第十二幕 懸念
夕陽が辺りを紅く染め、山の稜線へと近付きつつある。
遅々とした歩みの馬から伝わる震動は、もう長時間続いているせいで床擦れのように尻に痛みを感じさせ始めた。
「まずいな……」
もう数刻にも渡って閉口していた口から勝手に言葉が漏れる。唇がかさついて張り付いていた。
腰に吊るした竹筒から水を飲み渇いた喉を潤す。
前の陣を出立したのは明け方のこと。まだ陽が昇らない暗い内に山へと入った。
先頭隊は順調に進み、昼前には登頂した。だが、我々が登頂を遂げたのは太陽が一番高い位置にある頃だった。しかも、隊の後方は殆どが樹仙導の被害に遭い住み処を追われた農民達のため、頂上での休憩を余儀無くされた。
今では先頭隊との間に随分と距離が空いてしまっただろう。隊を二分されてしまったに等しい。
このままでは、本日中に領内に入るのは難しくなる。その上後方部隊に配置されている将は少ない。俺の周囲に数人と避難民の前に数人だけ。何者かの襲撃を受けたらひとたまりもない。
前方を見渡す。道は大きく右へと湾曲し、左側の傾斜は厳しく崖に近い。更に道幅は段々と狭まっていた。
進軍を早めたいがこの先それは尚更困難になるだろう。手を打つなら今しかない。
「おい」
意を決し、近くにいる者へと声をかける。周りにいる将兵は、古くから在籍している勇将ではないもののいずれも俺より歳上だった。立場は俺のほうが上だが年端もいかない俺の指示に素直に従ってくれるものか些か疑問だった。
「はい」
僅かに怪訝そうに、前を往く将が振り返る。
「後方の隊に馬は何頭いる?」
「前方に三頭、そして今私と貴方様―――
「……そうか」
「それが、何か?」
「あぁ。このままでは先頭隊に追い付けない。難民を先導する一頭を残し、後の馬には全て順番に難民達を乗せる」
「……え?」
俺の言葉に、すぐ隣へと移動してきた将は明らかな戸惑いを示した。軍に属する将達には農民とは一線を画すという自尊心がある。馬に乗っていることが武将であることを示すわけではないが、武将が民に馬を貸す等あり得ないことだろう。しかし、今の状況を打破し、
「前を往く者達にもそう伝達を」
どうしたものか戸惑い動こうとしない将にそう言い放ち、見本を見せるように馬を降りる。長いこと馬に乗り続けたことで大地に立つと足が痺れた。
「あ、貴方様も歩いて行軍されるのですか?」
それを見、将は更に慌てる。上位の者が下位の者より目線が下になることなど無いことだ。また、下の者に苦難や危険を強い、上の者が動かないというのも今の世では至極当たり前。驚くのも当然で、無理はない。
だが今は形振り等構ってはいられない。目的を達成するためにはより合理的に動く必要がある。
「そう云ったはずだ。早く伝達に行ってくれ。でないと道が狭まり追い抜かし難くなる」
「は、はい!」
流石にその大胆な行動は戸惑っていた将を動かした。今までずっと遅々とした歩みを続けていた馬の速度を上げる。
「馬に乗せるのは、女人、老齢の者を優先さるようにしてくれ」
「わかりました!」
馬を駆り、将は葬列のように緩慢に進んでいく避難民達の横をすり抜けていく。
あの将が戻ってくるまで馬に乗っていても構わないが、それでは示しがつかない。俺はそのまま馬を引いて歩き始めた。
これで状況を変えられれば良いが……
やがて、山の終わりが見え始めた。
陽はもう殆ど山の向こうへと沈み、空は夕陽の橙と夜の藍とが混じり紫に染まっている。そろそろ篝火が必要となる頃合だ。
山裾に近付くと、傾斜は緩く、道幅は段々と広くなっているのが眼下にうかがえる。そろそろあの辺りに避難民を先導している先頭の将が見える頃だろう。
山を下りた先には、背丈の低い草地が拡がり、そこから煙が細く棚引いているのが確認出来た。
炎緋様だ。炎緋様が指揮した軍の先頭部隊が既に下山し、陣を組んでそこで我々が到着するのを待っていてくれている。
危うく、脆い、テコ入れ程度の策ではあったが、どうにか避難民達の歩を速め、先頭部隊との距離を縮めることが出来たようだ。
これで、炎緋様の目下の悩みの種であった岩山の行軍は成される。そして、ここまで来てしまえば後はもう炎家の領地へと入る。城に戻るまで二日と要らず帰還できるだろう。
ふぅ、と思わず額に滲んだ汗を手甲を着けた腕で拭う。体はそこまで疲れていないが、往きとは違い殿という大役を担ったことで精神的に疲れていた。
「火藍様!」
顔を上げると、前方から声をかけられた。
隊列の進行方向に逆らうようにして、馬を二頭引いた将が此方へと向かってくる。初めに馬を難民に与えるよう指示を出した将だった。
初め声をかけた際には俺に対して不信感を露にしていたというのに、今日の内に山を越えきれる目処がたったからか、うって変わって敬うような態度に変わっていた。
「先頭隊は無事に下山し陣を張り、避難民達ももう間も無く合流出来そうです!」
「そうか」
「はい!ですので火藍様の馬をお持ちしました。ここからは騎乗してお進み下さい」
二頭の内の一頭の手綱を差し出される。つい数刻前まで自分が乗っていた馬。疲れが見られるがまだ十分走れる。
俺は将に勧められるまま騎乗する。疲れたからではない。少し気になることがあるからだった。
「では、参りましょう」
将ももう一頭へと跨がり、登山の当初の状態へと戻る。
前方の難民達も、山の終わりが目前なせいか速度は落ちていない。
「ご苦労であった。そのまま苦労ついでに殿を任せてもいいか?」
「はい?」
またしても突然過ぎる指示に、将は返事はしたものの疑問符を隠しきれなかった。
「どういう事でしょう?」
「実は……少し気になることがあるんだ。それを確認したい。然程時間は要さない」
「と、言いますと?」
「つい先刻からつけられている気がするんだ」
「ええっ?!」
将は思わず驚きの声をあげ、慌てて口元を手で覆った。直ぐに辺りに首を巡らすが何も見えるはずもない。
そんなにあからさまな尾行ならば、今の今まで放置しているわけもなかった。
それを感じたのは、馬を降り歩き始めた時だ。視線にも満たないような微かな気配。
行軍速度が変わったからか、ほんの一瞬背後にこちらを窺うような何者がいるような気がした。けれどこんなにも襲撃に格好な場所だというのに麓が見える位置に到っても襲いかかってはこない。
「……それが真ならば、私も一緒に」
声を潜め将が言う。しかし俺は首を横に振った。
「いや、気のせいかもしれない。少し様子を見てくるだけだ、独りで構わない。それに全員が無事下山することを優先すべきだ。将が誰も殿に居ないわけにはいかない。ここを頼む。陣に着く頃には戻る。」
「わかりました」
将の返事を聞き、馬の速度を緩めると、俺は極力音をたてぬよう方向を変えた。
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