第十九幕 纏わりつく焦燥

 船はゆっくりと動き始め、段々とその速さを増していく。

 そうりゅうが連れてきてくれた二人の船乗りは、素早い動きで船を漕ぐ。

 けれど、船が動き出すと、途端にわたしは動けなくなってしまった。

 恐怖心や緊張のせいもあるのかもしれないがなんだか足元がふわふわしているような感じで、上手く平衡を取れず、立っているのがやっとだった。


げっ、大丈夫か?」


 隣にいるとうが顔を覗きこむようにして訊いてくる。

 さっきから繋いだままの手は、互いにしっかり力を込めたまま。多分、わたしがふらつかないように橙馬が平衡をとってくれているのだと思う。


「う、うん……大丈夫」


「……そっか、じゃあオレはちょっと甲板に出てくる」


 顔色を確認するように再度わたしの顔を覗きこんで、橙馬はそう言った。ずっと繋がったままだった手がゆっくりと離される。


「……え?」


 独りになってしまうとなると心細くなって、意図せず声が漏れてしまう。


「何か手伝えることがあるかもしれねぇから」


「う、うん」


「お前も動けるようなら、陰からでも操船の仕方を見たほうがいい」


 そう言って、橙馬はひょいひょいと跳ぶように歩いて行ってしまった。

 なんだか、橙馬が凄く大人になってしまったように感じる。

 わたしはどうするべきなのだろう……

 なんだか、自分が突然幼い子供になってしまったかのような落ち着かない気持ちになって、ゆっくりと踏み出す。目に見える船底は板張りなのに、布団を踏んだかのような感触を感じる。

 歩くことは出来そうだ。よろけもしない。

 恐る恐る、積み荷から手を放し怯えた兎のように甲板に上がる入り口を目指す。足の裏の外側の方に力を入れ、揺れに沿って体重移動をはかれば、そんなに身体を揺さぶられない。橙馬のように速くは動けないが、それなりには違和感なく動く方法が解ってきた。

 外套を目元迄引き下げ、船室の入口から外を覗き込む。

 山々が聳える大地が少し離れた位置に見えた。

 本当に故郷のある大地を離れ、見知らぬ土地へと向かっていることを実感した。

 船室入口の段差に身を隠すようにして、視線を巡らす。

 船尾の左奥に、蒼龍の背中を見付けた。

 彼は、出港した陸地にずらりと並んだ他の船の様子を見ている。

 甲板の左と右には蒼龍が連れてきた二人の船乗りが声を掛け合いながら船を漕いでいた。突き出た棒のような楷を拍子を取るように交互に動かすことで船は河の流れに負けることなく先へと進んでいくようだ。

 ふと気づけば、橙馬も四本突き出た楷の一本を握り、見よう見まねで漕いでいる。


「もう少し、速度をあげられないか!?」


「……んなこと言われてもよぅ。この船は本来四人で漕ぐものなんだ。兄さんが急げっていうもんだから仕方無く、出港したんだぜ?」


「そうか、なら俺も手伝おう」


 当たり前のように楷を握っている橙馬の姿を見た蒼龍は、そう言って自分も空いている楷に取り付く。蒼龍は長物の武器を使っているせいか、熟練の船乗りと変わらぬ巧みさで楷を動かす。

