第一章 六、豆アジ南蛮で歴史を考察してみました ー 会計①

 今夜は風が気持ちよい。

 柴田は酒の徳利を片手に自宅の勝手口をふらりと出た。

 見上げると、大小の月に、緑色に光る異界の星々が、ここは別世界なのだと教えてくれる。十二年前に妻の静子が逝ったときにも同じ月と同じ星が輝いていた。

 静子は生前臨んだ通り、砦の南門を出てすぐ東の、村と港町と海とを見下ろす桜ヶ丘墓地に眠っている。桜の季節になると、三日掛けて桜祭りが催され、故人の墓標となっている桜の根元で故人を偲ぶ。今年も静子の桜と酒を酌み交わした。

 サルマーク辺境伯領には、火葬の習慣がない。代わりに、水脈に影響しない墓地が、いくつか指定されている。

 砦と森の間の草原が最も適しているのだが、古戦場であった上に、馬や牛や羊たちがどかどか走り回って草を食んでいれば死者も休まらないだろう。従って草原は黄色いロムラの花が繁茂し放題である。

 僕もこの月と星が見えるとこに埋めてもらおう。還暦を迎えた頃から、そんなことを考えるようになった。

 財務省の官僚から僻地の村の出納係に。同時に異界の騎士団会計係に。なかなか得難い生活だ。もう二十年にもなるが、柴田に後悔は微塵もない。

 なにしろ、毎日がわくわくすることばかりだからな。

 うっかりスキップしかけて、徳利の中身がちゃぷんと音をたてた。誰も見ていないのに、慌てて眼鏡を押し上げたり髪を整えたり、なんとなく平成を装ってみる。そんな自分が自分でもおかしくて、つい苦笑を漏らしてしまう。

 きっとまた悪だくみしてるように見えるんだろうなあ。

 柴田は今までの人生で散々言われてきたことを思う。財務官僚じだいも騎士団会計係になってからも、「また何かよからぬことを」と胡散臭げに見られていることは知っている。実は悪だくみをしているときもしていないときもあるのだが。

 今日の夕飯は何かなあ。口中に涎を溜めながらうっとり考える。先代の米ばあちゃんの賄いも素朴な味で大好きだった。冬瓜の含め煮や栗おこわなどは絶品だ。だから米ばあちゃんが大往生で亡くなったとき、みんな悲しむとともに途方に暮れたのだ。

 他の人々にはそれぞれ役割があって、一日ならともかく、毎日張り付きで大人数の料理をする余裕があるものなどいない。

 だめもとで住宅付きの求人広告をネットに上げてみたが、応募してくる物好きがいるとは砦の誰一人として予測し得なかった。いよいよハイジア村かダモス町か、あるいは虎人か狼人か、いずれかから住み込み料理人を雇わなければならないかと覚悟したとき、「あちら」の村から山を一つ越えたところの大学官舎に住んでいる夫婦がメールを送ってきた。

 応募してきた日向夫妻は不思議な人たちだ。この特殊な状況にあっさり順応した。

 花さんを初めて見たときはみんな困ったよな。

 当時を思い出して、柴田はちょっと頭をかいた。まさか盲目の素人主婦が来るとは思わなかったのだ。しかもハナは失明したばかりだと言った。しかし、賄いのキッチンに立つと、しばらく調味料や鍋の位置を手で確認してから、あり合わせの材料で試しに作ってくれた鶏飯。それを食べて満場一致で採用決定。あれはうまかった。

「鶏肉とゴボウ、それにニンニクがあったんで。炊き込みじゃなくて混ぜ込みです。力仕事や揚げ物をするのに、誰かが手伝ってくれるとありがたいんですが」

 花の申告に、当時はおとなしかった樹が手を上げた。

 最初の一週間は、樹がいつも通訳としてついていたが、これまた驚くことにすぐにトロニア語を話し始めた。訊けば、もともと五カ国語くらいはなんとかなるという。謎のハイスペック。

 夫の照は花に言わせると、「メカフェチ」「アニヲタ」「ファンシー魔人」。なんだか親近感。あれだ、勉強のしすぎで、脳神経がちょっと変な回路になっちゃってる人だ。

 夫妻と濃密な付き合いをしているうちに、樹はこれでもか、というほど快活で押しの強い娘になった。いつの間にか、永吉について外国やトロニア本国で傭兵のまねごとをすることもなくなった。

 理由を問えば、一言「ホットケーキ」と返ってきた。これも謎。 花は心ゆくまで料理ができてにぎやかに食べてもらえれば細かいことは気にしない女だった。そして照るはごはんが美味しくて機械がいじれれば細かいことは気にしない男だった。今では二人とも砦の大切な仲間だ。

