第七幕 奇跡の子

 目蓋の裏にまで届く瞬き。

 今何が起きているのか、目視することは出来ないが、判る。

 怪我で虚ろとなった意識の中で見たあの優しい輝きと女人の姿は、やはりてんげつだったのだ。

 朧気な意識ではあの女人は年上に見えたが、それは怪我で朦朧としていたからだろう。

 その証拠に瞑った眼の向こうに感じる光はとても心地好く温かい。


「……もう、目を開けていいですよ」


 そう声をかけられ、目を開くがそこにもう光はない。目を瞑る前と同じ景色が広がっているだけだった。


「疲れていらっしゃいませんか?お茶淹れますね」


 そう言って額の汗を拭った天月のほうが余程疲れているように見える。

 確かになんとなく全身に気だるさがあるが、へばってしまうようなものではない。

 さっと身を翻し小走りに台所へと駆けていく背中に、余計な事は言わずに礼を云った。

 怪我は残すところ骨折のみとなり、後は養生するしかないと云われていたが――数日前、突如天月は新たな治療法を行うと告げた。

 きっと俺の焦りが彼女に伝わってしまったのだろう。それで掟を破ってまで特別な治療をしてくれる気になったに違いない。

 天月が行ってくれる特別な治療は、効果絶大だった。些細な動きでも感じていた痛みは驚くべき早さでひいていった。以前と変わらず添え木をして吊ってはいるものの、たった数日で痛む事は無くなってきていた。


「おいっ!げっ!」


 治療を終え、天月が淹れてくれたお茶を戴いていると、戸口の方から不躾に声が響いた。


「……は、はい!」


「じいちゃんが呼んでる」


 天月が返事を返す前に、聞こえた声はずかずかと室内に上がりこんでくる。

 くうとう殿。

 天月の幼馴染みで、この村で天月以外に唯一会った事のある人物だ。この隠れ里の長老殿の孫息子だという。


「とっ、橙馬!勝手に入って来ないでよぅ!」


 天月が頬を膨らまし講義するが、空橙殿は鼻を鳴らして何故か俺へと視線を寄越した。俺はその視線に挨拶を返したが、空橙殿は目線を逸らしただけだった。


「長老様が……何の用かなぁ?」


 天月が不安げにそう漏らす。

 空橙殿と相対している時の天月は、俺に対するより口調も態度も柔らかだ。気の許せる相手なのだろう。

 まるで本当の兄妹のようで見ていて微笑ましい関係だと思っていた。


「何の用かなんて、行ってから聞けよ。オレに言われたってわかんねぇよ。……でも、直ぐ来いって言ってたから、急ぎの用みたいだった」


 空橙殿は、ちらちらとこちらを見ながらもそう重ねた。俺の事を気にしているのは明らかだ。無関係の俺に話を聞かれたくないといったところか。


「もしかしてっ、誰か怪我したとか……」


 急かされると、天月はぶつぶつと呟きながら踵を返し、そのまま出ていこうとする。

 最近解った事だが、天月は何かに夢中になると周りが見えなくなってしまうようだ。だが、その分吸収も早い。歳の割に聡明なのも、生きる術も、医術の知識も、そうやって覚えたのだろう。

 天月の姿が、暖簾の向こうへと消えた後、残されたのは俺と空橙殿だった。


「…………アンタもだ」


 彼とは何度か顔を合わせたが、彼は余所者の俺を避けている節があった。だから、今も天月と共に出ていくと思っていたのだが、わざわざ残ったのには、意味があったようだ。


「アンタも、オレと一緒にじいちゃん所に行ってもらう」


 目は背けたまま、言葉だけが浴びせられる。

 焦茶色の後ろが少し長い髪、少し目付きの悪い目は橙に近い色の瞳をたたえている。体つきは細く服から覗く手足はしなやか、背はあまり高くないがまだ伸び盛りだろう。いつも瞳の色と同じ長い手拭いを鉢巻きのように額に巻き付けていた。

