第一章 六、豆アジ南蛮で歴史を考察してみました ー 会計③
初めに狼たちがいた。
そのころは、大半が森に覆われ、大河ルンメニゲの支流がいくつも流れ込む緑深い土地だった。これがおそらく四千から三千年前のことと思われる。
そして、海を渡った南のカラハン古王国から、王族の一団がやって来た。
王位継承争いに敗れたらしい。古老は、「正統王」と名乗った男が、狼一族の土地を少し分けてくれ、と懇願したのだと言った。そのとき、男は対価として幾許(いくばく)かの金と青玉石を渡してきた。海のように深い青。美しい宝玉に狼たちは喜び、異邦人たちを受け入れた。
しかし、森を切り開き細々と耕作を始めた人間たちはあっという間に増え、森を浸食し始めた。これが二千五百年前くらいのことである。
いつの間にか正統王を名乗る男の系譜は途絶え、開墾や農耕の生活の中に、彼に付いてきた貴族たちも代替わりする頃にはカラハン王国の奪還など、口にする者などまったくいなくなってしまった。
森の狼たちとは微妙な友好関係にあり、畑の作物と狩猟の獲物を細々と交換する程度の付き合いが長い間続いていたようだ。お互いの生活が違いすぎ、必要とする水も豊富で、争いの種が存在しなかったことが理由だろう。
その後、遙か北の国から旅をしてきた一族が、大河を下ってきた。この頃は、ナムカンサの東峰が今よりも低く、越えやすかったのではないか、というのが柴田の仮説だ。そして、ナムカンサの北も今とは違い、獣人たちがそれぞれ小さな村を作って生活していたらしい。文明らしい文明はなかったと考えられる。
同じ頃、東の海を渡って、虎の一族がやって来る。土地所有権の概念がない狼たちは、自分達が食うに困らない程度であれば、と双方のの入植を容認した。
だが、人間たちの間に争いが起こった。
人間たちの欲と競争心は、底なし沼のように果てが無かった。より多くを求める人々は、実り豊かな土地を取り合い、血を流した。戦いは狼人や虎人をも巻き込み、長い長い間続いた。
皆が戦いに疲弊し、それぞれの数を激減させた頃、事態は収束する。
南の一族に「エンリカ」が誕生したのだ。狼人の伝承において、「竜の娘」ともいわれる赤子の父母ははっきりしない。古老たちそれぞれに、違うことが記憶されていた。
北の一族の捨て子であったというもの。南の一族の姫であったというもの。そして、ほんとうに竜の娘であったというもの。
成長した彼女は狼人、虎人を説得し、連合軍を創設する。北の族長は討ち取られ、一族は、再びナムカンサの北へと駆逐された。
エンリカはこの地を治めることとなる。そのときの約定により、森は狼に、岩山と草原は虎にそれぞれ宛がわれ、人間とは不可侵を保つこととなった。
「さて、ここで小さな謎と大きな謎が残るんだ」
狼一族の伝説を簡潔にまとめた柴田は、酒で喉を湿した。
「ひとつは、人間側のエンリカ姫の伝説だ。これは、北から伝わってきたものだと思うんだが、狼一族の話とはあまりに違う。まるで白雪姫みたいな話になっちゃってる。そしてもうひとつ、この砦を「誰」が「何のために」作ったのか? ということだね。ここは交通の要衝ではないし、住民が食うには困らないが、大人数を支えるほどの穀物もとれない。砦を作るほどの金も技術も理由すらない。大体、ここの巨大な赤茶けた石は、どこから持ってきたんだい?」
そうだ。柴田は二十年前ここに来てからずっとそれが不思議だった。この砦はこの土地の重要性に比して立派すぎる。十字軍の宗教騎士団のように修道院を兼ねているというわけでもない。
トロニア本国からすればただ、国の南端、険しい山脈の向こう側にちょっとした土地があるというだけだ。柴田ならこんなに予算を割かない。
「今度解読された『円利賀村縁起』には「あちら」と「こちら」が繋がる前からの村の成り立ちが記されていたよ」
円利賀村のはじまりは、平家の落人村だった。
戦国時代には、あちこちの戦場に駆り出されている。残された女子供も「武芸練達にして無双なり」とか「野伏せりのごときは攻むること能はず」とある。とんでもない戦闘集団だったようだ。
約五百年前、村が半壊するほどの大地震が起こった。地滑りで村のすべてがなくなってしまうはずだった。それが「こちら」の世界に「めりこんで」止まった。
