第十七幕 月下の誓い
刀の刃に月を灯し、橙馬は神妙な口調でそう言った。
何処か鬼気迫ったその表情に、一瞬戸惑ったものの、俺は背に背負っている槍を引き抜いた。
「わかった……お前も本気でかかってこい」
きっと何か意図があるのだろう。そう思い引き受けた。
「行くぞ!」
構えたことを認めると、橙馬は一つ息を吸い気を吐くようにして間合いを詰める。
カチッ!
速い。そして重い。
降り下ろすような一撃を、槍の穂先でいなすようにして受け止めた。触れ合った金属が鋭い音をたて、微かな火花が散る。
いなしたつもりが思った以上に重く、威力を和らげるように俺は半歩後ろへと退がった。
二撃目は―――無かった。反撃を警戒してか、橙馬は元の位置に戻るかのように跳び退いていた。
以前から間合いをとるのは上手かったが、それが更に磨かれている。
隠れ里にいた頃。怪我をしていたこともあり、橙馬と本気での一騎討ちをしたことはなかった。
橙馬は、元々鍛練を行っていたこともあり、闘いの素質があった。また、耳がよいからか相手の太刀筋を読むことに長けていて、間合いをはかることに優れていた。
けれど、里にいた頃はまだまだ童らしい直情的な闘い方で、体力が伴っておらず、体術にも鋭さに欠けていた。それが今やしなやかで緩急を帯びたものへと変わっている。体術を駆使するに当たり不利になる小柄さを速さでしっかりと補い、迂闊に連撃を行わないことで体力の消耗を抑え、自身の特化した点をしっかりと活かしていた。
旅路の折、幾度かあった実戦の中で、命を懸けた闘いを経験し、俺の知らぬところで月華と共に鍛練に励み、成長したのであろう。
まだ手に一撃目の振動が残っている内に再び橙馬は跳んだ。斜め右上から左下へ向け、俺の身体ではなく、槍の房を狙うように柳葉刀を降り下ろす。
先程より深く踏み込んだ一撃を柄で受ければ、槍を折られかねない。命を獲らんとまでは思ってないだろうが橙馬は本気で俺を倒さんとしている。
「ふっ」
仕方無く槍の穂先を打ち上げるようにして刀の刃にぶつけ勢いを殺す。
しかし、それは橙馬にとって計算済みの動きだったようだ。腕が上がり、下半身に隙が出来たところを狙って、蹴撃が飛んでくる。
衝撃が来る瞬間、腹部に力を入れ衝撃に耐え―――――刹那、橙馬の口許が僅かに弛んだ。
「くっ……!!」
橙馬は、爪先ではなく、足の裏で腹を思い切り蹴飛ばした。
痛みは然程感じていない。衝撃があっただけだ。だが、その衝撃は俺にたたらを踏ますには充分だった。
ガチィっ!!
大きな火花が散った。刀と槍が噛み合う。
突くような橙馬の一撃をすんでのところで俺は受け止めていた。槍の先端部分が辛うじて刀の刀身に噛んでいた。
不安定な体勢の俺と、勢いをつけた橙馬の力は同等だった。だが一瞬でも気を抜けば、刀の向きを変えて斬り込まれかねない。
槍の間合いがなければ、橙馬は迷わず体術で次の一手を打ってきただろう。それを封じるため、俺は槍の先端部だけで橙馬を抑え込んだ。
数刻にも感じられる程の均衡が続く。実際には木の葉が地面へと舞い落ちる程度の時間でしかない。
焦れたのは橙馬だった。体力差を考え、鍔迫り合いが続くのは不利と判断したのだろう。大きく後ろへ跳んだ。
今の橙馬は、強い。
短い間ではあったが、師として武を教えた俺にとっては、橙馬の強さを誇らしく感じた。
ならば、此方もそれに応えるまで―――――俺は攻めへと転じる。
槍を一度後ろへと引く。それに反応し、橙馬の構えが攻撃に備え、低くなる。
そして俺は、足元に落ちていた小石を蹴った。
バッ!
