第二十一幕 守り守られ
居ても立っても居られなくなったわたしは、身を隠していた船室から飛び出していた。
「
駆け寄ろうとしたわたしを橙馬は掌を前に突き出して制した。
後ろに迫っていた船とは少しづつだが距離が開き始めている。追いかけてきていた二艘の内、前の船は橙馬が河へと落とした
だから、今なら橙馬の傍に走り寄っても大丈夫だと思ったのだけど……
橙馬は、制止を示す掌をかざしたまま、こちらへと歩み寄って来る。その足取りは少しふら付いていた。
「……お前は……出て……くんな。出来るだけ……人に見られないほうがいい」
後ろの船からわたしの姿が見えないように自分の身体で覆い隠すようにして、橙馬はゆっくりとわたしの前へと辿り着いた。
その左の額からは赤い鮮血が渇くことなく流れ出している。
「う、うん。でもっ、橙馬、怪我……」
髪に隠れて傷口ははっきりと見えないが、未だ止まることなく血が流れているということは、浅い傷でないことは確かだった。
その怪我に幼い頃の光景を重ねて、上手く言葉が出てこなくなった。あの時も、橙馬がこのまま死んでしまうのではないかと思って涙が止まらなくなった。今は泣いてしまわないようにするのが精一杯だった。
「……大丈夫。血が止まんねぇだけ……掠っただけだから……」
「すぐ、手当、しないと……」
恐る恐る手を伸ばす。
いつも橙馬が邪魔な髪を上げるために巻いている手拭いは、刀で切り付けられた際に切れてしまっていた。
血で貼り付いた髪に指先が触れる間際、わたしの腕はまたしても橙馬の手で受け止められてしまった。
「……いや、後でいい。なんか拭くもんだけくれ」
「で、でもっ」
「……こんなとこでお前の力を、使うわけにいかねぇだろ?」
橙馬の掌はしっかりとわたしの腕を掴んでいて、わたしが力を抜いて腕を下ろそうとするまで、離さなかった。
「……血が目に入っちまって、左が見えないんだ。なんか、拭くもん、頼むわ」
「……わかった」
諭すようにそう言われ、わたしは引き下がるしかなかった。わたしが意地を張れば張る程、橙馬は腰を下ろして身体を休めることすらしてくれなさそうな気がした。
踵を返し、駆け足に船室に戻る。
あの様子では、傷口を消毒して包帯を巻くことすら今はさせてくれなさそうだが、わたしは手当てが出来る道具一式と、言われた通りの血を拭うための布、布を濡らすための水、それらを抱えて船室を出た。
「お、おい、あんた達、なんてことをしてくれるんだ!?」
わたしが再び甲板に戻ると、そんな声が聞こえてきた。
声の主は、
見れば、まだ血の止まらない橙馬は、自分が元居た空いている櫂のところへと戻っていた。
「あの方が、誰だか知らないわけじゃないだろ!?これじゃぁ、俺達までもうあっちに戻ることが出来なくなっちまった……」
「…………」
橙馬は、何も言わなかった。ふらふらと櫂に取り付き、もう一度漕ぎ始めようとする。
橙馬が何も言わず、怪我をしていることをいいことに、船乗りはもう限界だとばかりに橙馬へと詰め寄る。
「俺には、あっちに家族がいるんだ……嫁さんと息子が……嫁さんにはもう一人旦那がいるんだ……そいつには子供がいねぇ……俺が戻らなけれりゃ、嫁も息子もあっちの旦那にとられちまう……」
涙さえ溢して、橙馬を責める船乗りは、もう櫂から手が離れてしまっている。
勿論、そのやり取りは、逆側で漕いでいる蒼龍ともう一人の船乗りにも届いているはずだ。
けれど蒼龍は、仲裁に入るわけにはいかなかった。蒼龍が今いる場所を離れれば、蒼龍の前で櫂を漕ぐ船乗りにまで恐慌が伝染してしまうだろう。いくら後ろの船が追うことを辞めてくれたとは言え、こちらの船が静止してしまえば、捕えられてしまいかねない。今船の動きが完全に止まってしまうような状況にするわけにはいかなかった。
「…………悪かったな」
橙馬はぼそりとそれだけ、深く頭を下げるわけでもなく、だからといって適当に取り繕うという感じでもなく、そう言った。
まさかただ純粋に謝りの言葉を返されるとは思っていなかったのか、船乗りはぐっと言葉に詰まった。手負いとは言え、橙馬の闘いの実力はたった今目の当たりにしたばかり、切られてもいいという覚悟で、船乗りも口火を切ったのだろう。だからこそただ謝られるとは思わなかったに違いない。
ふと気づくと、切られて短くなった橙馬の朱に近い濃い橙色の手拭いが風に流されて足元へと飛ばされてきた。千切れて半分の長さになってしまったその布は、もう頭に巻くことは出来ない。橙色に近い橙馬の髪の色にもその手拭いはよく映えて、橙馬も気に入っていたから、ずっと肌身離さず、毎日綺麗に洗って大事に使っていた布。
わたしは、その布がこれ以上飛ばされて河に落ちてしまう前に拾いあげた。残りの半分はもう飛んでいってしまったのか、切れた際に水へと落ちたのか、見当たらなかった。
意を決し、わたしは橙馬の元へと駆け寄った。
「はい、橙馬。これで血拭いて」
布と水が入った筒を渡す。
「……あ、おい!……謝ったくらいでどうにかなる話じゃ……」
わたしが割り込むように入ったことで、一度は言葉に窮した船乗りが再び口を開いた。
わたしは、さっき拾った橙馬の手拭いをお守りのように強く握り――――
「い、いいから、黙って漕いでくれ」
そう凄んで、船乗りの首元へと
「ん、んなっ!?」
蒼龍や橙馬ならともかく、体躯の小さいわたしから武力で脅され、船乗りは明らかに動揺していた。ぱっと見弱そうな子供にしか見えないわたしに脅されたところで、恐怖は感じないが、構える暇すら与えず武器を喉元に突き付けられ、跳ねのけていいものか迷っている感じだった。
「おいっ!」
「橙馬は、まず手当をして。その状態じゃ漕ぐこともちゃんと出来ないでしょ」
咎めるように声をあげた橙馬を今度はわたしが制止する。
わたしは橙馬と船乗りの間に、橙馬の盾になるように立っている。二人ともわたしより背が高いから、完全に立ちはだかるような感じにはなっていないけれど、それでも橙馬を庇うようにその場所に立っていた。
「なっ、何なんだお前たちは!?」
今更とも言える問いが、苦し紛れとばかりに船乗りの口から漏れる。
わたし程度の威圧では、蒼龍のように船乗りを黙らすまでには至らなかった。
「わ……オレは、
「……は、はん、何を言ってやがる……陽家にお前のような齢の息子などいねぇはずだ……陽家の当主様はもうご高齢で、嫡男であった陽緋様は勘当されて……」
「俺は、その
「……そ、そんな……まさか…………」
嘘を言っているわけではなかった。だが疑われて当たり前の言い分でもあった。だからこそわたしは出来るだけ頑とした口調で、精一杯凄んでそう言った。
船乗りの視線がわたしの外套を被った頭の辺りから、今にも刺さってのめり込みそうな位置に据えられた峨嵋刺へと動いていく。そしてわたし指を通している輪の部分と針のような刃の間にある装飾へとに目が留まった。
「た、確かに……それは、陽家の紋章」
そこには、円を取り囲むように小さな円が五つ並んだ太陽のような絵柄が刻まれていた。
わたしは、その飾りが何を意味しているかなど知らなかった。
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