最終話 トイレだった女の子
「なあ、陶子……おしっこ、飲みたいか?」
前とは違う。
今回は覚悟を決めていた。
それでも、少しだけ声が震える。
もしも、彼女が青く綺麗な瞳を輝かせながら――、
『えっ? いいのっ?』
――なんて、嬉しそうに笑ったら……そう思うと、とてもこわかった。
だが、
「……うーん?」
陶子はゆっくりと首を傾げると、しばらく黙り込み……、
「……あんたは、私におしっこを飲んでほしいの?」
……試すように、訊ね返してきた。
もしも、これが出会ったばかりの彼女なら、こんな返答はしなかっただろう。
そうだよな……俺達は、一緒に変わってきたんだもんな。
どこか寂しいと感じていた手のひらを、ぎゅっと握りしめる。
人差し指に出来た恥ずかしい切り傷が――貼ってもらった絆創膏が、少しだけ勇気をくれた。
「……俺、おしっこなんて飲むもんじゃねぇし、飲ませたくないって思ってた。でも――」
不味そうにご飯を食べていた陶子を、
少しずつ人間の女の子らしくなっていく陶子を、
真っ白な服を着て、トイレみたいな自分の姿を喜ぶ陶子を、
――傍でずっと見ていて、わからなくなった。
だって、彼女はただの女の子じゃない。
陶子は、トイレだった女の子だ。
「俺はもう、一方的な押し付けで……陶子に我慢させたくない。それに」
こんなことを言うのはきっと……愛の告白より恥ずかしいけど――、
「お、お前になら、おしっこを飲まれても……平気だっ!」
――ちゃんと伝わるように、しっかりと聴こえるように、はっきりと想いが届くように彼女へ告げた。
しかし、
「……はぁ」
「あ、あれっ?」
まさか開口一番、陶子の口から溜息が漏れるとは予想していなくて、きょとんと首を傾げる。
そして、
「ちょっと、ここ座りなさい」
「え……ここって?」
「ここよ、ここ。私の上」
彼女は呆れ顔で俺を手招くと、イスに座っている自分の上へ座るよう言ってきた。
「い、いいのか?」
「いいわよ。ていうか、私がトイレだった時に散々座ってたでしょ?」
そうは言われても……今の彼女とは体格差だってある。
そうして、うじうじと遠慮していると、
「いいから! 早く座る!」
大きな声でぴしゃりと言い放たれ、慌てて膝の上にお邪魔した。
直後、陶子に後ろからぎゅっと抱きしめられてしまう。
「なっ、陶子!?」
細い腕で脇の下から抱きしめられ、背中に温かなぬくもりを感じる。
それがくすぐったいやら、恥ずかしいやらで困惑していると、
「あー……やっぱ、落ち着くなぁ……これ」
まるで、ゆっくりと風呂に浸かったような声が聞こえてきた。
「……落ち着くって、この態勢が?」
「そうよ……懐かしいとも言えるわね」
つまり、これは彼女的にとって『便座に座り、タンクへもたれられている形』になるのか?
そうして一人で納得していると、後ろから陶子に優しく囁かれる。
「ねぇ、確かに私はトイレだった。でも、今はね……おいしいものも、たくさん知ってるよ?」
「……陶子」
彼女はきゅっと腕に力を込めると……ゆっくり、噛みしめるように語り続けた。
「私ね……あなたに名前を呼ばれるのが好き」
「ごはんを作ってもらうのも……」
「一緒に出掛けるのも……」
「家事をするのも……きっと、今のあなたと過ごす時間、全部が好き……」
「だからね? もう、トイレのままじゃできなかったこと、たくさんしたいの」
それから陶子はいつものように『ねぇ』と、甘えた声を紡ぐ。
「ねぇ、こっち向いて?」
促されるまま振り返ると、すぐ近くに陶子の顔があった。
「……知ってた?」
「何を?」
「涙ってね……じつは、おしっこと似てるんだって――」
「……え?」
次の瞬間、彼女の唇が俺の目尻へと触れた。
また、泣いてしまっていたのだろうか?
自分ではわからない。
ただ、困惑する俺の背中を陶子はどんっと押すと、立ち上がってはにかんだ。
そして、
「ふふっ……まずいわ。しょっぱくて、にがくて……とてもおいしいなんて思えない」
「陶子?」
「きっと、おしっこの味もこれと一緒ね!」
彼女は笑いながら、俺の手を引いたのだ。
「ねぇ、またご飯を作って!」
陶子につられて口元が緩む。
「……今度は、何が食べたいんだ?」
「そうねぇ……決めた! 私、あなたの好きなものが食べてみたいわ!」
その幸せそうな笑顔を前にして『わかった』という以外の言葉が、俺達には必要なかった。
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