英 蝶眠

Episode

 えらい難儀な話やで──明け方の起き抜けのベッドで、隣には全裸にシーツにくるまっただけという菜々子をほったらかしたままで、翔馬はスマートフォンを片手に、あぐらをかいて頭を抱えこんでしまっていた。


「どうしたの?」


「…いや別に何でもあれへんねんけども」


 焦ると翔馬は早口になる癖がある。


「先輩、何でもなくないよね?」


 もとがサークルのマネージャーであっただけに、菜々子には勘の鋭い所がある。


「…まぁ剝いた話がやな、オトンが倒れよってん」


 払暁の電話ほど、心臓に悪いものもないであろう。


「じゃあ…地元に戻らなきゃ」


「せやかて仕事どないすんねんな」


「いくら何でも、休みぐらい取れるんじゃないの?」


「それがでけたら心配なんてせぇでもえぇやろ」


 たまらず翔馬はぼやいた。


 いわゆるプロジェクトリーダーを任され、しかしコロナで変わったスケジュールの調整がようやく落ち着いた矢先での、父の昏倒である。


「まぁ休み取れへんかったら、田舎戻るだけの話や」


 半ばヤケクソ気味に翔馬は力なく吐き捨てた。





 幸い東京駅の窓口で新幹線の切符が買えたので、姫路行までの切符を押さえ、翔馬は単身で姫路まで乗ると、さらに在来線に乗り継いで、長いこと帰っていなかった町まで帰郷したのであるが、


「…別に帰りたくて帰ったんとちゃうねんけどもなぁ」


 だいいち翔馬は地元にろくな思い出がない。


 ギャンブル好きな父親はろくに家に金も入れようとせず、母親が一人で商売をして、高校まで翔馬を行かせたのであるが、進学をしたかったのに姉が大事だからと大学には行かせてもらえず、仕方なく翔馬は東京の大学の二部に入って、鶴見の工場で働きながら何とか苦学をして今の会社に入った。


 それだけでも苦虫を噛み潰したような過去であるのに、そのギャンブラーのオトンが倒れたから──本来なら放置しても良かりそうな話柄ながら、夜明け前にかかってきたオカンからの電話で、そうもゆかなくなってしまったのであるから、翔馬にすれば邪魔な話でしかないのである。


 ──このまま引き返すのもなぁ。


 東京に戻ると今度は菜々子がアレコレ言ってくる。


 タクシーで駅から大きな橋を渡り、空襲もなかった古い櫓と石垣が残る城下町の家並みの外れにある総合病院にたどり着くと、老いて背の丸まった母と、大阪のゼネコンで働いている姉がロビーにいた。


「すいません、検温をお願いします」


 玄関で遮るような看護師の検温を済ませ、病院のドアを抜けると、


「…あんたは動きが鈍臭いなぁ」


 相変わらずの口の悪い、日ごろ現場の土方を相手にしている姉は、明らかに見下ろすような物言いをした。


「しゃあないやろ、東京から姫路までどのぐらい時間かかる思ってんねんな」


「何とかなるでしょ」


 そういえば翔馬は姉とも仲が悪かった。





 オカンによるとオトンの容態は芳しいものではないようで、


「心の準備だけはしとき」


 遅めのランチの席で母親にそうは言われたが、金を入れなかった父親が最後まで周囲を振り回しているこの状況で、まともに心の準備をしろと言われたところで、


 ──そんなもん、早う逝ったったらえぇねん。


 としか翔馬は思えなかった。


 夕方、数年ぶりの実家へ戻る道中、行きしなに通った橋のそばの公園から、


 ♫夕焼〜け小焼〜けの、赤とんぼ〜


 という、帰りを促すオルゴールの音楽が流れてきた。


 この街にゆかりがあるというこの歌を聴いて育っては来たが、


 ──これでまた帰らなあかんのかい。


 翔馬はこのオルゴールの音色を聞くと、ことさら渋い感情が湧き上がってきて泣きたくなるのであるが、そこも何ら変わっていなかった。





 丑三つ時のリビングでソファに毛布でくるまって眠っていた翔馬は、再び電話のベルで起こされた。


「総合病院です」


 どうやら急変したようで、朝方まで保つかどうかは分からないとの由であった。


 オカンと姉と三人でタクシーで総合病院まで駆けつけると、


「今しがた心肺停止になりました」


 親族が諒としないと蘇生装置は止められないとのことで、母親が書類に何やら書いて、それからしばらくしてから、


「ご臨終です」


 そこで父親が一生を終えたことになったのである。


「…さよか」


 翔馬には、それしか言いようがなかった。


 ようやく解放されたような、それでいてまだ葬儀というややこしい問題もある中で、仲の悪い姉と、すっかり姉を頼っている老母を見て、


 ──自分には何の需要もないのではないのか。


 ふと翔馬は思ったのか、一人でふらりと病院を出て、例の古い家並みの方へ少し歩いてみた。


 小さな城下町ながら山の裾に二重櫓が残り、空襲らしい空襲もなかったから中には明治の頃からあるという建物やらあって、夜が白んで漆喰の壁に陽が射して桃色に染まり、悠揚迫らざる光景が広まってゆく。


 仰ぎ見ると天はどこまでも窿く、だからといって悲しげな青みは帯びてはいなかった。


 少しして病院へ戻ると、ロビーのテレビでは東京の情報番組がかかっていて、お台場の景色が映し出されている。


「…今朝のお台場は雲の切れ間から薄日が射しています」


 お天気キャスターの華やかな声が、妙に浮いたように翔馬には聞き取れたが、


「…まぁそんなもんやろな」


 誰が生まれようが誰が死のうが、世界が変わる訳ではない──そんなことを考えながら、翔馬は菜々子に父親の他界の一事をLINEで飛ばすと、朝日で明るくなった廊下を、自販機の方へ向かって歩を動かしたのであった。



【完】

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英 蝶眠 @Choumin_Hanabusa

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