第5話 初めてトイレは――――と思った!

「ねぇコレ見て! 早くコッチに来てよ!」


 『見て』『来て』と言う言葉たちは、すっかり陶子とうこの口癖になっていた。


「わかった、わかったから!」


 彼女にぐいぐいと手を引かれるまま風呂場へ向かう。

 すると、そこには新品同様に磨かれたピカピカのバスタブがあった!


「おお! すごく綺麗になったな!」

「でしょ! でしょっ! 見てココ! 真っ黒な汚れがあったのに跡形もないでしょ?」


 彼女は興奮気味に言うと、もう何もない場所を指差す。


「ユニットバスって言うくらいだしね! お風呂とトイレの仲でしょ? やっぱ綺麗にしてあげなきゃって思うじゃない?」


 「ねー」と猫撫で声でバスタブを愛でる様子は、さながら妹ができた姉のようにも見えた。



 しかし、楽し気な陶子を眺める俺の胸中は穏やかなばかりじゃない。

 こうしている今も、彼女とした約束が脳裏をちらついていた。



 陶子とした約束。

 それは便器以外の仕事――主に、家事手伝いをすること。

 そして、不味くてもご飯を食べることだ。


 これらの――特に、二つ目の約束をした時、彼女はひどく嫌そうな顔で頷いた。

 だが、体が人間である以上、排泄物だけを食べて生きていくことはできないだろうし。

 ……本当は、そんなもの食べて欲しくないのだけど。


 そう考えた直後『おいしくない』と言って悲しい表情をする陶子の姿が浮かび、


「…………」

「ねぇ!」

「えっ?」


 ぼうっとして俺は、彼女の呼び声で我に返った。


「次、何したらいいの? 早く言いなさいよ」

「ああ、そうだな……」


 陶子へ割り振る家事を考えながら、頭の隅で彼女がまだ食べてない物は何だったかと考える。


「じゃあ、次は――炊飯器の使い方でも覚えてもらうか」



 陶子は約束をちゃんと守っている。


 彼女は嬉々として家事を手伝ってくれた。

 この調子なら、普通のご飯もピーマンを嫌う子どものように食べてくれるだろう。


 つまり、今度は俺が彼女との約束を果たすことになる。

 そう……こんな簡単な約束は、最初から心の準備ができるまでの時間稼ぎに過ぎなかった。


 俺はただ、陶子がを食べて『おいしい』と笑う姿が見たかったのかもしれない。

 でももう、それ以上に彼女の口から『おいしくない』という言葉を聴きたくなかった。




◇ ◇ ◇


「終わったー!」


 持っていた雑巾を放り投げながら、陶子の両手が『バンザイ!』と上がる。

 その頑張りを、俺も目一杯褒めてやりたかったのだが――、


「さ! これでおしっこ飲ませてくれるのよねっ?」


 ――口を開く前に、彼女が食い気味で迫ってきて何も言えない。


「待て待て! もう一つ約束があっただろ?」

「……あー、そうだったわね。ごはんね、ごはん」


 さっきまでのテンションはどこへやら……。

 露骨に嫌そうな顔で答える陶子を他所に――、


「あれ?」


 ――俺は、スマホでどこかの出前に電話しようとしたのだが……?


「……スマホが、ない」


 ネット環境が整ってない独り暮らし部屋で……俺は外との連絡手段を一時的に失った。



「ねー、お腹空いたんですけどぉ」

「……そうだな」


 散々スマホを探し回ったが、部屋の中からは見つからなかった。


「これはもう、うんこ食べるしかないないわね!」

「そのうんこを食べるために、人間は何か食べなきゃだめなんだよ……」


 嬉々としてうんこを強要リクエストする陶子をやり過ごしつつ、狭い炊事場へ向かう。

 すると、陶子が用意した炊飯器のご飯が炊けていた。


 空腹の今は、白米だけでもごちそうと思えるが……流石におかずがほしい。

 そう思って冷蔵庫を開けたのだが、


「……これだけか」


 中には味噌しか入ってなかった。

 仕方がないからコンビニへおかずだけでも買いに行こうかと思った時、


「ねぇ、それ何? ひょっとして……か!」


 陶子のそんな勘違いが……思い付きのはじまりだった。



 作った握り飯に味噌を塗る。

 料理スキルなど皆無に等しい俺に思い付けた料理がそれだった。


「うんこだわ! ごはんにうんこを塗ってるのね!」

「そうそう。このうんこはな? 味噌って名前があるんだ。覚えとけー?」


 ここ最近で一番嬉しそうな陶子を適当にあしらいつつ、量産した握り飯へ味噌を塗る。

 内心、彼女に『騙してごめん』と謝りながら、出来上がった味噌の握り飯を食卓へと運んだ。


「じゃ、手を合わせて」

「!」


 パチンと二人で合掌した後、


「いただきます」

「いただいます!」


 声が重なる。

 直後、きらきらした瞳で「あーん」と陶子が口を開けた瞬間――


『おいしくない』

 

 ――そんな言葉が想像できた。






 しかし、






「これ……おいしい」




「……えっ?」

「これ! おいしいわ!」


 耳を疑い、目を擦る。

 だが間違いなく……俺の目前には、味噌が塗ってあるだけの握り飯を、おいしいと言って笑顔で食べる陶子がいた!


「お、おまえ……おいしいのか!?」

「な、なによ急に」


 彼女は口元にいっぱいのご飯粒をくっつけたまま、


「お、おいしいわよ……な、何? トイレがうんこ食べておいしいと思ったら、そんなに変?」


 恥ずかしそうに目線を逸らす。


「これは私の分なんだからあげないわよ! あんたはあんたのうんこを食べなさいよ――っ!?」


 俺は、


「……な、なんだよ…………」

「ちょっとっ、急にどうしたのよ!?」


 突然、うまく陶子の顔が見れなくなって……うつむいた。


「バカ……お前のせいだよ……この、すけべんきっ――」

「な、何? なんで泣いてるのよ……え、えぇ……?」


 ――お前、おいしいって思えるもの。ちゃんとあるんじゃねかっ……!




 そしてこの後、実は味噌がうんこじゃないことを延々と話して聞かせることになるのだ。

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