「今日はねえ……」

 花が説明してくれる料理の数々が、柴田は大好きだ。

 昼飯は白身魚の粕漬け焼きだった。タキさん謹製のからし椎茸と長芋おろしの梅肉添えに珍しい物がついていた。

『イツキちゃん、これ何?』

 揚げ物担当の樹に、連れだって来ていたクリスタと美津江がこわごわと尋ねた。樹の代わりに、花がにこやかに答えた。

『珍しかろ? 鍛冶屋のセキさんが森の中で見つけたっち持って来んしゃったと。ほら、これ』

 そう言って取り出したのは、五十センチもあろうかという見事な藤の花房だった。

 甘い香りが鼻をくすぐる。しかし、柴田の知っている藤に比べると、かなり大きな房だし、花ひとつひとつも肉厚で大きい。

『一貫藤たいね。何代か前の人が持ち込んだっちゃろうねえ。森の中で自然の藤棚になっちょるらしかと』

 長い月日の間に、「あちら」の村の方から「こちら」へ完全に移住してしまった人々もいる。そういう一族は、砦を出て村や町で農業や漁業に従事したり、森の鍛冶屋セキ一家や陶工えんどー一家、竹林の竹細工師タネだ一家のように、技術者として工房を開いたりしている。長い間に狼人、虎人一族との混血も進んでいて、セキ家タネだ家には立派な耳と尻尾がある。

 すすめられるままに、薄黄色に揚がった天ぷらを抹茶塩に軽くつけて口に放り込む。しゃく、とかろやかな音の後に藤の香と抹茶のわずかな苦みが鼻に抜けた。

 うまい。東京で暮らしていた時には気づかなかった微妙な季節の移り変わりを、こうして食卓で感じることができるようになった。クリスタも美津江もまるで少女のようにはしゃいでいた。

 さて、夕飯だ。

 領主館に辿り着き、賄いの戸を開けた。かすかな期待が胸を躍らせる。ウィルマの報告によると、おととい港でオルコットはじゃこ天と様々な魚を貰ってきたはずだ。だとするとアレが期待できる。

「こんばんは、あれ? 照さん、今日は早かったんだね」

「こんばんは。今日は豆アジ南蛮だから、きっと柴さんお酒飲みに来るねっていってたんだ」

「いらっしゃい。今からご飯出すけど、先にお酒かな? 小松菜飯だけど」

「あ、ご飯ももらいます。小松菜ご飯好物なんで。酒はもちろん呑むけど。冷やで」

 柴田は徳利を振った。ちゃぷんといい音がする。花は頷くと席を立ってキッチンへ向かう。ゆっくりだが動作によどみはない。

 ただ照がじっとその後を目で追っているのには、知らないふりをした。

「今日は醸造所に行ってきたよ。新しい酒瓶をエンドー三姉妹の新作でどうかと思ってね。綺麗な青のボトルだから、カラハンの金持ち貴族に高値で売りつけよう」

 座りながら本当に悪だくみの顔をしてみせると、照はにんまりと悪人顔で笑った。

「越後屋。おぬしも悪よのう」

「何をおっしゃいますお代官様。わたくしめなぞ、まだまだでございますよ」

 二人して「ふっふっふ」「ほっほっほ」とやっているとまたやってるよ、と花が呆れたように呟いた。

 シバタは騎士団の会計のはずだったが、行きがかり上、地方銀行か信用金庫のようなことをするようになった。つまり、資金を出して産業育成、技術開発を促し、利益が出たら、鐘を回収する。

 長い間に「あちら」から持ち込まれた技術は、鍛冶、陶芸、竹細工の他に、織物・染め物、醸造、木工・漆塗り・螺鈿・蒔絵、紙すき、その他、周辺国では見られない作物・食品の数々など、広範囲にわたる。

 更にシバタが提案したガラス細工や香水、ふりかけなどはなんとか軌道に乗ってきた。

 ありがたいことに、照が教育した狼人の少女が、正真正銘の天才だった。その子が設計、改良した人力の耕耘機や稲刈り期、脱穀、精米器、漁網巻き取り機、圧搾機などは、生産性を飛躍的に向上させた

 もっとも、僅か七歳の狼少女の志望は、発明家でもエンジニアでもなく、『テル先生の第…二夫人』だそうだ。それは野望か無謀だろう、と誰しも思う。

 たまに狼姿で砦に突進してくる少女を、花は『ニーナちゃん。おやつ食べり』と、さりげなく餌付けしている。

 実は正妻の座を狙っている少女は、狼姿でも人の姿でも鼻に皺を寄せて唸るが、毎度毎度シュークリームや味噌饅頭などに陥落している。可愛い。

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