村の家々は一部が」こちら」と重なり村人は「あちら」と「こちら」を自在に行き来して暮らすようになった。この時既に砦は存在し、庄屋のめり込んだ領主館や祠のめり込んだ教会は今のままの姿である。
村の女たちは逞しかった。突然の災害。そして異変。言葉の通じない偉業の人々。
やがて意思疎通が行われるようになり、男たちが戦から帰って来た頃には、村は安寧を取り戻していた。
検地に訪れた役人に村の秘密は伏せられ、「こちら」にきてしまった里山や沼、竹林はこの地に実りをもたらした。
もちろん「あちら」においても飢饉や重税から村人の暮らしを守った。
「あちら」の方の重力が、およそ三割増なので、交流はほぼ一方通行だが、「こちら」も「あちら」も、子どもはお互いの言語を学ぶし、作物を融通しあうこともある。時には、それがお互いの命を繋いだことさえあるのだ。それは古文書にも記されていた。
「ところが、ここにもエンリカ姫が登場するんだよね。北の一族との争いから数百年が経ってるはずなのに。おかしいのは、円利賀村の文書にだけ、度々「虚空の竜」という記述が現れるんだ」
北の一族は山の向こうに追いやられてから、何度か襲来し、その度に撃退されている。「あちら」と繋がった頃には何らかの取り決めがなされたのか、砦に北の一族、すなわちトロニア王家からの人質が暮らすようになっていた。
北の撃退にも、取り決めの制定にも、エンリカ姫が関わっている。
この文書の記述が真実だとすれば、謎はさらに増えてしまう。
「エンリカ姫ってのは何者なんだろう? そして姫の盟友であるという「虚空の竜」はどこから来て、どこに消えたのか? 「こちら」はまあ、言ってみればファンタジー世界だから、竜の一頭や二頭、いてもおかしくないんだけれど」
照が目をぱちくりさせた。
「待って待って柴さん。エンリカ姫の晩年とか没年とか、文書にはなかったの?」
「ないね」
「それじゃあ」
花はにいと口の端をつりあげた。
「なら、まだ生きてるんじゃないの?」
「千年以上も? そりゃあないよ。だいたい、狼人の寿命が百二十年くらい、虎人が百五十年、ウルクたち竜人でも二百年に満たないんだ。もちろん人間はずっと短命だよ」
うーん、と首を捻った花が口を開きかけたところで、入り口の戸がスパーンと開いた。
『た、たらひま…』
薄汚れた黒い塊が、入るなりそこにへたりこんだ。柴田と照は顔をみあわせたが、花は平然としている。
『おかえりランゴルド。ずいぶんお疲れやね』
え、ランゴルド?? と男二人がぽかんと口を開けてボロ雑巾のような塊を窺う。頭部にへたった長く黒い耳がピクピクしているのを見て、やっとそれが兎人最強戦士ランゴルドであると理解した。兎戦士はがばっと顔を上げると、堰を切ったようにぶつぶつ言い始めた。
『俺もうやだ、やだよう。働いても働いてもあいつは次から次へと問題起こしやがるし。あいつがボコボコにした男どもに賠償金払ってると、呼んでもないのに女どもはべったり寄ってくるし。嫉妬にとち狂った旦那やら恋人やらが喧嘩売ってくるし。斬りかかってきたはずの男がいつの間にか口説く方に回ってるし。酷い時なんて、ばあちゃんと母親と娘で俺のベッドの前で掴みあいしててさ、止めに来た父親と兄貴が何だか殴り合いで順番決めるって何の順番なんだよもう』
可哀想だけど仕方がないよ、諦めろ。柴田は声に出さずに語りかける。人生の盛りをはるかに越えた柴田から見ても、打ちひしがれて萎れた姿でさえ震えがくるほど艶っぽいのだ。本人にその気がなくとも何とかトラップのように引き寄せられては捕まる者が多いのだろう。
人生のベテランと欲望のベクトルがはっきりしている砦の人々の間にしか、彼の安住の地はない。
『ダーリン、元気出すっちゃ。らぶらぶぴょんぴょん!』
照の励ましにとどめを刺され、気力の尽きたランゴルドはその場に頽れてしくしくやりはじめた。
『とりあえずご飯食べり。食べらな悪いことしか考えきらんとよ』
キッチンから花が声をかける。
その言葉は神託のようだった。いつだって台所に立つ女は真理を知っているのだ。
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