第1章 はじまり

第1話 最初の死、そして

 いざ終わるとなると、存外あっけないものだった。人とはこうも簡単に死ぬものなのだ。彼自身理解した気になっていたその事実を、漸く真の意味で理解する。決して長くはない人生だった。しかしそこに後悔はない。彼の頭にあるのは解放感。ようやく赦されるのだという達成感にも似た何か。


 ――そんなことよりも女性は無事だろうか。


 交差点。青信号の歩道。突っ込んでくるトラック。所謂信号無視というもの。ニュースで見ることはあれど、まさか実際に目撃することになろうとは。

 それだけなら別に問題は無い。けれどトラックが突っ込もうとする。横断歩道には歩く女性の姿があった。咄嗟に女性を突き飛ばし、結果として女性の居た位置に彼は存在した。昔読んだ事故にあったバイカーの記事を思い出す。事故に遭ったとわかった瞬間、世界はスローモーションに見えるそうだ。これは脳が情報を素早く処理することで助かるために最適な行動を導き出そうとするからだとか。そんなことを考える余裕があるところを見るに、これは事実なのだろう。そんなどうでもいいことが彼の頭の中で処理されていった。


 そして永遠にも思える一瞬の後、青年の体は宙を舞った。


 体に大きな衝撃が走る。一瞬だけ訪れる激痛の後、肉体の操作権を失う。そして二度目の衝撃。おそらく地面にたたきつけられたのだろう。抗い難い眠気にも似た何かで、意識が遠のいていく。


 ――無事だといいんだが。


 そんなことを思いながら、意識は完全に途絶える。


 


 ――目を覚ます?


 ゆっくりと目を開ける。背中には硬い感覚、しかしコンクリートとは違う。


「煉瓦…か…?」


 立ち上がり、辺りを見回す。明らかに現代日本には似つかわしくない、どこまでも煉瓦造りの大きな建物。小さく空いた窓のような穴から外を窺うと、外は暗く空は灰色の雲に覆われている。目線を下にやると、果てしない大森林が広がっている。


 ――どういうことだ?夢か?


 そんな考えを否定するような背中の痛み。しかし現実とは思えない。何かを考えようにも、そもそも現状の理解が及ばない。ここはどこなのか。あれからどれくらい経ったのか。何故自身は生きているのか。答えの出ない思考の無限回廊をぐるぐると巡る。


「グゲガァ!!!」


 突如大きな音が響き、咄嗟に音の主を探す。それはすぐに見つかった。人間よりも小さな肉体。薄汚い緑色の肌。大きな瞳と鼻そして尖った耳を持つは、今まで遭遇したことのない生物だった。しかし知っている。確かにその生物を知っている。


 


 空想或いは伝承上の生物。存在しない筈の生物。それが彼の目の前に立っている。右手に不格好な棍棒を携え、真っ直ぐこちらを見つめている。

 10秒ほどの静止の後、状況は動く。ニヤリと笑みを浮かべたゴブリンが、勢いよく彼の方へと駆け出す。狩る者ゴブリン狩られる者人間、この場における立場は確定した。一呼吸の間に距離を詰めたゴブリンが棍棒を振りかぶる。


 ――不味いッ!


 頭を守った左腕に激痛が走る。歯を食いしばり叫びを押し殺す。間髪を入れずに来る左脚への衝撃。バランスを失った体は地面に叩きつけられる。即座に馬乗りになったゴブリンが、何度も棍棒を叩きつける。

 衝撃。衝撃。衝撃。

 いつの間にか痛みは消えていた。意識が肉体を離れていく感覚。この感覚を、知っている。死の感覚。生命が終わりゆく感覚。


 ――訳が分からない。


 何も理解できぬまま、再び意識は途絶えた。


 


 背中には硬い煉瓦の感覚。目を見開き立ち上がる。


「マジでどうなってんだ…」


 辺りに広がるのは変わり映えのしない煉瓦の建物。殴られたはずの箇所を軽く撫でる。痛みも傷跡もない。確かに感じたはずの死の感覚。しかし今、彼は確かに生きている。


 ――これは…。


 状況を整理する。明らかに現代日本とは異なる景色、そしてゴブリンの存在。さしずめここは彼の居た世界とは異なる世界。それもファンタジーに近い世界。信じがたいが、そこに来てしまったということになる。それはいい。理解しがたい事ではあるが、現状そうとしか言えない。それよりも。


 ――何故俺は


 確かに死んだはずだ。頭をさんざん棍棒で殴られたのだ、死んでいない訳がない。それ以前にトラックで撥ねられたはずだ。


 ──なのにこうして生きている。


 そこまで考えて一つの可能性に辿り着く。


 ――試すしかないか。


 男は大きく息を吐くと、煉瓦の壁に自身の頭を叩きつけはじめる。激痛が走るが無視して繰り返す。機械的にただ淡々と。そこに死に対する恐怖は無い。

 数回目で出血、これも無視。十数回目で全身から力が抜け、その場に倒れる。再び意識は遠のき、


 ――そういうことか。


 頭に傷はない。それどころか、垂れ流したはずの血液すら残っていない。至って健康な肉体を、触れながら確かめる。


 ――俺は、のか。


 ありえざる現状を、そこでしっかりと理解した。

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