反射的に橙馬が跳ぶ。
そこを見計らい俺は踏み込み、一度引いた槍の柄を脇で挟むようにして無理矢理穂先の向きを変え、僅かに宙に浮いた橙馬の左肩へと柄の部分を叩き込む。
宙空のため踏ん張りがきかない橙馬は、思いもよらぬ位置から打ち込まれ、地に崩れ落ちていた。
本来であればそのまま地面へ抑え込むように槍をしならせ抑え込むのだが、そこまではする必要がない。
もう勝負は決している。
膝を付いた時点で、それは敗北に他ならない。
槍の柄を橙馬の左肩に添えたまま、次の橙馬の反応を待った。
だが、橙馬は動かない。俯き、片膝を砂利の上に据えたまま、何も言わない。
止めの一撃を待っているわけではない。そこまで橙馬は愚かではない。怪我で身動きが出来ないわけでもないだろう。
「橙……」
「…………だよ」
声をかけんとした時、小さな呟きが漏れた。
何を言っているかまでは聞き取れなかった。悔しさとも、疑問とも、自嘲ともとれるような複雑な響きだった。
「橙馬?」
槍を収め、改めて名を呼ぶ。
それでも、橙馬は顔を上げない。
「……好き……なんだよ」
言い直されたその言葉は合点がいかないものだった。
「好きなんだよ……月華のことが」
「あぁ、俺も好きだ」
「違げぇよ……お前の好きとは違う」
「どういう……?」
「俺の好きは、お前の好きとは違う」
やっと、橙馬は顔を上げた。邪魔にならぬよう布を巻いてかき揚げられていた髪が勢いよく揺れ、汗とも涙ともつかぬ雫が散る。
「一人の女として、好きなんだ」
真っ直ぐにこちらを見、放たれた言葉に、何故か頭を殴られたような衝撃を受けた。年下であるはずの彼が自分よりも大人に見えた。
月華のことも橙馬のことも、産んでくれた母や今は亡き父と同様に大切で、好きなのは間違いない。
しかし、確かに橙馬の言う通り俺は今まで誰かに恋慕を抱いたことは無かった。
ぼんやりと、いつかは自分も家庭をもち、子を設けたいとは思う。けれど、世が世。武人である以上戦場で散ることもあれば、添い遂げる女人と出逢えることすらないかもしれない。今の世においてはそれが叶わなくても仕方のないものとどこかで思っていた。
「でもっ!…………駄目だ。今のままじゃ、オレは月華を護りきれない」
何も返せぬ俺を置いてけぼりにして、橙馬は訥々と話し続ける。
「それに、もしこのまま時間が経ったら、月華はアンタに惚れるに決まってる」
「そんなことはないよ。俺のような出自も知らぬ相手より、気の知れたお前を好くはずだ」
「アンタ、それ本気で言ってんのか?…………なぁ?それって、アンタは月華のことなんとも思ってないってことだよな?」
「なんともとは言わない。だが、お前のような想いは抱いていないよ」
「そっか……」
橙馬は、今一度頭を垂れ、深く息を吐いた。
けれど、再びがっと顔を上げる。
「ならっ、アンタに頼みがある!」
刀の柄を持ったまま両手を地に付き、橙馬はまた違う顔を見せた。
「オレの代わりにアイツを、月華を護ってやってくれねぇか?」
「それは、お前も共に……」
「いやっ、陽家の領地までの話じゃない。オレが強くなるまで。一人で月華を護れるようになるまで。頼むっ!この通りだ」
文字通り額を地面へと擦り付けるように深々と橙馬は頭を下げる。懇願する声は、悔しさを呑込み、恥を忍んだ、一心に願う切なるものだった。
「虫がいい話だってのは解ってる。でも、アイツは天仙の娘なんだ。これから先何回も危険な目に遭うかもしれねぇ。けど、今のオレじゃ、アイツを護ってやれねぇから……」
橙馬は、俺が快い返事を返すまで、ひたすら言葉を重ねる。
空には相も変わらず満月が浮かび、湖面に分身のようにもう一つ明るい円を描いている。
二つの満月に見届けられるように、俺と橙馬は誓約を交わした。
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