 武人の性で、つい体躯を観察してしまう。

 齢は俺よりも三つ程下らしい。


「しかし、天月に……」


 顎をしゃくって同行を促す空橙殿に、彼女の許可を得なくて良いのか、と訊こうとして――――――冷たい視線を投げ掛けられた。


「アイツが反対するのは解りきってるだろ?アンタいつまでアイツの厄介になるつもりだよ?」


 天月は俺が回復しつつある事を伏せているようだった。異民の身の上でそれが非礼な事なのは承知していたが、恩人の意向に反するのもと思い俺は従っていた。

 空橙殿は、何度か顔を合わせる上でそれを見抜いていたのだろう。彼の言うことは最もだった。


「……では、すまないが、案内してくれ」


 空橙殿は、面白くなさそうに再び鼻を鳴らすと、もう視線すらこちらに向けず歩き出す。

 足早に前を行く空橙殿の後を追いながら、久方ぶりの屋外の空気を吸い、気を引き締める。

 確かに俺は彼女の純粋さに甘えていたかもしれない。



 長老殿の居へと訪れると、姿勢を正し向かいに座っていた天月は、驚きと困惑を顕にした。


「失礼する」

「!?」


 俺の声に反応し、弾かれたようにこちらを向いたかと思えば、直ぐに長老殿へと顔を向ける。謀られたと思ったのかもしれない。


「こちらへ。橙馬、天月を連れて行きなさい」


 長老殿は三つ分の視線を事も無げに受け止める。

 固まったように座していた天月は、腕を引かれて行く。すれ違い際、不安で一杯の眼差しを向ける天月に、いつものように左手を伸ばし軽く撫で、彼女だけに見えるように「大丈夫だ」と唇を動かしたものの、青い顔をした彼女にそれが伝わったかは定かではなかった。


「御挨拶が遅れました事、誠に申し訳なく思っております。らいそうりゅうと申します」


 座るようにと促す長老殿に、先ずは非礼への侘びをと形式に則り深々と頭を下げる。


「儂はこの村のまとめ役をしているくうせいちょう。まずは怪我の回復何よりだ」


 空青殿は、俺の礼に沿うよう、同じように片方の掌に拳を合わせ礼をなさった。

 空青殿は、豊かな顎鬚をたくわえた老齢の男性だった。髪も鬚も同様に白く、座していても腰が曲がっているのは明らかだが、縮んでしまった体躯とは裏腹に威厳を持ち合わせている。


「雷蒼殿。突然お呼び立てして申し訳無いがお主に話したい事があってな…………」


 再度席を勧め、俺が座した事を確認すると、空青殿は朗々と話し始める。


「雷蒼殿は天月のあの力をもう目にしておるな?」


「それはっ…………」


「隠さずとも良い。お主がこの村に運びこまれた時、儂は一度お主の容態をしかと見た。その上で、今の状態を見れば判る」


 嘘を吐く必要も無く、何もかもお見通しのようだった。動揺も反応も全て分かりきっているとでも言うような…………


「仰せの通り。ですが、天月は都度俺に目を瞑らせ、見せないようにしています。ですから、俺も知らぬ振りをしています」


「そうであったか…………天月は余程お主を信頼しておるようじゃな」


 刹那、空青殿の表情が僅かに弛んだ。

 それは、親が子を慈しむ、正にそんな柔らかなものだった。


「空青殿、この雷蒼龍、神名に誓いこの村と天月の力については他に漏らさんと約束致します」


「……そうしてくれると有難い。外から来た雷蒼殿は既にお気づきだと思うが、天月は奇跡の子なのじゃ」


「奇跡の子…………」


「あぁ、本来生まれるはずのない娘子。この村、いやこの世界全体で唯一人の尊き子なのじゃ」


「それは、どういう…………?」


「……うむ。お主には話しても良いかもしれんな」


 空青殿はそう言うと、腰を上げた。

 立ち上がったところで、老いた体は随分と小さかった。


「少し長い話になる…………今茶を淹れる」


 空青殿は、俺の横をゆっくりとした歩みで通り抜けていく。

 俺は背筋を伸ばすと、これから聞かされる話に僅かに身構えた。

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