 僅かにだが、先程より船の速度が速くなったことが風景の動きで判った。

 四人の息が合えば、この船はもっと速く動くのかもしれない。


「お?後続も動き出したようだぞ?」


 見れば、ズラリと港に並んだ船の左から四番目と六番目の船がゆっくりと動き出したところだった。

 その言葉に、橙馬の顔色が変わる。先程より楷を漕ぐ手に力がこもった。

 蒼龍は、振り返ることすらしないものの、僅かに眉間に皺をつくった。


「でも、なんだってまた、あんな中途半端な船から出港したんだ…………?」


 呟くような船乗りの疑問には誰も応えなかった。

 焦りが、わたし達三人に拡がる。緊張が胸の奥を締め上げる。

 瞬間、河の流れを切り裂くような朗々とした声が響いた。


「その船、待たれい!」


 威厳に満ち溢れた声だった。

 声だけで感服させられてしまいそうな、力に満ちた声だった。


「な、なんだぁ?」


「っ!?おっ、おいっ!あれって……」


 燃えるような赤い髪。

 船上で黒馬に跨がり、威風堂々と此方を見据えるその姿はまるで篝火のようだった。


「っ!?」


 思わず息を呑み、わたしは両手で口を覆った。

 噛み殺した驚愕は、決してその威厳溢れる姿だけが原因ではなかった。

 その印象的な髪の色をわたしは以前一度目にしていた。

 幾日か前の街でのこと、強盗に襲われていた歳の頃の近い少年。

 彼の髪もまた、燃えるような赤い色をしていた。

 最後尾を往く筈のこの船が一番初めに出港してしまえば、少なからず追手が来ることは判っていた。

 でもその追手が潜んでいるかもしれない誰かを探しに来たのではなく、わたしという人間を探しに来ていたのだとしたら……

 気付かれたのだ。赤い髪の少年を助けたあの時に女だと。

 だとしたら、全てわたしのせいだ。


「その船、待たれい!」


 同じ言葉がもう一度、同じ調子で繰り返される。


「お、おい!兄さん、どういうことだよっ!?」


 狼狽した様子の船乗りが、漕ぎ続ける蒼龍に向けて問う。

 蒼龍は、一瞬思案気に眼を游がせると、答えに窮した。


「話が違うじゃねぇか!?えんこく様の命だっていうから船を出したっていうのによ……」


 とうとう、船乗りの楷を握る手が止まった。

 蒼龍と橙馬は変わらず漕ぎ続けているが、明らかに速さが緩やかになった。このままでは追い付かれてしまう。


「止まらぬなら、命は無いものと思え」


 追い討ちをかけるようにそんな声が飛んでくる。


「おい、兄さんっ!何とか言えよ!こりゃあ一体全体どういうことだ!?」

「どうして炎黒様が追い掛けてくるんだ!?」


 二人の船乗りは完全に楷から離れ、蒼龍に詰め寄る。

 追い掛けてくる船は、熟練の船乗りが四人がかりで漕いでいるのだろう。着実に距離を詰めてくる。

 空いてしまった楷に取り付き、少しでも漕ぐ手伝いをするべきかと思った。

 けれど、身体が思うように動かなかった。船の揺れのせいではない小刻みな震えが全身にまとわりついていて動けなかった。


「漕いでくれ」


 低く、鋭い声が一言紡がれる。

 背後から迫る炎黒の声よりも、詰め寄る船乗りの取り乱した声よりも声量の無い落ち着いた声なのに、不思議とその言葉は船上に響いた。

 蒼龍は、器用にも片手で楷を握ったまま、もう片方の手で槍を持ち、船乗り二人に突き付けていた。


「漕がぬならば、俺がお前達を斬る。追い付かれたとて炎黒がお前達を見逃す保証もない。ならば同じことだ。お前達が生き残るためにはこのまま逃げ切るしか道はない」


 そう凄む蒼龍の声は、わたしが今まで聞いたことのないものだった。

 殺気のこもった鋭い武人のそれだった。

 船乗り達は小さく息を呑んだ。

 一瞬、助けを求めるように後ろの船へと目をやったものの、蒼龍が言った通り命乞いが必ずしも通用する相手ではないと思ったのか、慌てて元いた場所へと戻り、漕ぎ始めた。

 一度は失速した船が再び速度を上げ始める。

 けれど、縮まってしまった距離が開く程ではない。


「従わぬということだな」


 地の底から響くような声が再度投げ掛けられた。

 剣で刺し貫かれたかのような恐怖を感じた。

 震えが加速し、歯がカチカチと嫌な音をたてた。

 蒼龍も橙馬も船乗り達もその声に震え上がるようなことはなく、一心に漕ぐ。

 それもそのはず、震えて漕ぐ手を止めてしまえば命に関わるのだ。

 それでも船は段々と近付いてくる。

 漕ぎ手の経験の差はいくら命掛けであろうと簡単に埋まるはずはない。

 追い付かれるのは時間の問題だった。

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