第一章 七、トマトがけイワシの蒲焼きで色恋の初歩を知る①

 目覚めると一人ではなかった。

 オルコットは他の「こちら」側の騎士たちと同様に、領主館に住んでいる。二階の小さな一室を宛がわれ、個室であることにほっとして、毎日ぼろ布のようになりながらベッドに倒れ込むだけの日々を送っていた

 北にはない「毎日の入浴」の習慣がちょっと面倒ではあったけれども、「あちら」のじいさまたちに、領主館一階の大浴場で、入浴作法を叩き込まれ、賄いで「湯上がりおやつ」をもらっているうち、なかなかいい習慣のように思えてきた。

 北では、毎日体を拭いて、十日に一度髪を洗っていた。騎士見習いの仲間からは、「おまえ奇麗好きなんだなあ」と惘れ混じりに言われたものだが。

 湯上がりで火照った体を、冷たい果物や牛乳かんでちょっと冷まし、さらさらの清潔なシーツのベッドに飛び込む。ああ、至福。

 これだけでももう、北には帰れないと思う。

 寝付きはすこぶる良い。夢も見ずに熟睡。寝起きはちょっとぼんやりしているが、寝ぼけるというほどではない。

 しかし。

「う、狭い、暑い。重い…」

 目を開けると、白とピンクのふわふわが腕の中でもぞもぞ動いた。だんだん頭が目覚めてくる。

 昨夜も風呂で汗流して、賄いでなんか甘酸っぱいヨーグルトに果物が入ったの食べて。、珍しく早い時分に在宅していたテルから兎耳をつけられ、外すのも面倒でそのまま…あれ?

 オルコットはがばっと起き上がろうとして、横になった自分の背後から、逞しい腕ががっしり拘束していることに気がついた。自分の腕の中のふわふわしたものが何か生物らしいことも理解した。

「おはよう。よく眠れたか?」

 低く艶のある声が耳元で囁く。微かな息が耳朶をくすぐる。背中をぞわぞわと這い上がっ感覚がなんだかわからなくて、拘束を振りほどこうとするが、いっこうに放してもらえない。

「暴れるなよ。ラリッサが落ちる」

「ラリッサ?」

 後ろを振り向くこともできないまま、オルコットは視線を落とした。

 白くてふわふわした長い耳がぴるぴる動いて、薄い桃色がかった金髪に囲まれた小作りな白い顔が、眠そうに「あふん」とあくびをした。

 うわーうわーうわー女の子だ! 女の子だ! 女の子だあぁぁぁ!

 無言でパニックを起こしてじたばたもがいていると、タイミング悪くコンコンとドアが鳴った。

「ちょ、ちょっと…」

「どうぞー」

 待って、と止めようとした部屋主を無視して、背後の声が答えてしまう。丁度オルコットの顔が向いている方に入り口があり、そこが音もなく開いた。

「え?」

「あ」

 ひょこんと顔を出したウィルマはそのままの形で固まった。珍しく笑顔が消えて無表情だ。

 しばしの沈黙。

 オルコットにはどう説明していいかわからない。そもそも、何がどうなっているのか、未だにわかっていない。

 それでも身体を拘束していた腕が緩み、背後の存在が体を起こす気配がしたので、手をついて勢いよく跳ね起きた。

 右を見る。色素の薄い兎耳の少女が根巻き姿で目を擦っている。こんな時だが、可愛さにドキドキした。オルコットには男兄弟しかいない。こんなに間近で、というより密着して、年頃の女の子を見たことはなかった。

 しかも、かなり可愛い。いや、とっても可愛い。かつて見たことがないほど可愛い。

 ひとしきり心中「可愛い」を連呼し、気を取り直して左を見る。しっかり鍛えられた筋肉の乗った胸板がある。何故に裸? と見上げると、長い黒髪をかき上げている、気怠い風情の凄絶な美貌が、これまた色っぽく目を細めてこちらを見ていた。

 しっかりしろ俺。なんだかここで見とれてはいけない気がする。

 ローヴもたいがい美形だと思うのだが、目の前の男とは質が違う。この男がその気になれば、世界中の女とかなりの数の男が靡くに違いない。

「ナンゴルド、ラリッサ、お帰りなさい。でもね…」

 ドアに凭れ、眉間を指先で揉みながら、ウィルマは苦い声で言った。

「オルたんも成人男子だから、恋愛は自由だけど、いきなり同衾はどうかと思うわ。しかも兄妹一緒だなんて」

「ち、違…」

「ごめん、ウィルマ。俺、ずっとウィルマに会えなくて寂しくて寂しくて死んじゃいそうだったんだよ」

 寂しかったら裸で俺のベッドに入ってくんのかーーー?! しかも妹つきで!

 そのツッコミを口に出すと、さらに知ってはいけない事実を知ってしまいそうで、無言でだらだら冷や汗を流すしかない。

「あ、ウィルマちゃんおはよ。兄様と昨夜遅く帰ってきたの。兎さんいたから一緒に寝ちゃった」

 てへっ、と甘い声で笑う兎娘にオルコットの苦悩はますます深まった。さらに追い討ちがかかる。

「ねえ兄様。兎さんの抱き心地よかった? ラリッサも気持ちよかった」

「だ、抱き…き、気持…」

 かつて近衛騎士団の男所帯で飛び交うエロ話の嵐は、どうということもなかったのに。美少女の口から出ると、微妙なワードでも心臓がバクバクする。

 ウィルマが腕組みをして深い深いため息をついた。

「そこまで話が進んでいたのね。なら仕方がないわ。オルたん、指導教官として命じます。ここでランゴルドかラリッサか、どちらと付き合うのか決めなさい。童子に二人とだなんて、人倫にもとります」

「じ、じんり…」

 いつも笑顔な人が真顔になると百倍怖い。ウィルマにじっと見つめられたオルコットは泣きそうになった。

「ウ、ウィルマ。俺…」

 うん、とウィルマはひとつ頷いて、ますます難しい顔ををした。。

「オルたん、これはね」

 ああ、ウィルマほどまじめな人物であればこれで人生を決めるほどのことになるのか。オルコットは一瞬で観念した。覚えてない。全然覚えてないけど、可愛い兎娘か色気だだ漏れの男か、決めなくては。

 どうしてこうなっちゃったんだ。俺、まだ恋も知らないのに。

 ふと、頭を過ぎったのは、切れ長の黒い瞳。なぜか涙が滲んでくる。

 ぷ、く、ふはははは。

「あー、もうダメ。どうして信じちゃうの」

「え?」

 ウィルマが目尻の涙を拭いながら、こみ上げる笑いを押さえ切れずにまた噴き出した。見ると、兎の兄妹も、肩を震わせ、ベッドを拳でガスガスやりながら笑っている。

 事情が飲み込めてきた。つまり…

 オルコットもシーツを握りしめて震えた。頭に血が昇ってくる。

 もう誰も信じるもんか。

 涙を流して腹を抱える三人に、オルコットは違う意味で涙した。

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