第一章 五、じゃこ天と涙を一緒に噛み締める①

 走る。 とにかく走る。


 体が悲鳴をあげ、目がかすんで足が縺れても走る。

 何のために?

「強くなるためだ!」

 一ヶ月の挑戦期間を終え、オルコットの順位は確定し、同時に職務も決定した。

 順位二十三位。

 その下には大工のテツジと馬丁のガス、会計のシバタ、そして騎士団長レイトメニエスしかいない。

 巨大な鉄の棍棒を振り回すテツジは、懐に飛び込んで首に剣を当てたところで降参した。にかっと顔を全体で笑った髭面の山賊みたいな男は、「やるなあ」と剣を当てられた首筋をぞろりと撫でた。小枝のように、縦横無尽に風を切る鉄の棒から追い回されて、体力の限界ぎりぎりの勝利だった。

「あー、また母ちゃんに怒られちまうなあ」

 ちなみにテツジの奥さんは、体の至る所が福々しく丸いツユコである。宴のときに、優しくエイキチを膝枕している姿が印象的だった。

 オルコットの知っている貴族の舞踏会や晩餐会は、もっとお互いの腹を探り合い、会話の裏を読み取ろうとする、いわば剣を持たない闘いの場だ。

 そこではツユコのような容姿の女は、無視されるか陰口をたたかれる。美しく着飾って、贅を競う華やかな貴婦人たち。。

 その代わり、こんな安心感も温かさもない。

 なんか、いいなあ。

 皆は床の上に直接座っていたのだが、酔いがまわるにつれ、三々五々潰れて寝転がった。オルコットもそこに転がって、頬に畳の跡をつけながら、ぼんやりとツユコがエイキチの背中をさすっているのを見ていた。畳という「あちら」のカーペットは、さらさらと肌触りが良く、いい匂いがした。

 「あちら」の女の人って、優しいなあ。

 イツキの仕合いを見てから、その感想はちょっと変わったのだが。

 ところが、当野ツユコと大戦するに至って、オルコットは自分の見る目のなさにがっくりきた。

 細い目をさらに細めて微笑むエプロンがけのおばさんの丸まっちい指の間から、上腕ほどの長い針が八本ニュッと現れたときは、何の冗談かと思った。

「あらあらまあまあ、あら、あら、あら」

 おっとりのんびりした掛け声を刻むように無限に飛んでくる針と、丸まっちい膝での跳び蹴りに手も足も出なかったわけだが。あの丸い体が助走もなくどうやって跳躍しているかは、今もって不明である。

 ツユコは九位。鎖鎌のゲンゾーの下。司祭のジョウナスの上だ。「あたたた、腰が」と腰をトントンしながら鎌と分銅を自在に操るゲンゾーはともかく、身の丈ほどもある鉄製の祈り数珠で締め上げておいて、「神の愛を信じなさい。しーんじーなーさーいぃぃー」と折伏してくる司祭はどうかと思う。

 他の面々もよく言って百戦錬磨、有り体に言って荒唐無稽、百鬼夜行、人外魔境な人々だった。

 剣や槍、鋼鉄の手甲から生やした鈎爪という「解りやすい」武器はもとより、仕込み杖や投げナイフのような暗器もまだ理解する。

 だが、物干し竿がいきなり三つに折れて武器になり、「三節棍っていうのよーうふふふふ」と何が嬉しいのか、笑ってばかりのミヅエばあちゃんとか、「ほれタキさんや」「ほいフキさんや」と阿吽の呼吸で豆粒のような鉄球を投げ合い、「関節も目も潰さんように加減するからの」「からの」とじゃれる子猫と遊ぶ風情の小さな小さな超高齢双子姉妹などはもう、悪夢としか思えない。中には武器を持たず、素手で闘う老人もいて、うっかりこの砦を占領した賊がいたら地獄を見るよなあ、とオルコットは鳩尾に喰らった肘打ちに蹲って喘ぎながら、他人事のようにぼんやり考えた。

 結局、オルコットに職務選択の自由はない。

 すべてが終わった後、再び騎士団長の執務室に呼び出されたヘムレンとオルコットは、これからの生活について告げられた。

「そんでさぁ、ヘムさんーぁ七位だからもう好きにしちゃったらいいんでね? 鍛錬も自主性に任せるしぃ」

「若様、お言葉」

「っさいなあ、これからずっと一緒にいんのに、たりいことやってられっかよお。ったくいつもいつもうるせーんだよ、ばばあ」

 下町の少年のような口をきく四十男は、遅すぎる反抗期をこじらせてしまったらしい。むう、と膨れた頬は、当たり前だがまったく可愛くなく、何かの生き物に似ている。

 何だっけな? とオルコットが首を捻ったところで、音もなく間合いを詰めた老婆が容赦なく騎士団長の首を後ろから鷲掴みにした。

 ぐええと騎士団長は哀れな声で呻いた。

 あ、わかった。蛙だ。

 オルコットは引っかかっていたものが分かってすっきりしたが、騎士団長はそれどころではなかった。バタバタともがきながら、老婆の手を外そうとするが果たせない。一本も表情筋を動かすことなく、アンヌマリーはいつもの抑揚のない声で言った。

「いつも申し上げておりますが、ご自分のお立場を弁えてくださいませ。アンヌマリーめは悲しゅうございます」

「やめ、やめて」

 ああ、もうやめてあげて。

 心の中で祈っても、口に出して止める勇気は持ち合わせていない。

「ア、アンヌ、し、仕事、仕事…」

 口の端から泡を噴きながら、騎士団長が絞り出した一言に、ようやっと老婆はおしおきの手を緩めた。げほごほと机に突っ伏して咳き込む四十男は、やっぱり蛙に似ている。

「ひどいよぉアンヌ」

「おつとめ、お励みなされませ」

「はい」

 背筋を伸ばしてよい返事をした騎士団長は、オルコットに告げた。

「騎士オルコット。貴方は騎士ウィルマ預かりとします。鍛錬も職務もウィルマの指示に従いなさい」

「はい」

「何か質問は?」

「ございません」

 踵を合わせ、左の拳を胸に当てて拝命した。何をさせられるにせよ、甘んじて受けようと思う。半年ごとに順位の入れ替え戦があるというから、次こそはのし上がってやる。

「いい返事です。で、騎士ヘムレン。貴方は何を職務にしますか?」

「騎士スケルトニオと相談の上、牛の世話をすることになりそうですな」

「ほほう、牛ですか」

 さよう、とヘムレンは乳搾りの手つきをしてみせた。そのわきわきした動きにオルコットと団長は同時に声を上げた。

「あんた、牛でもいいんかいっ!?」

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