第十一幕 不穏な影
「本当に岩ばっかり……」
朝靄が漂うまだ朝とは言い難い刻。その山を前にして、わたしは見たまんまの感想を溢した。まるでそこだけ世界から忘れられてしまったかのように、樹木や草の緑が見られない。
炎家の領地に入るために越えなくてはならない山脈。その中でも最短の道筋となるこの山は、断崖に近い荒れた岩地で、木々は無く、見通しはいいものの、足場は悪かった。
「此方側はまだ傾斜もなだらかで、道幅も広いが、頂上を越えた付近から急で道幅も狭いという。迂回路もないから普通の山より注意が必要だ」
食糧等を入れた袋を携え、
馬がないわたし達は尚のこと時間がかかるかもしれない。
そのための備えは蒼龍と
「よし、陽が昇りきる前に行こう。まだ薄暗いからくれぐれも足元には気をつけてくれ」
「うん、わかった」
そう言って踏み出した蒼龍に続き、私も気を引き締め後に続く。けれど、その時―――
「ちょっと待て」
一番後ろを歩いていた橙馬がわたしの一歩前、蒼龍との間に躍り出、わたしを通せんぼするように片手を出した。
「……どうしたの?」
出鼻を挫かれたことに文句を言いかけたが、その表情が険しかったので語気を弱める。
「何か聴こえる……馬の蹄の音、それから沢山の人間の足音……」
「え?」
慌てて耳を澄まし辺りを見渡すが、何も見当たらない。
「……俺には何も聞こえないが……気のせいじゃないのか?」
同じように耳と目を凝らしていた蒼龍もそう言うが、橙馬は首を振った。
「いや、気のせいじゃない。あっちの方向だ」
そう言って指したのは北東の方角。
「橙馬?それってあっちの方に沢山の人達が歩いてるってこと?」
「おぅ、多分……距離が遠いから何人くらいかはわかんねぇけど。雷蒼(ライソウ)、あっちにも山の頂上に向かえる道があんのか?」
「あぁ、あるにはあるが……」
目を瞑り、耳に神経を集中して喋る橙馬に、蒼龍は少し困った顔をして歯切れ悪く答える。
それもそのはずだ。本来だったら目視出来ない程離れた場所の音なんて、例え大きな音だったとしても何の音なのかなんて聞き分けられない。
けれど、昔から橙馬のことを知っているわたしは橙馬の耳がすごく良いことを知っている。例えば、家の前から屋内の包丁の音を聞いて、それが橙馬の嫌いな青物を切っているということが判ってしまうくらい橙馬は耳が良い。
「蒼龍、橙馬はとても耳が良いの。普通なら聞こえない距離の音も聞こえるくらい」
わたしは、橙馬の邪魔にならないようこそりと耳打ちするように蒼龍にそう伝える。けれど声量を抑えたところで橙馬には聞こえてしまっているのだけれど。
「じゃあ、多分オレ達みたいに炎家の領地に行こうとしてるやつだと思う。段々西に移動してってる」
尚も音に耳を傾け、出来る限りの情報を伝えようとする橙馬に、蒼龍は「わかった」と頷く。
「少し様子を見てくる。橙馬の言う通り集団が移動しているなら出会す可能性もある」
どうやら、橙馬が言っていることを信じてくれたようだ。
蒼龍は荷物を置き、わたし達に木蔭に居るように促すと、軽やかな足取りで橙馬が示した方角へと向かっていった。
わたし達は言われた通りに、木の陰に移動し腰をおろす。その間に蒼龍の姿はあっと言う間に離れていく。
「それにしても、やっぱり橙馬の耳は凄いね。羨ましいくらい」
「そうか?耳が良いって得なことばかりじゃないんだぜ?」
「そうなの?」
「あぁ、隣の家の奴等が喧嘩してる声とか、じいちゃんの鼾とか聞きたくないもんまで聞こえるしよ」
「あー、あれは確かに凄かったね」
肩を竦める橙馬に、わたしも苦笑する。一緒に住んでいたことがあるわたしはどちらも知っている事だった。耳が良いとか関係無く五月蠅いと感じるんだから、耳が良い人からすればたまったもんじゃないだろう。
