひりつくようだ。

 ランゴルドの剣先が見えない。

じりじりと練兵場の端に追い詰められていく。ゆるやかに湾曲した双刀の軌跡は変幻自在で、相変わらず予測が難しい。

 瞬殺しないのは、いたぶってるんだろな。

当初より持ち堪えることはできるようになったが、敵わないことに変わりはない。

 なんとか一太刀浴びせたい。

 今日は見物人が多い。最上位者五名にウィルマ、ヘムレンが揃っている。この面子で取り囲まれると、威圧感だけで死にそうだ。だが、オルコットには張り切る理由があった。

 イツキが来ている。

 砦の中でオルコットが仕合っていないのはもう、イツキだけになってしまった。

 エイキチはふらりとランゴルドやウィルマとの仕合い最中にやって来ては、「ちっと代わりな」と二人を押し退けて相手をしてくれる。ローヴやヘイワンが言うような身体がしびれるほどの寒気を小柄な老人から感じたことはない。ぽっかり浮かんだ雲のように軽やかで飄々とした風情は、オルコット相手には本気になれないからなのか。それはとても悔しいが、ウィルマやランゴルドとやりあっているときの、エイキチの目の動き、足の運び、どこを切り取っても一分の隙も見えない身のこなしから学ぶことはいくらでもありそうだった。

 イツキはオルコットなど眼中にないように見える。仕合いを申し込んでも、「またね」の一言で流されてしまう。オルコットの剣の腕にもまったく興味がないらしい。イツキが師と仰いでいるのはエイキチとハナ。獣人三人やウィルマ、ヘムレンといったあたりが仕合って刺激的な相手というところだろう。オルコットなど砦の仲間という括りには入っているが、いいとこ友人、の弟といったポジションだ。

 ちくしょう、俺を見ろ。今はへっぽこかもしれないけど、強くなってく俺を見ろよ。

 イツキと勝負することが、今のオルコットの目標になっている。まだまだ道は遠そうだが。


「オルたん、気を抜くと殺すよ」

 ランゴルドがにこりともしないで言った。容赦ない太刀筋と同様、ランゴルドの眼光は殺気をはらんでいる。「狼や虎より兎のほうがタチが悪いんだぜえ」とヘイワンはいったがまったくその通り。こちらが死体になっても切り刻まれるのではないかと思う。 ヒュンと空気を切り裂いて、右から斬撃が来た。半歩後退。続けて左が襲いかかる。すんでのところで身を沈めると、髪の毛を数本切りとばして頭すれすれを薙いでいく。ひやりと首筋が冷たくなる。

 まずい。何やってんだ俺。ギャラリーに気を散らしている場合じゃねえぞ。

 ここでやめるのが狼や虎、しかし兎は止まらない。さらに必殺の一撃が。

「っ」

 苦し紛れだが、身を低くした無理な姿勢のまま地を蹴った。狙うは足。頭の皮一枚くらいくれてやる。一新に繰り出した一太刀がランゴルドの膝に届く。

「おっと」

 かと思われた一瞬、兎はぴょんと鳶すさった。ご丁寧に逆手の左が下から切り上げる。

「ってぇ」

 頬にちりっとした痛みが走った。切っ先がかすったらしい。

「今のはちょっとあせ…うわわわわわあ」

 肩で息をしながら顔をあげると、イツキが鬼の形相でランゴルドの黒くて長い両耳を片手でまとめて鷲掴んでいた。

「あたしゃ顔に傷つけんなって言ったよね? この無駄にでかい耳は飾りかぁっ!?」

「ちょ、ちょっと、耳、耳掴まないでぇ…」

「うるさいっ! 役に立たん耳なんぞぶった切ってやる」

 狩りの獲物のように耳を確保されたランゴルドはすっかりいつものヘタレ兎に戻って涙ぐんでいる。誰も止めようとしない。いや、止められない。

 俺か? 俺がやんなくちゃいけないのか? 自問自答する隙もなく、オルコットは、跪かせた兎を耳でぶらさげんばかりにしているイツキに制止の声をかけた。必死だった。

「こここここんなのかすり傷だしっ。舐めときゃ治るしっっ」

 ぴたり。

 イツキの動きが止まる。ぱっと手を放すと、その場にランゴルドは蹲った。耳を押さえてぷるぷるしている。可哀想に、と思う余裕はない。イツキの黒いめは、ひたりとオルコットに据えられている。ぐい、と白い両手が顔を挟み込んだ。じっと目を合わせたままだ。

 うわ、近い。至近距離で見るイツキの顔はやはり綺麗で、こんなときなのにオルコットはドキドキする。その顔がずんずん近づいて…

ぺろん。

「え?」

「舐めときゃ治るって言ったから、舐めた」

 ニッと笑ったイツキは「ハナさんの手伝いに行くね」と言い置いて、たいそうご機嫌な様子で練兵場を出ていった。

 頬を手で押さえたオルコットは、その場にぺたんと座り込んだ。何をされたのか認識できなかった。やがて、首筋からかあっと血が上ってくる。

「あれは、小悪魔というやつかのう」

「ヘムさん、あれは大魔王っていうんですよ」

「俺も舐められたい」

「…ほんっとおまいさん、勇者だねえ」

「へへっ、若(わけ)ぇなあ」

 背後で誰かが何かを喋っていたが、んもーというのどかな牛の鳴き声と共にオルコットの耳を通過していった。

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