「だろ?眠っちまえば気にならねぇけど、夜中に目が覚めたりすると、もうぜってぇ寝れねぇんだ」
「それは辛いね」
「じいちゃんの鼾なんか毎晩のものだからさ、なるべくじいちゃんより早く寝るようにしたり、布団被ったり、耳栓したりしてさ……」
今まで橙馬の耳の良さについて話したことは無かったので、何気なく話し始めたその話題は、突然失速した。滑らかだった橙馬の言葉は尻すぼみとなり、最後には次の言葉に繋がらなくなってしまう。
もう失われてしまったものだと、気付いてしまったから…………
「――――橙馬は、わたしが泣いていると一番に気付いてくれたよね?」
二の句を継げずに俯いてしまった橙馬の代わりにわたしは口を開いた。
「それで、俺がいるから泣くなって撫でてくれたよね?あれもやっぱり耳が良かったから?」
そう言って暗くなった空気を振り払うように笑んで、橙馬の手を取る。
昔はあんまり変わらない大きさだった掌。今は随分大きくなり、節榑立った男の人のものに変わっていた。旅に出てからは尚のことだが、闘いの訓練を繰り返していることで固くなった豆が目立つ。
「……あれは別に耳が良いとかは関係ねぇよ」
「違うの?」
「…………なんとなく泣いてんじゃねぇかなってそんな気がしたから」
気恥ずかしそうにそう言う。
わたしはお父さんが亡くなってすぐに長老様が住む橙馬の家に一緒に住むことになったけれど、橙馬と部屋は違っていたし、わたしが泣いてしまうのは誰もいない独りの時だったのに、橙馬は必ずどこにいても直ぐに駆け付けてくれた。
それは一番最初、お父さんが亡くなった翌日の夜中、ふと目が醒めて自分が知らない場所にいることで家族がいなくなってしまったことを実感して思わず泣いてしまった時ですらそうだった。
握ったままだった橙馬の手を無理矢理わたしの頭の上へと引っ張って乗せてみる。
「あっ、おい!ちょっと……」
わたしの突然の行動に橙馬は驚いたみたいだったけれど、わたしは逃げようとするその手を両手でがっちりと掴んで、撫でるように動かしてみた。
やっぱり昔とは違う感じだけれど、その温もりや感触は、蒼龍のものとも違って、どこか懐かしいと感じる。
「ねぇ、橙馬。これからもわたしが泣いちゃったらさ、昔みたいに撫でてくれないかな?」
抵抗しても仕方がないと思ったのか、されるがままだった橙馬の手は、何度か撫でるように無理矢理動かされる内に段々と彼の意思が宿る。
「解った……じゃあその代わり、泣きたくなったらオレのとこに来いよ。…………オレが探さなくても済むように」
「うん!」
薄暗かった辺りが段々と白み始める頃、蒼龍は戻ってきた。
「おかえりなさい、蒼龍」
「あぁ、今戻った」
「どうだった?」
「あぁ、橙馬の言う通りだったよ」
「まさか、樹仙導か?」
「いや、違う。……あれは、炎家の軍だ。俺が見たのは殿に近い後方の隊だったが、炎家を示す軍旗が掲げられていた」
「炎家……」
炎家。現在の世においての有力者で冷酷だという炎黒麒を主とする国。前の街を出て直ぐの森の中で蒼龍から聞いた話を思い出す。
「別に悪いものではない。樹仙導討伐のため遠征に出てた軍が一度帰還するんだろう」
「でも、出会したらまずいことに変わりはないんだろ?」
二人の視線がわたしへと向く。
相手が誰であろうと人が多くいるところはわたしがいる以上避けなくてはならない。
「これ以上時間を使うわけにもいかない。迂回も出来ない。橙馬の耳を頼りに、追い付かないように距離をとって進もう」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます